距離感 「なんかやけに近くないですか、二人とも」 社内の皆が出払っているそんな時、ふとツェッドさんが放った言葉の意味が最初はわからなくて。距離感がおかしいだとか、互いにそれが鈍っているだとか。彼にとっては新鮮であり、自分たちにとってはそれがもう当たり前だった事を改めて、この距離が他人からしてみればおかしいんだと知った。 「あ?何がだよ、つーかいつもこんなんだぜ、なあレオ」 ソファーに二人座っているものの、問題はその位置で。寛ぐザップさんの太股の間に同じように寛ぐぼく。ツェッドさんは異様な光景でも見るかのように一定の距離を置いての困り顔。そんな光景がおかしくて、ついつい笑ってしまう。 「ふふ、まあ確かに近いかもしれませんね」 かと言って今更離れる気もなくて、少し浮かせていた背中をザップさんの胸元に預けるようにして寄り掛かる。ツェッドさんは一瞬唖然とした表情をしながらも、それから咳払いをして早口で話し出した。 「全く、こんな危険人物と嫁入り前の女性がこんなに密着しているだなんて気が気じゃありませんよ、世も末ですね、それはそうと僕は昼食にでも行こうと思っているんですけど…お二人はどうしますか?」 「あー…今はいいわ」 ザップさんが今はよくても、おれはそろそろ腹減ってるんすけど。そう思って、「じゃあぼく行きます」と言ってツェッドさんについていこうと身体を再び浮かせようとしたけれど。言葉を発する前に、身体を浮かせる以前に、腹に回った腕が思ったより力強いのに気が付いてそれは出来なかった。まるで、引き止めるみたいに。 「あ、ぼくも後にします」 「わかりました」 出掛けようと背を向けたツェッドさんの右肩に、すかさずソニックが飛び乗る。君も行きますか?と言う彼の表情が明るくなるのを確認して、ついでに一緒に連れていってもらう事にした。バタン、と扉が閉まるのと同時に訪れる静寂。腕の力はまだ弱まっていなかった。 「…で、どうかしたんすか」 そう問えば、ぐ、と右肩に頭を押し付けてくるザップさん。まるで溜め息のような息を吐き出してから、その髪を軽く掻き回してもびくともしない。一体このものの数分で、この人に何が起こったというのだろうか。全く心当たりも検討もつかない。そもそもこれはおれが思っているだけでもしかしたらもっと前からこんな状態だったのかもしれない。 「なんもねーよ」 「何もない人が人の肩に頭押し付けるんですか」 「俺がそうしたいからしてんだ、悪ぃか」 「別に悪くはないですよ」 ただ少し重いかな、て。そう言えば、何が面白かったのか途端に「ぶふぉっ」と吹き出して、だろうな、と笑った。 「は、あー…そういやおめぇよ、」 伸びたな、と。不意にザップさんが肩から顔を上げて、後ろで背中を覆った長い髪を指にくるくると絡めながら言った。 「そういえばそうっすね、また切ろうかなとは思ってるんですけど」 「あんでだよ、勿体ねぇ」 HLに来る以前、ミシェーラを含む家族一同に口を揃えて言われたのは男の振りをしていろという事だった。何が起こるかわからない、何が起こってもおかしくないこの街で、生きていく為に必要な最低限のせめてもの助言。男と偽る方が何かと都合がいいだろうからと、そう言われてそれまで長く伸ばしていた髪を短く切ったのはその時だった。 「長い方が似合ってんよ、お前」 「…どういう風の吹き回しっすか」 けらけらと冗談混じりに、ザップさんは笑いながら絡めた指はそのままで。そういえば、と何かを思い付いたようにふと言葉を溢す。 「レオお前、男の振りしてこっち来たんだよな?」 「そうですけど…それが?」 「いや、もういいのか?しなくて」 言われて、ああそういえば、と気が付く。いつのまにかそんな事、していた事すら忘れていたんだと。一人でいた時はあんなに懸命に、周りに女だとバレないように必死に隠していたものだというのに。今ではそんな事微塵も考えていないし、それに、もうするつもりもなかったから。 「…ょ」 あれだけ男になろうって思っていたのに、あれだけバレるものかと思っていたのに。いつのまにかそんな事すら忘れていて、思えばあの日からだ、もういいんじゃないかって、思い始めたのは。 「あんだって?」 「っ…だから、する必要…なくなったんですよ、」 だってこんな傍に、守ってくれる人が出来たから。おれに何があったって、アンタがおれを守ってくれるんでしょう。おれがどこにいたって、アンタはちゃんと駆け付けてくれるから。だからもう、自分の性別を偽って生きなくてもいいんだと、おれを守ってくれていたのだと知ったあの日から、そう思っていたのだ。 「ザップさん、アンタがいるから」 「俺?」 「ぼくはもう、あんな事しなくったって大丈夫だと、そう思ったんです…だって、守ってくれるんでしょう?」 嗚呼、なんだこれ。無性に顔が熱い。伝える事に夢中になりすぎていたせいなのか、いつのまにか身体ごと、ザップさんの方を向いていた。顔を覆う為にあげた手を、いとも簡単に掴まれる。今思えばなんて恥ずかしい言葉を口走ったのだろう。甘ったれるなと、怒られるのが目に見えている。そんな甘い考えではこの先この街で生きてなどいけるものか、もっと、もっと強くならなければいけないのに。こんな、守ってもらうのが当たり前だなんて。 「…やっぱ、距離が近すぎんのも考えもんだよな」 どうせならもうちっと近付いてみるか、と。掴まれた顎と目前に迫る顔。声を出す隙も、抵抗する隙もないまま。ずっとそんな事考えてたんすか、って。言わないうちに気が付けば、近付きすぎて、離れられなくなっていた。 |