小説 | ナノ
カノジョノオモワク
 ガチャリと鍵の開く音が聞こえ、レンは読みふけっていた雑誌から視線を上げた。
 テーブルの上に置いてあったスマートフォンへ手をのばし、時刻を確認すればもうすぐ日付が変わる時間帯だ。
 遅くなるとは言っていたが、彼女にしては遅すぎやしないか。
 カチャリと静かな音を立て、リビングの扉が開かれる。スマートフォンを元の位置へ戻しながらそちらへと視線を向ければ予想していた通り、恋人である七海春歌がそこに立っていた。ここへ帰ってくる人物などひとりしかいないので疑う理由もないが。
 今年の春から同棲を始めた可愛くて仕方ない恋人の帰りがこれほどまでに遅くなることは少々珍しく、心配で眠る気にもなれなかった。
 彼女から今日は仕事の打ち上げなのだと連絡が入っていたので咎めることはできず、なんとも言えないこの沈んだ気持ちをぐっと喉元へ押し込める。仕事は仕事なのだから、仕方が無い。レン以外の男というものを知らない彼女は酷く無防備な人で、打ち上げという場所に行かせるのはとても心配ではあるが、それを露骨に表情に出す程レンは子供ではなかった。
「おかえり、ハニー。今日は随分と遅かったね」
 ソファに腰掛けたまま、レンは言う。
 春歌はふらふらと覚束無い足取りでレンの元へと寄り、そのまま抱きついた。否、抱きつくというより飛びつくという表現のほうが正しいかもしれない。
 彼女らしからぬ大胆な行動にレンは驚き、受け止める準備をしていなかった体は彼女共々ふかふかのソファに倒れ込んでしまう。
 一体どうしたというのだ。動揺したレンは一瞬何が起きたのか理解出来ず、脳の思考が一時的に停止した。
 ぽかんと間抜けに口を開けたまま春歌を見上げていれば、レンの胸元から顔を上げた彼女は満足げにへらりと頬を緩ませた。というか、この状態はとてもまずい。
 彼女の体はとても華奢で別段重いと思わないが、いろんな意味で苦しい。馬乗り、所謂押し倒された状態なわけだ。ベッドでふざけている時なんかはいつも自分が見下ろす立場であり、彼女からこうやって見下ろされる経験は今回が初めてだ。
 付き合ってから長い上に同棲もしているが、レンと春歌は未だにそういう関係まで進んでいなかった。そろそろ我慢の限界だな、と思い始めた矢先の彼女からのこのような行動はとても心臓に悪い。
 彼女から大胆なことをされるのは願ったり叶ったりなのだが、いざそういう事態になるとどうして良いのかわからず慌ててしまう自分がちょっとかっこわるいと思う。
「ダーリン!たらいまれす!」
 掌から伝わる彼女の体温が普段よりも幾分か熱く、漸くレンの思考は呼び戻された。
「おかえりハニー……たらいま?」
 にへら、と顔を赤く染めて舌ったらずな調子で喋る春歌は、そのままレンの頬に自分のそれをスリスリと擦り付けた。その様はまるで猫のようだ。しかし、その際アルコール独特の香りが鼻孔をくすぐり、レンは漸く合点がいく。
 打ち上げで断り切れず酒を飲まされたに違いない。
 先日成人を迎えた春歌は今まで真面目な人生を送ってきたため、酒など一滴も飲んだことがないと彼女の誕生日にレンはそう聞いた。
 自宅でレンが酒を飲んでいても、外食しに行ったときでも、春歌は隣でにこにこと烏龍茶を飲んでばかりだったので、春歌が酒を飲んでいた姿はレンは一度も見たことがない。
 なんとなく、春歌に酒は似合わないものだと思っていたし、きっと弱いのだろうと思っていたレンだったが、こんな状況でよく帰ってこれたなと妙なところで関心してしまう。
「ハニー、お酒飲んできたの?」
「はい!お酒って、気持ちよいれすね〜」
 こてんと首を傾げ、無防備にもふにゃりと笑う春歌は今すぐにでもがっついてしまいたくなるほど可愛い。本当に、よく無事に帰ってこれたものだ。
 それにしても、こんなにも可愛い彼女の姿を自分よりも先に見た者がいると思うとあまり良い気分はしない。
 頬擦りに飽きたのか今度はレンの首筋当たりに鼻面を押し付けてすんすんと匂いを嗅ぎ始める彼女の頭をゆるりと撫でながらそう思う。
「誰かに送ってきてもらったの?」
「一ノ瀬さんが、おくってくれました」
「イッチー?」
「はい、いっちーれす!」
 春歌は陽気にふたりの同期であるトキヤをレンが呼ぶ愛称で繰り返した。
 そういえばトキヤが主演のドラマの打ち上げであったことをレンは思い出す。
 トキヤのことだから間違いは起こさないであろうことはわかってはいるが、彼も男だ。トキヤには悪いが面白くない。
 まあ、間違いもなくちゃんと春歌を家まで届けてくれたことには後で礼を言っておこうとレンは心に決め、一先ずこの状況をどうしようかレンは考えた。
 春歌は気持ち良さそうにレンの胸へ頬を擦り寄せている。まるで子猫のようなそんな仕草が可愛くてたまらない。だが、とても心臓に悪い。むくむくと立ち上がる欲を煽られている気分だ。
 切れてしまいそうな理性はレンは必死に繋ぎ止めるように春歌の肩を押し、密着するふたりの身体に空間を空けた。
「ダーリン?」
「ハニー、そうやって甘えてくれるのは凄くうれしいんだけど、今はちょっと……」
「駄目、ですか……?わたしは、もっとダーリンと触れ合いたいです」
 むうっと頬を膨らませてむくれてみせる春歌に、レンは増々困った。
 いっそもうぶっつりと理性を切ってくれたほうが楽になれると思えるぐらいに。
「ダーリン、私のこと、きらいですか?」
 蜂蜜のように蕩けた瞳をうるうるさせた彼女は極上スイーツのようだ。甘いものは苦手だけれど、彼女なら胸焼けすることもないであろう。
 ――ああ、もういっそ楽になってしまおうか。
「そんなはずないだろう、好きだよ春歌」
 偽りのない言葉でそう告げると、彼女はうっとりと目を細め、唇をレンのそれに押し付けた。更にはたどたどしくも舌を入れ、絡めてくる。
 一瞬、ほんの一瞬だけ、もしかしてという考えが閃いた。
「ダーリン、抱いてください」
 お酒は飲んだであろうが、もしかしたら彼女は酔ってはいないのかもしれないという、有り得もしない都合の良い考えが。

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