小説 | ナノ
はっぴーばーすでー
 ほんのりとあたたかい風が春の香りを微かに乗せて連れてくる。その風が華奢な背に流れる美しい紅い髪をふわりと悪戯に宙へとさらっていった。その様は金魚の尻尾のようにゆらゆらと揺れて、地上だというのに水の中にいるような気にさせられる。
 幼馴染である遙が考えそうなことだ、と真琴は思い苦笑を漏らした。付き合いが長いと、考え方も似てくるのかもしれない。
 その赤い尻尾の持ち主は真琴を視認すると、パッと表情に花を咲かせて駆け寄ってくる。そんなに慌てなくても良いのに、と真琴は内心思うものの彼女のそんな愛らしい姿に自然と口元を緩ませた。
「真琴先輩!お待たせしました」
「お疲れ様、江ちゃん。そんなに待ってないよ」
 真琴は更衣室の壁に預けていた背を浮かせ、走り寄ってくる江に微笑みかけた。
 オフシーズンであるこの時期、水泳部は基本的に筋力トレーニングをメインに活動を行っており、それらをこなした他の部員たちは先ほど帰っていったばかりだ。真琴は水泳部部長。江は水泳部マネージャーという立ち位置もあり、ふたりは部活後にも備品を片付けたり部誌を纏めたり、戸締まりの確認をしたりとやることがあるため他の部員たちよりも帰りが少しばかり遅くなる。
 ふたりは毎日そうしているように肩を並べ、職員室へと鍵の返却へと向かう。
 水泳部を設立してから、これはふたりの日課だった。
 最初こそは部長とマネージャー、先輩と後輩として肩を並べていたのだが、いつしか月日が立つにつれ互いを意識し合い、各々の心に恋という淡く、しかし確かな感情を育ててきた。そして夏が終わり、もうプールには入れない季節になった頃、ふたりの関係は恋人へと変わった。
 職員室の入ってすぐの壁に鍵を返した真琴は、廊下で待ってる江と共にまた昇降口へと戻り帰路へとついた。
 ふたりの関係がまだ恋人ではなかった頃は、こうしてふたりきりで帰り道を歩くなど、微塵も考えていなかったなあ、と真琴は隣を歩く小さな赤い頭をちらりと見た。江は鼻先が寒いのかマフラーに少しばかり赤くなった鼻の頭をマフラーに埋めては「う〜」と唸っている。
 彼女の細い首に巻き付けられた淡いピンクのマフラーはクリスマスに真琴がプレゼントしたものだ。それとよく似たモスグリーン色のマフラーが真琴の首にも巻かれている。
 真琴が巻いているマフラーは、江がクリスマスにプレゼントしたものだった。本当にたまたまだったのだが互いを思って選んだマフラーが同じ店のものでメンズとレディスの違いもあって少しデザインは異なるが似たようなものとなってしまったのだ。
 クリスマスの日に真琴の家で互いのプレゼントを開けた時はそれはもううれしくて、おかしくて。真琴と江は顔をつきあわせて笑った。
 あの頃はよく部員みんなで帰宅することが多く、帰り道にはコンビニで買い食いをしたり遙の家に寄って遊んで帰ったりもしたものだ。
 いつだったか、渚の策略でふたりきりで帰らされたことも何度かあった気がする。遙も渚も、ましてや怜も言っていたが真琴と江はそれはもう見てるこっちが恥ずかしくなってしまうぐらいわかりやすく互いを好いていたらしい。それなのに、なかなか発展しないふたりの関係に焦れた彼らが気を利かせてくれて、何度目かのふたりきりの帰り道の時、真琴が告白し、それに江も頷いたのだった。
 懐かしいなあ、とこっそり心の中で小さな笑い声を立てていると、江が「あ!」と思い出したように声をあげた。
「どうしたの?」
「あの、真琴先輩。申し訳ないんですけど、明後日、私一緒に帰れないです」
