歩きはじめて、一体どれくらいの時が経ったのだろうか。
 考えるだけ無駄なこと、とはわかっているはずなのに。先程から同じことをぐるぐると思いあぐねている。東京に戻るためのわたしの車を探し、ただ歩いていただけのはずなのに、既に己が何処を歩いているのか、わからなくなってしまっていた。
 ぐっしょりとわたしの全身は汗で濡れており、汗で張り付いた衣服と鉛のように重たい足を引きずりながら、足枷でもはめられた囚人の如く歩みを進めている。
いや、わたしは……そうだ。先ほどまで走っていたのだった。逃げてきたのだ。逃げなければならないのだ。
 唖々、おそろしい。きみがわるい。



 わたしがこんな山ばかりで何もない、人すらももうすぐなくなってしまいそうな田舎に帰ってきたのには訳があった。わたしは東京の会社でそこそこの地位も得ていて、家族も居る。既に凡そ何十年もの間、この田舎には帰っていなかったし、帰るつもりも毛頭なかったわけだがーーわたしは田舎が大嫌いなのだーーわたしの残すところあとたった一人の田舎に居る親族が、この度ついに御陀仏となった為に、わたしはこの親族のことは名前の他何も知らなかったわけだが、ついに田舎との決別たるやと帰ってきたのだった。

 その葬儀も既に終えて、わたしはこれでケリがついたと一安心して、灰色のビルの林立し排気ガスで汚れた世界に、わたしからしてみれば酷く居心地の善い世界にもどってゆくはずだった。
しかし、わたしは未だ此処に居る。周りは四方八方噎せるような緑だらけで、わたしの望んだ灰色の世界とは程遠い。人の手の入った里山といえど、かつては庭のように駆け回っていた頃があったといえど、灰色の世界に慣れ親しみ、緑の世界とは隔絶して生きてきたわたしには、風に揺れた木立の囁きさえも居心地を悪くする要因となる。
では何故、此処に居るのか……?
茫然と機能を衰え始めた頭で考えるに、わたしは恐らく、アレから逃げて此処まで迷いこんでしまったのだろう。しかしわたしには何故此処にいるのか、その原因しかわからなかった。その先に伴う道筋、そしてその結果がわたしにはわからなかった。
 久方ぶりに訪れる、どうしようもない不安であった。

 それもそのはずで、あの灰色の世界で、わたしはかなりうまくやっていけていたのだ。あちらでは出された課題をこなしていけさえすれば、そこに少しの独創性を加えていけさえすれば、すべてがうまく運んでくれるのだから。わたしは機械的に物事をこなしていくという作業が人よりも少し長けていたのだ。だから機械的に知識を詰め込み、機械的に課題をこなし、少しだけ人と会話をする時だけ人間になり(いや、それ自体も機械的な会話しかしていなかったのかもしれないが)、それでもまた仕事になれば、わたしは機械的に前に進んで行った。それが功を奏して、今となっては瑣末な事象では揺らぐことのない地位と共に、家族との安穏を手に入れたのだ。

 だが、今わたしが進むこの道にはその安穏など何処にもありはしない。緑の世界は凶器だ。先がわからないのだ。課題を出す者もわたしがよく知る課題そのものすら此処には存在しない。此処で何をすれば善いのか、わたしには皆目検討がつかない。天災もまたおそろしい。それは時を選ばず生身に降り注ぐものだ。それを防ぐ術をわたしは此処で持ち合わせてはいない。
 アァ、灰色の世界が恋しい。緑の世界は凶器だ。わたしにはそうとしか思えぬ。



 わたしは帰る道を疾うに見失ってしまったようだ。またアレがやってくる。姿は見えぬアレが。嗚呼、はやく、逃げなければ。
縺れる足を如何にかして動かしながら、わたしはこの緑の世界を逃げ惑う。

 わたしがまだ田舎に居た頃からアレは居た。いや、わたしが生きる時代よりもかなり前からアレはこの山に居たのだろう。わたしの生まれた田舎の村ではアレを崇めていたようだった。田舎ではよくある、土地神信仰かなんかだったのだろう。わたしはそんな前近代的な習慣、信心深さが大嫌いだった。それが、田舎をわたしに嫌悪させる要因となったと云っても過言ではない。兎に角姿の見えぬものをわけのわからぬものをそこまで過信できる田舎の者たちが気味悪かった。こんな者達と一緒くたにされてたまるものか! わたしは、東京の大学に進学を決めると同時に田舎を出た。それきり戻らぬと決めていた。その意思は強固だった。その証拠に此処何十年と変わりはしなかった。だからこれから先も変わらない。はず、にも関わらず……わたしは此処に居る。アレから逃げている。アレから逃れるために距離を置くために東京に出たと云うのに、これでは、アレと再び邂逅するために帰ってきたようなものではないか!
わたしの思考は堂々巡りを続けている。
 抜け出せぬ。抜け出せぬ。抜け出せぬ……!

 緑の世界を突風が激しく駆け抜けた。木々が騒ぐ、唸る。ドウドウと地鳴りが鼓膜を揺らす。
 そこでハッとする。
 アレがわたしを、恐らく、追い抜いた。
 見えぬはずのアレの顔らしきものが目の前にあった。顔が……アレの顔にわたしが吸い寄せられていく。


 獲り憑かれた!
 そう思考が働いたときにはもう遅かった。
 わたしはアレに呑み込まれた。意識がふっと途切れる。



 わたしの身体を凄い勢いで何かが出たり入ったりしているような感覚に、わたしは意識を取り戻した。まだ、わたしはわたしとしてこの世界に残っているようだった。しかしもうすぐわたしはわたしでなくなるのだろう。先だった知識があったわけでもないのに、わたしは自然とそう思った。
 轟轟と耳鳴りがする。耳鳴り……?いや、少し違うな。これはなんだろう。けたたましい音のようで、水の中に居るようなあの不思議な音のようでもある。人の鼓動とも少し違うが、似ているような気もする。……いのちの音、だろうか。

 ……ハハッ。何を云っているのだ。
 いのちの音だなど。アレに中てられでもしたのか。わたしの思考が産み出したものとは思えないフレーズである。
しかしもうすぐわたしでなくなることを悟った為か、それほどこの考えに嫌悪を覚えなかった。それに不思議なものである。いのちの音と考えたら、そうであるとしか考えられなくなってしまった。これは、いのちの音なのだ。アレの中に居るのだから、恐らくこの考えはそれほど的を外れちゃあるまい。

 わけのわからぬものなのに、時に恵みをもたらし、時に死をもたらし、身近に存在しているもの。それが恐らくアレなのだろう。そしてわたしはアレの一部となり、もうすぐ此の世の肥やしとなる。

 人が神と呼び崇め、奉り、畏怖したもの。その一部にわたしはなる。
 そう、わたしは山になる。なるのだ。

 轟々と云う音に包まれて、わたしは意識を手放した。それがわたしであったものの最期の記憶であった。

山になる




20121207
20161001 改訂 掲載

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