ささやかながら内輪で祝言を挙げることが決まったのは、ひと月前のことであった。
それからというもの、忙しく慌ただしい日々が続いたが、それも今日で仕舞。
幾多の試練を乗り越え、いよいよ明日、二人は夫婦(めおと)となる―…
夕飯後、剣心は薫に「今夜は絶対に夜更かし禁止令」なるものを言い渡された。
それを受けて、さすがの剣心も今日ばかりは常より幾分か早く床に就いていた。はずだった。
今、彼の部屋に人の気配はない。
*
「祝言前夜」という特殊な環境がそうさせているのだろうか、床に就いたはいいが、なかなか寝付けず、むしろ次第に目が冴えてゆく。
今まで感じたことのない、えもいわれぬ不思議な感覚に囚われ、剣心は堪らず起きだしたのだった。
静まりかえった夜の闇に月が美しく輝いている。
いっそこのまま夜が明けるのを待とうか―…そんな考えが頭をよぎる。
即座に、ふくれっ面で小言を言う薫の姿が浮かんだことは言うまでもないが。
思えば「明日を待つこと」は、剣心にとって決して明るいものではなかった。
人斬り抜刀斉が明日を生きることは即ち、京の町に確実に血の雨が降ることを意味する。
常に死と隣り合わせだった幕末(あの頃)、それは望むべくもないことであった。
しかし今、明日を待つ心中のなんと不思議なことよ。
穏やか、という一言では言い表せない不思議な感覚。
まさにこれが己を覚醒させた正体であった。
それが、逸る胸の内を抑えきれないでいるということに未だ剣心は気付いていない。
形だけではあったが維新の成立が見え始めた頃、人斬り抜刀斉は死んだ。
斬るための刀は、もう必要なかった。
力弱き人々の願う小さな幸せを、今度こそ守りたかった。
けれど人々が願ったのは、今は亡き人ともう一度話すこと。触れ合うこと。
人斬り抜刀斉は、あまりにも多くの悲しみを生み出してしまった。
望まなくとも一日が終われば、また必ずやって来る。終わりない贖罪のための明日。
一日を生きながらえたところで、何の価値もなければ何の感動もなく。何かが前進するという訳でもない。
ただ、罪の意識と苦悩とが、あとからあとから押し寄せてくるだけであった。
全国を流れ歩いた十余年、夜明けは絶望の始まりでしかなかった。
薫の好意によって始まった道場での居候生活も、結局は一時的に与えられた日々にすぎなかった。
深入りせぬように、己の存在を残さぬように、滞在は道場が落ち着くまでと決めていた。
けれど次の地へ向けて足が動き出すことはなかった。
薫と過ごす日々に救われていた。癒されていた。
もはや愛おしい日常だった。
十余年もの長きに渡り目を背け続けてきた真実と己が罪に向き合ったのは、先の闘いの中。
そこで導き出された答えと共に、剣心はようやく気付いた。
あたり前のように隣にいて笑いかけてくれる薫の存在が、いつも儚げなものに思えたのは、己に覚悟がなかったからだ、と。
恐れていた。
諦めていた。
明日を生きることを。
そんな己が今、明日を見つめている。明日の訪れを待っている。
薫と共に歩む明日を。
*
「…剣心…どうしたの…?」
薫の気配に気付いてはいた。
しかし背後から聞こえた声には、先程までのハリがない。
こちらは、どうやって弁明しようかと考えていたというのに。
「…眠れないの…?」
「いや…」
不安げな瞳が微かに揺れたのを認め、剣心は苦笑した。
今日、こうして想いを馳せた明日の記憶を決して忘れまい。
別れの一歩があれば、再開の喜びを噛み締めた一歩もあった。
あの時の一歩があったから、君と歩む明日(いま)がある。
苦しみや悲しみを乗り越えることは簡単ではないけれど、だから一歩ずつ、確実に、明日へ己をつなげよう。
「…明日が、待ち遠しいのでござるよ」
君と共に生きるために。
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