 真っすぐに真琴の目を見ていた江のくるりと丸い赤いビー玉の瞳が不意に気まずそうに逸らされる。一瞬別れ話かと懸念を抱いたが、そんなはずないと焦りを隠しながら真琴は言葉を身長に選ぶ。
「明後日?それは別に構わないけど、明後日何かあるの?」
 え?と江は少しショックを受けたように表情を強張らせた。気まずそうに逸らされていた瞳がゆらゆらと波に揺れる。
 真琴は江のそんな表情を見て訝しげに首を傾げた。明後日。何か、あっただろうか。ふたりの記念日はまだ先のはずだが。
 胸元がざわざわと波風を立てる。明後日という日に真琴はこれっぽっちも身に覚えがなかった。更には江が何かショックを受けるような約束をした覚えもない。
 ドクドクと嫌に脈打つ心臓の音を耳元で聞きながら、真琴は江の答えを待った。
「あの、明後日はお兄ちゃんが迎えに来てくれるので……」
「凛が?」
 江の言うお兄ちゃんというキーワードにぽん、と真琴の脳裏に彼女にそっくりな自身にとってのもうひとりの幼馴染の顔が浮かんだ。
 彼女の兄である凛は、ここから少し離れた全寮制の鮫柄学園へ通っている。なかなか帰ってきてくれないと、よく彼女は愚痴をこぼしていた。
 凛もまた、自分と同じく、否、それ以上に力を入れて水泳をしているひとりだ。鮫柄は屋内プールがあるため、自分たちとは違ってこの時期も練習に励んでいるはずだから、そう簡単に帰っては来れないと思うのだが。
 そう思って真琴がその疑問を音にする前に彼女がその疑問の答えを教えてくれた。しかし、その答えが予想外のもので、真琴は驚愕の声をあげることとなる。
「明日、私の誕生日で……お兄ちゃんがこっちに帰ってきた時から誕生日は絶対一緒にいるって約束していたんです」
「え、ええ!?江ちゃん、明日誕生日なの?」
「へ……?はい、そうですけど……教えてませんでしたっけ?」
 きょとりと外された視線がまた真琴へと戻る。
 愕然とした表情で真琴は江の丸められた瞳を凝視した。恋人になったのはここ数ヶ月の話だが、彼女との付き合いはもうすぐ一年になる。それなのに真琴は全く知らなかった。なぜ彼女の誕生日を聞き忘れていたのだ、と真琴は過去の自分を呪った。



 もうすぐ春がくるなあと生温い風を微笑ましく思っていたというのに、そんな昨日とは打って変わって本日は雨。しとしとと降る雨水は遠のき始めていた冷たい空気をたちまち連れ戻してきたようだ。
 今日は雨だから部活はやめにしようかと考えていたのだが、江が朝っぱらに寄越したメールには部室内または校内を使って筋トレをしましょうと記されていた。筋肉をこよなく愛す彼女らしいと真琴は頬を緩めたのだが、正直言って、今はそれどころではなかった。
 昨日告げられた衝撃の事実に頭がパンクしそうだったのだ。お陰で、昨晩は全くと言って良い程眠れず、普段授業中に居眠りをしない真琴がこくりこくりと船をこいでしまった程だ。いつもだったら授業中に居眠りをする遙を起こすのが真琴の役目だというのに、今日ばかりは真琴が遙に起こされる羽目になってしまった。

「ええっ!まこちゃん、江ちゃんの誕生日知らなかったの!?」
 身に染みる鋭く冷たい空気に満たされた部室内に渚の素っ頓狂な声がとてもよく響いた。外に誰か人がいたら驚き飛び跳ねていたであろう。
「……知っているのかと思ってた」
「まさか真琴先輩が知らなかったとは思いもしませんでしたよ」
 明日に江の誕生日を控え、頭を悩みに悩ませ万事を尽くした真琴は、情けない表情を顔面に貼付けながら部室でその話を仲間たちに打ち明けた。
 江は今週、クラスの掃除当番があるらしく部活には遅れてくると聞いているのでまだ姿を見せていない。
