僕は溜め息を吐(つ)いた。肩を上下させて、やりきれない思いを籠めて、二酸化炭素として吐き出した。そのせいで空気が悪くなったわけではないのに、僕は余計にやりきれなくなった。溜め息なんて吐かなきゃよかったかな、なんて後悔しながらおおきく息を吸い込むと、焦げた臭いが鼻について、顔をしかめなくてはならなくなる。息を吸い込んでからもまた、息を吸い込まなければよかったと後悔した。息を吸い込む前に、僕の目の前にあるコイツをごみ箱の中に放棄すべきだったのだ。


「こげくさい……」


声に振り返ると、実未が立っていた。実未は僕の幼なじみで、昔からお互いの家を行き来しているから、突然現れたからといって、別段不思議なことはない。実未は指で鼻を摘みながら、僕が作り上げた失敗作を、まるで腐臭のする死体でも見ているかのような顔で見下ろしている。もちろん腐臭のする死体なんて見たことないから、これは僕の想像の域を出ていないけれど、それを見た人の表情はきっとこんな感じなのだと思う。そのくらい実未は、酷く顔をしかめさせていた。


「さっさと捨てなよ、空気わるい」

「あ、うん」


そうだ、コイツを捨てなければ。僕は急いでごみ箱の前に赴いて、手にしていた失敗作をすべて捨てていく。


「由汰、あんた何作ってたの」

「……いちおう、クッキー」


ボトボトとごみ箱の中に捨てられていく黒焦げになった失敗作を見つめながら、実未がそう聞いてくるので答えると。すぐさま、「あんたはクッキーすらましに作れないの」という言葉が返ってきた。


「由汰がヘマなく出来ることって、本を読むことくらいなんじゃないの」

「そんなこと、ないよ」

「どうだかね」

「今日はうまく出来そうだったんだ」

「結局は失敗したじゃない。あんた、家の中を燻製室にでもするつもり」

「何がいけなかったんだろう……」

「あんたの不器用さでしょ」


実未は鼻でふんと僕を一瞥すると、長い栗色の髪を翻しながらリビングの方に歩いて行った。僕は焦げ臭さのこもるキッチンに残される。げほげほと咳が出た。確かに、このままここにいたら僕が燻製になってしまいそうだ。急いで換気扇を回して、洗い物を一通り終えてから、僕もリビングへと向かう。実未はソファに寝転がりながら、リモコン片手にチャンネルを回していた。


「あんた、お皿一枚割ったでしょ。おばさんに怒られても知らないわよ」


僕の方には視線を遣らずにテレビを眺めたまま、未実が話し掛けてくる。


「いや。割ったかとおもったけど、大丈夫だった」

「あ、そう。……指切ったらあれだから、ゴム手袋でもつけとけば」

「洗い物をするとき?」

「あたりまえでしょ」

「じゃあ今度からそうする」


僕がソファの端に座ると、実未は何も言わずに膝を抱えた。あくまで起き上がろうとはしないけれど、僕のスペースを少しでも広くしようとしてくれているのだ。実未はキツイ性格だけれど、その奥にはちゃんと優しさを潜ませていることを僕は知っている。そのふとした優しさに触れた時、僕の顔には自然と笑みがこぼれる。


「なに、笑ってるのよ」

「笑ってないよ」

「うそ。空気が柔らかくなったから、あんた今絶対に笑ってた」


それに実未には、不思議な力があるのかわからないけれど、僕が笑っているのか怒っているのか何をどう感じ考えているのか。こちらを見なくてもわかるらしい。僕には実未が考えていることなんて、いつもこれっぽっちもわからないのに、だ。今だって口調から少しツンツンした感じが伝わるだけで、実未の顔を覗き込んでも、実未がなにを考えているのかは読めない。長い付き合いで性格は掴めている(と思う)から、さっきみたいにそこから想像することは出来るけれども。それすらも、もしかしたら僕が僕にいいように、短絡的な脳みそで考えているだけなのかもしれない。……そうしたら、僕。結構痛いやつだよな。

 
「なによ」

「いや、なんでもない」

「じゃあ、なに。あたしの顔に何かついてるわけ」


実未の声が少しきつくなる。怪訝そうに眉間に皴を寄せる。まさか、自分のことを自分で痛いと思っていた、なんて言えない僕は、離れながら話題を変えた。


「そういえば、この間のチェリーのタルト。石井先輩に渡せたの」


石井先輩とは、僕らより一つ年上で、多分、実未が気になっている人だ。多分というのは、実未本人に石井先輩を気になっていると聞いたことがあるわけではないからなのと、僕自身、石井先輩を知らないからだ。だけど、実未の口から男の名前が出てくることってすごく低い確率のことだから、これは気になっている証拠なのだと思う。しかも、実未は手作りのタルトを先輩に渡すのだと言っていた。


