はなれないで
あいつがおれに突っ掛かる事や喧嘩を吹っ掛けるような事をしなくなったのは、多分おれが女だってのを知ってからだ。知る前と知ったあと、よくよく考えてみればあいつの態度が違うのなんてどっからみても明白で。気づいた頃にはもうすでにいつの間にかあいつは優しかったし、それと同時におれと距離もとっているんだというのも知った。勘違いかもしれない、けれど疑問に思うにはあまりにも十分な時間が経っている。


「山崎」


とある昼下がりに偶然といっても過言ではないくらい久々に見たあいつの後ろ姿に、おれは咄嗟に声をかけた。まあ久々といっても隊士逹の招集があれば何度か見掛けてはいたんだけど。ちらほら姿を確認するだけで今みたいに面と向かって顔を会わせる事は本当に久し振りだった。


「よお、ひ、久し振り…だな?」


久々すぎて何を話せばいいのかわからない。前はあんなにも、うるさいくらいに怒鳴り合ったりしていたのに。ああそういえば土方さんもおれたちの喧嘩がなくなった事を不思議がってたっけ。「また喧嘩か?」なんて、してもしなくてもどっちにしろ喧嘩してると思われるんだもんな。…なのに今じゃ話し掛けるのも一苦労だ。


「井吹か…体調はどうだ?」
「は?ああ…いや特に悪くはない」
「そうか、ならいい」


そう言い残してくるりとその場を去ろうとおれに背を向けるもんだから、しかもそれがあまりにも自然だったからすかさずその肩を掴んだ。


「ちょっ、ま、待てよお前なあ…!」
「俺に用があるのか?なら後にしてくれないか、生憎今忙しいんでな」
「…っ!?」


ぐ、と息を呑む。事態はあまりにも重症のようだ。距離をとる、それ以上にこいつはおれを明らかに避けていた。それはもう、酷いくらいに。まるで初めて出会った時のようだ。けどあの時のような、おれを毛嫌いするような眼差しは向けられてはいなかった。なのに肩を掴んでいた手は呆気なく振り払われて。残ったのは廊下に呆然と立ち尽くしたおれだけで。


「…おれ、なんかしたっけ?」


わけがわからなくて仕方がない。なのに間違いなく、それは明らかな拒絶だった。










「オラどうした龍之介、元気ねぇじゃねぇかよ?」


夕食は半分やけ食いだった。永倉に肩を掴まれながら、普段は断る酒を一杯飲み干して。これだけで思考が定まらないくらいに酔えるんだから、今日だけはそれが救いだった。


「新八、あんまし龍之介に酒飲ますんじゃねぇよ」
「あーこいつ弱ぇもんなあ」


ケラケラと笑う酔っぱらいは置いておいて、フラフラとした足取りで立ち上がって部屋を出ようと襖に手をかける。流石にこんな状態のおれを心配に思ったのか土方さんが「どこ行くんだ」と言って睨んできた。いつものおれならその顔にビビるんだろうけど、思考の安定しない今の状態じゃそんなのへっちゃらだった。


「寝る」


それだけを言い残して、部屋まで送ると言い出した原田を断りその場を離れる。廊下に出ると風が案外冷たくて身体がぶるりと震えた。これならすぐに酔いも冷めてしまうだろう。静かな廊下をギシリギシリと音を立てて歩いていると、ふとぼんやりと明かりの灯った部屋が目に映る。そこは紛れもない、山崎のいる部屋だった。


「(ほんとに忙しいんだな)」


ぼんやりと眺めていると不意に襖が開いて部屋の主が顔を出す。あまりにも突然すぎたせいもあり、目が合うと自然に足が後ろへ退く。今日の事が一瞬頭を過って妙に気まずい。山崎も、驚いたように目を見開いていた。


「あ、これは…その、」


一歩、また一歩と後ろに退く。そのおかげで縁側のぎりぎりに退くまで気が付かなかった。


「井吹!!」


山崎が、おれの腕を掴む。力いっぱいに引き寄せられて、痛みなんか考える暇もなくおれの身体は山崎の腕の中におさまった。その拍子に山崎がおれを抱えたまま尻餅をつく。こいつの鼓動が直接、胸に顔を埋めたままのおれの耳に伝わる。とても速かった。


「っ君は、もっと回りに注意をだな…!」


その時また、こいつに、山崎に拒絶された事が脳裏に過る。そうなる度に心臓のあたりが締め付けられるみたいに痛くなった。痛くなると、苦しくなる。ぎゅ、と自分の胸元を掴みながら出てきたものは「悪い」とかそんなんじゃなくて、ただ「やまざき、」と小さく絞り出すかのように溢したこいつの名前だった。きっと酔っているのもあるんだろう。山崎の驚く表情が目に浮かぶ。けれどそれ以上に突き放されない事に安堵している。おれが何かしたなら謝るから。だからこれ以上はもう、おれから離れないで。無意識に山崎に抱きついていたのと、思っていた言葉が口から出ていたのかもわからない。背中に回ったこいつの腕は心地いいし、いつの間にか部屋の灯りが消えていた事にも気付かないくらいだ。それくらい必死だった。強く抱き締められていて苦しいはずなのに安心するなんて変な感じだ。いっそもうずっとこのままでいたい。