「みんな知ってたなら教えてよ〜!」
 皆知らなかったと思っていたのに、三人からは予想外の反応を返され、自分だけ知らなかったという事実を深々と胸に突きつけられる。
 真琴はショックを隠しきれず、情けない声をあげて皆を責めた。
「知ってると思ってたんだよ!だから江ちゃんの誕生日会は後日に開くことにして、当日はまこちゃんに譲ろうと思ってたのにー……」
 渚が非難じみた言葉をぐさぐさと真琴に突き刺す。泣きたい。なぜみんなは知っていて彼氏である自分が知らなかったのだ。後悔という二文字を胸に書きなぐりながら真琴は項垂れる。
 今更、みんなを責めたってしょうがないことぐらい真琴はわかっていた。むしろ、知らなかった自分が罪なのだ。
 真琴は大きな体を丸め、その場にうずくまった。どうしよう。プレゼントも何も用意していない上に、江は明日凛と共に過ごすと言っている。
 どうしたものか、と垂れ目の端っこから涙が溢れそうになっている図体のデカい幼馴染の姿を見かねた遙は、はぁ、と短く溜息を漏らした。つくづく、手のかかる幼馴染だとでも言うように。
「真琴、江の誕生日は明日だろう。まだ時間はある」
「……うん。そうだよね、今日プレゼント探しに行ってくる」
「良いものが見つかるといいですね、真琴先輩」
「…………うん」
「まこちゃん、ふぁいと〜!」
 三人の応援を背に浮け、真琴は一つ大きな溜息を吐き出した。
 江が来たら、今日は一緒に帰れないと伝えよう。
 しょんもり、と真琴のトレードマークでもある八の字眉を更に下げて、脱ぎかけのシャツのボタンに手をかけた。

 ◆

「はぁ……」
 鉛を含んだ溜息がぼとりと真琴の口からこぼれ落ちる。それはとても重たいものだというのに、真琴の口からこぼれたそれは軽く、白い吐息へと変わり店へと登っていった。
 コートのポケットから引っ張り出した携帯を開くと時刻は二十三時五十五分を記しており、ちゃくちゃくと江の誕生日へのカウントダウンを刻んでいく。
 江の家から近い街へと出てみたものの、田舎の街では九時頃にはだいたいの店が閉まってしまう。
 女の子が好きそうな雑貨屋から普段からふたりで行くスポーツショップまで覗き込んでみたものの、結局真琴は江へのプレゼントを見つけられず、手ぶらで江の家の前へと来ることとなってしまった。
 江の部屋がある辺りの窓を見上げるとぼんやりと淡いオレンジの光がカーテンの隙間から漏れているのが伺えた。普段ならそろそろ彼女も就寝する時間のはずだから、寝てしまったのかもしれない。
「……どうしよう。今日だって一緒に帰ってあげられなかったのに……江ちゃん、明日は凛と過ごすって言ってたしなあ」
 手の中にある携帯の時刻をまた確認すると江の誕生日まで残り三分を切っていた。
 起こすのは忍びないけれども、出来ることなら一番に彼女へ祝福の言葉をあげたい。プレゼントは間に合わなかったけれども、せめて、言葉だけでもと思ってしまうのは都合が良いだろうか。不安がしんしんと心に降り積もるが、江はそんなことでがっかりするような子じゃないことぐらい真琴もわかってはいるのだ。けれども、彼女の誕生日を知らなかったという罪悪感もあってか、どうにも不安になってしまう。
 残り二分。
 迷ってる暇はもうない。駄目なら駄目で、メールを入れて、明日の朝一に電話をかけよう。
 真琴は手の中に収まっている携帯を弄り、江のアドレスを呼び出し、決意を固めて通話ボタンを押した。時刻は二十三時五十九分をさしていた。
「……もしもし?」
「江ちゃん!?」
「え、はい、江ですけど……真琴先輩、どうしたんですか?こんな時間に」