「渡した。……けど、」

「けど?」


ここで、僕は「しまった」と思った。ひょっとしたら、石井先輩は甘いものが嫌いで、タルトを受け取ってもらえなかったのんじゃないかと思ったからだ。あまり聞いて欲しいことではないのかもしれない。


「あ、えっと実」

「あんたより……すごく褒めてくれたわよ。あんたよりね」


実未は起き上がりながらそう言う。依然、眉間に皴は寄ったままだ。
でも、


「え?あ、そうなんだ。よかったじゃん」


ほんとよかった。受け取ってもらえたみたいだし、しかも褒めてもらえたらしい。実未が作るチェリーのタルトは飛び抜けて美味しいから、きっと石井先輩も喜んでくれただろう。


「……ったく、あんたの脳みそは、嫌味すらわからないの」

「うん?」

「おめでたいやつ」

「僕が?」

「あんた以外の誰がいるってのよ」

「僕、タルト食べた時何も言わなかったっけ」

「ただ黙々と食べてただけよ。そしてあたしのベッドで寝て行った」

「あぁ、だって実未の新しいベッド、テンピュールで寝心地いいから」


そう。先週から新しくなった実未のベッドの寝心地は抜群なのだ。ただ、枕だけはテンピュールにしてほしくなかったけれど。首が沈むと何故か余計に肩が凝ってしまった。……って、その前に。僕は実未にタルトのお礼すらも言ってなかったのか。別に実未が僕の為に作ってくれたとか、そんなわけではないけれど。あの時は、実未の家に行ったら偶然、実未がタルトを焼いているところで、甘いものが好きな僕が食べさせてくれとせがんだのだ。実未はぐちぐちと文句を言いながらも、それでもタルトをご馳走してくれた。

うん、それで何も言わずに実未のベッドで寝て帰るとは。なんとも図々しいやつだよ、僕は。


「悪いと思ってるんなら、その誠意を少しでも示すべきね」

「どうやって?……あっ、ありがとう」

「……遅いわよ」

「でもあの時は、すごく眠かったんだよ。それに実未のタルトでお腹いっぱいだったから……」


そこまで言うと、実未の表情が、ふと、寂しげに翳ったような気がした。そこで僕は後悔する。言い訳みたいに言っても、実未は傷付くだけなのだ。いつもこうだ、僕は言ってから後悔する。きっと、僕が気付いていないだけで、実未を傷付けてしまっていることが沢山あるような気がする。


途端に、僕たちの周りの空気が悪くなったような気がして。僕は、自分に対して溜め息を吐く。


「「はぁ」」


すると、実未と溜め息が重なった。暫くは二人で顔を見合わせる。


「実未」

「由汰」


再び、今度は声が重なった。続けて起きた偶然に、僕は少し驚いて目を見開き、実未はくすくすと笑っていた。さっきまでとは打って変わって、その表情は朗らかだ。
……ちょっと、いやかなり、実未の思考回路がわからない。


「理解不能って顔してるわよ」

実未は一通り笑うと、表情を元に戻してそう言った。やはり実未には僕の考えは顔を見ただけでわかってしまうらしい。僕は軽く肩をすくめる。


「なんで、突然笑いだしたりなんかしたんだ?」

「おかしいなって、思ったのよ」

「なにが?」


おかしいって、僕の顔が?……そんなに、とぼけた顔をしていたのだろうか。


「由汰は手先が不器用でヘマばかりだけど、自分の気持ちには素直でしょ。自分以外のことになるとてんで鈍感だけどね」

「それがおかしいって?」

「……話は最後まで聞きなさいよ」

実未はこちらに向けていた顔を窓の外に移す。「あたしは手先は器用で美味しいチェリータルトだって作れるけれど、自分の気持ちには素直になれないのよ。素直な気持ちは吐き出せない」

「え。実未は十分、自分の気持ちを素直に吐き出していると思うけど……」

「そうじゃなくって」

「じゃあ、なに?」


実未にしては回りくどい言い方で、少し戸惑う。その戸惑いが実未には手にとるようにわかってしまうのだろう。実未は、にやりと唇をめくる。そして言った。


「あんたが好きだってことは、まだ一度も言ってないでしょ」


今言っちゃったけれどね。
実未はそう付け加えると、ひらりと立ち上がって、リビングから出て行こうとする。立ち上がった実未の横顔は何故か赤い。そして、実未が出て行ったあと、


「あっ」


実未の言わんとしていることがようやく飲み込めた僕の顔もまた、赤くなった。



甘酸っぱい END


20110921



by 翠子 [ text home ]