「ハハ、あやまった。さすがは俺の惚れたァお菊さんとやらだよ」


男は手の甲が落ち着くと、先程とは打って変わった様子でにへらと笑い、ごろりと布団の上に寝転がる。次に俯せの体勢で盃を持ち直すとぐいと飲み干し、シミジミとした口ぶりで呟きだした。


「俺ァ、江戸にけぇって来るのが何時になるのかわかんねぇで、不安なのサ」


菊里は煙と共にふっと笑う。男が空の盃を差し出すので、片手を着いて銚子を傾けた。


「なにサ、おとなしく働いていりゃあ、直に勘当も解けるでありんしょうに」

「だが、よゥ。江戸にけぇって次にこの見世を覗いたときに、おめぇが必ず未だ見世にいるって保証はあるめぇ」

「………」

「モシ、今夜が俺とおめぇの最後の逢瀬ってなったら……」

「……ぬしらしくもねぇのゥ」

「こんな弱気な俺ァ、イヤかね」


男の意外な弱りぶりに、アハハ、と菊里はかるく笑ってみせる。


「サアね、でもわっちは何時までも強がってる奴ァ嫌いでありんすよ」

「そんじゃァ、最後の最後で弱り果てたこの俺のこたァ、嫌いってことではなさそうだ」


男の方もケラケラと笑う。


「……おめぇ、俺の他に特別馴染んでる客ァいるのかへ」

「そうだのゥ、一年以上馴染んでいるのはぬしくらいでありんすなぁ」

「そうかへ。そいつァ……よいことを聞いた」

「アイ、よかったの」

「……う、ム」


酒にのまれ微睡みだしたのか、男の声が段々と小さなものになってくる。


「……ぬしゃあ、そろそろ眠いんでありんしょう」

「ナニ、眠くなんて未だ……ねぇが」

「ドウダか」
 
 
菊里は煙管を吸い、ふぅと白い息を吐き出すと、灰吹きに雁首をトントンと打ち付ける。


「………」

「………」


菊里と男が黙ると、部屋の中には弱まらぬ雨脚の音だけが響き渡った。そして、ざあざあと云う音だけの世界で、菊里は未だに吐き出すことの出来ていない想いを、胸の底に淀ませていた。


「はぁ……」


(ぬしといると、何時もくだらない言い合いで、時間が潰れていってしまうのゥ)

(……これで、このまま今日も夜明けになってしまったら、ドウするつもりだがぇ)

(……わっちは、また。何も言えずに、ぬしを見送ってしまうんでありんしょうかへ?)


「……ウゥム、」

「……?」

「………」

「……ありゃ、ぬしゃあやはり、寝てしまったんじゃないかへ」

「………」

「仕様がねぇよゥ。……こら、ぬし、掻巻(かいまき)を掛けねぇと」

「……ンン」

「明け方にかけてはこの時期でも寒くなるんだから、ほら、掛けるでありんすよ」


菊里は苦笑いを浮かべながら、男に掻巻を掛けてやる。


「……困ったものだよゥ、これじゃあぬしゃあ、何の為にずぶ濡れにまでなって見世に来たんだか」

「………」

「わっちが最後の最後で、ぬしの欲しがっていた言葉を言おうって心積もりでありんすのに」

「………」

「残念だのゥ、ぬしゃあ聞きそびれるみてぇだに」


菊里は、男の青白い頬に手を滑らせ愛おしげに撫であげる。そして、ふっと優しく微笑みを漏らすと、静かに呟いた。



「わっちの色男(イロ)さんは、始めから最期まで。何時までも、ずっと清さんだけで、ありんすよ」



宵闇の忍び込んだ冷たい部屋で、菊里の頬には、人知れない涙が伝っていた。






秋時雨 END


20110917


提出:fish ear
お題:言いたかったこと

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by 翠子 [ text home ]