 右耳から静かな江の声が鼓膜を揺さぶる。彼女はまだ起きていたようだ。腹の底から込み上げてくる喜びに、真琴は携帯を持つ手に力を込めた。
「あの、江ちゃん。少しだけ時間あるかな?」
「はい、大丈夫ですけど……」
 不思議そうな声を耳元で聞きながら、真琴は左手首に巻き付けてあるオレンジの時計に視線を落とした。あと三十秒。
「江ちゃん、部屋の窓、開けて」
「窓?」
 シャッと気持ちの良い音を立てながらカーテンが引かれ、ガラス窓越しにもう寝る仕度を済ませた江と目が合う。
 ゆっくりと驚き見開かれた赤がゆらりと揺れた気がした。少し距離があるから、目の悪い真琴からはよく見えないことがもどかしい。
「ま、真琴先輩!?なんで、どうして、ここに……」
 カチリ。時計の秒針が零時をピタリと示す。
「江ちゃん、お誕生日おめでとう!」
「……嘘……そんな、」
「こんな時間にごめんね。プレゼントも、何も用意出来なくて、本当にごめん。でも、どうしても一番におめでとうって言いたくて、来ちゃった」
 ビックリさせちゃったかな。苦笑を漏らしながら真琴がそう言うと、江の赤い瞳からボロボロと雫がこぼれおちた。
「ありがとうございます、先輩」
 泣くのを堪えるように江は両手で口元を隠すが、声は震えていて真琴には泣いているのがバレバレだ。
「プレゼント、週末一緒に買いに行こうか」
 江は必死に流れ落ちる涙を水色のパジャマの袖で拭いながら首を振る。ポニーテールにしていない長い髪がさらさらと宙を舞った。
「そんなの、いいです。真琴先輩がこうやって一番におめでとうって言ってくれたから、十分です」
「でも……」
 江はいい、大丈夫と突っぱねるが、真琴はどうしても嫌だった。なんと言っても、彼女の誕生日を過ごすのは今回が初めてだ。しかも、明日は凛に一日江を独り占めされてしまうことを考えるとどうにも引き下がりたくない。
 諦めの悪い真琴の様子に、とうとう江が折れた。
「それなら、真琴先輩を私にください」
 ドクリ、と心臓が大きく脈打つ。一瞬にして真琴の体温は急上昇し、先ほどまでは寒いと思っていたのに今は熱くてたまらない。
 彼女の言葉の意味を必死に解釈しようとするが、うまく頭が動いてくれず、ただただ顔を赤らめることしか出来なかった。それと同じぐらい、江の頬もまた紅色に染まっていた。
「……今日、お母さん夜勤で帰ってこないんです」
「え、待って、それって、江ちゃん……本当にいいの?」
 つまりは、そういうことなのだろう。
 真琴と江は、つきあって日も浅いせいか未だ体の関係まで進んではいなかった。真琴だって健全な男子高校生なのだから、そういうことにはとても興味がある。もちろん、江とだって繋がりたいと願っている。しかし、真琴はなかなかその先へは進めないでいた。正直言うと怖かった。たがが外れてしまった時、江を傷つけはしないか、泣かせてしまわないか、無理をさせてしまわないか、不安だった。
 それなのに、まさか自分からお誘いをかける前に彼女から仕掛けられるなんて思ってもみなかった。
「私が欲しいって言ってるんですから、いいんです!誕生日ぐらい、我が儘聞いてください」
 むくれて唇を尖らせる江が可愛くてたまらず、真琴は笑みを浮かべた。
 彼女がご所望ならば、それが例えなんであろうとプレゼントしよう。そして、今夜は彼女をめいっぱい甘やかしてあげよう。
 真琴はそう思い、江が玄関を開けてくれるまでの幸せな空気を噛み締めた。



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