「…芹沢局長や土方副長、他の幹部の人達が部外者である君をどうしてこんなにも大切に扱うのか不思議だったんだ」


静かな部屋で、山崎の声が耳に響く。


「危なっかしくて放っておけないんだ…俺もそうだから」


抱き合っているおかげで身動きがとれない上にこいつが今どんな表情をしているのかもわからない。出来るのは山崎の声を聞く事と着物に顔を擦り寄せる事くらいだ。


「だから、俺も君を守りたくなった。守らなければならないと思った…」


けれどどうすればいいのかわからなかったんだ。監察方である俺に出来る事なんてたかが知れている。俺には見守る事しか出来ない。ならいっそ離れて遠くから見守ればいい。


「だからって、離れる理由がわからない」


ただ守りたいだけなら別に離れる必要なんてない。傍で見守る事だって出来るじゃないか。そう言えば山崎は小さく息を吐いていっそうおれを強く抱き締めた。


「俺も案外単純な男なんでな…君が女だと知ってああ成る程、と思った」


部屋に、山崎の声が響く。その声音はまるで苦笑しているかのようだった。


「俺が君を放っておけない、守りたいって思うのはただ単に、君に好意を寄せているからなんだ」


まるで逃がしはしないとでも云うように、おれを抱き締めるこいつの腕の力はとても強い。やっぱり男なんだなあ、と改めて実感する反面心臓の音がやけにうるさい。誰のかなんてわかりきってる。


「…それってさ」
「うん?」
「どう云う意味でだよ」


無理矢理、けれど離れないように。ゆっくり顔を上げて山崎を見上げる。声音は案外平気そうだったのに思っている事が表情に出るらしいこいつは不安そうにおれを見つめていた。


「どうと言われてもだな…そのままの意味なんだが」
「そ、そのままって、言葉にしないとわかんないだろ」


我ながら意地の悪い問い掛けだと思う。けどおれを避けてた罰だ、ちゃんと口で言ってもらわないと気がすまない。


「…いいのか?」


思ったよりも顔が近い、なんて今更だ。


「なにが、だよ…っ」


頬に手を添えられると自然に身体が強張る。小さく身動ぎしたおれの様子を窺いながら山崎は、ゆっくりと顔を近付けてくる。反射的に目を閉じると耳元に感じる吐息に唇を寄せたのを知り、自然に息を止めた。


「井吹」
「っ、」
「好きだ」


耳元に直接伝わる吐息に。胸が苦しくて、痛くなる。途端に柔らかいものが唇に押し付けられて、山崎の舌がおれの唇を舐める。ピリピリと身体が痺れたみたいに力が抜けて、止めた息も苦しくなって全部吐き出した。唇を舐めていた舌が口内に入ってきて舌先が歯列をなぞる。口内を念入りに犯されている感覚にぞくりと背筋が粟立つ。それがすごく苦しくて、苦しくて。舌が絡み合って耳に伝わる卑猥な水音も、吸われる唾液も全部。おかしくなってしまいそうだ。生理的に流れ出る涙は拭えない。細く目を開くと山崎の顔。おれは接吻なんてした事ないからよくわからなかったけど、好きなら奴なら気持ちいいって言ってた原田の言葉がようやく理解出来た。ああおれ、こいつの事好きだったんだ。


「(おれも、)」


だから伝えなきゃ、そう思うのに。出てくるのは涙とそれの入り交じった短い吐息の音だけで。言葉なんか出てきやしない。好きだよ、好きなんだ。心の中ではそう何度も繰り返すけれど。


「井吹?」


遠くなる意識のなかで、何度もおれの名を呼ぶこいつの声がした。










翌朝、頭を押さえながら廊下を歩いていると土方さんに呼び止められた。


「なんだ、二日酔いか?」
「えっと…まあ…」


痛みに顔が歪む。本当は今すぐにでも横になって眠りたいくらいなのに。昨日は結局あのまま山崎の部屋で眠ってしまったらしく、起きたらおれはあいつの寝床で寝ていた。当の部屋の主はいなかったけれど。
土方さんはおれがやけになって酒を飲んでいたのを知っているから、そのせいで二日酔いになるのは自分の責任だとでも説教するつもりなんだろう。そう思っていた。


「ほらよ」


だから不意に手渡されたものに、一体何だろうと首を傾げた。説教がないのはよかったものの、何かを貰うような事をした覚えはない。土方さんの手にあるそれを見つめながら思い当たる節を探していると、「早くしろ」と言わんばかりの視線が突き刺さる。ハッと我に返ってそれを受け取る。よく見ればそれは薬だった。


「山崎がお前にだと」
「あいつが?」
「ちったあマシになるから飲んどけ。ったく情けねぇ、自分で渡せってんだ」


人使いが荒いとぶつぶつ文句を言いながらも土方さんの言動はいつもより優しい。心配してくれているんだな、とむず痒い気持ちになりながら手の中の薬を見つめた。


「…ありがとう、土方さん」
「おう」


ぽん、と軽く頭を撫でる手のひらが心地いい。酒も程々にしとけと言い残した土方さんはそのまま自室の方へと歩いて行った。一人廊下に残されたおれは手の中の薬を見つめる。


「…ばーか」


どうせなら直接渡せばいいのに。そんなことを考えながら緩む頬に、それからこの胸に宿る想いをとっとと吐き出してしまおう。そう思いながら、踵を返した。



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