突然の驟雨に街道をゆく人々が足を速める中。其の娘は一人街道の片隅で、過ぎる人影に忙しなく瞳をさ迷わせながら、濡れることも厭わず佇んでいた。娘の歳は漸(ようよ)う十二ばかりであろうか。透き通るような白磁の肌に垂れ髪の、幼気(いたいけ)な少女であった。

 この辺りの里の娘なのだろうが、合羽を身につけている訳でもなし、それに傘を持ち合わせている風でもなく。ただ雨に打たれ続ける彼女に、旅人達は訝しげな視線を送り足早に通り過ぎて行く。その中で、編笠を深く被った一人の男が、少女の前で足を止め、声を掛けた。


「人を待っているのか」


 低く、腹に響くような声である。少女は突然声を掛けられた事に驚き目を見開くと、次に男の腰に差さる物に視線を遣り酷く怯えた表情を見せた。しかし素直にこくりと頷くと、「父さんを……」とだけ、声を震わせながらぽつりと零れ落とした。男は初老にかかった厳つい顔面で少女を見下ろし、彼女は構えるように身体を強張らせる。男は何を考えているのか判らない「無」の表情であった。


 暫しの沈黙が二人を包み込む。其の間も少女の待ち人が来る様子は無く、次第に強まる雨脚の、木々を地面を打つ音だけが、二人の他人影の見えなくなった街道に響いて居た。


 長い沈黙の後。男は其の中で何かを深く思惟していたらしく、眉間に皴を刻み低く一唸りすると、「そうか」と漸く一言呟き、少女の少し先に在る岩に腰を降ろした。どう云う訳か、此処で休んでいくつもりになったらしい。

「え、えっと……」


 少女は突然の予想だにしない男の行動に酷く戸惑う。暫くはおろおろと視線を泳がせ、どうすればよいのか判らないと云った表情で男の編笠を見下ろして居た。男はそんな少女の様子に気が付くと、自分の隣に在る岩を指さして、無言で座るように指示をする。少女は戸惑いながらも其れに従い、緩る緩ると岩に腰降ろした。



「寒くはないか」


 男は少女が腰を降ろすのを計ったように、睨むような目付きで眼前を見つめながら、少女にそう尋ねた。余りの頃合いのよさにびくりと肩を震わせた少女であったが、其の声の意外な優しさに、ふるふると首を振る。そして今迄張り詰めていた警戒の糸を解くと、にこりと男に向かって微笑んだ。


「こうして父さん待つの、慣れっこなので」


 訳を男が聞けば、少女の父御(ててご)は隣国を周りながら商う旅商人で、半年に一度しか里には戻って来ないのだと、横顔に影を落しながら言う。一月前に近々戻ると云う文が届き、それから毎日、こうして街道まで赴き帰りを待っているのだそうだ。


「だがこのまま長く此処に居ては風邪を引きかねん」


 少女の話を聞き終えると男はそう言った。相も変わらず眼前を睨み付けているが、これは男の癖らしく、打って変わって其の声色は、少女の事を気に掛けている風である。

 その様子に少女は「何だか父さんみたい」と、くすり、笑みを零した。


 その笑みが国許に残してきた自分の娘と重なって、男はつんと鼻の奥が痛む思いがした。国を出てから一度も会っていない、そして、もう会ってはくれないだろう己の娘と、少女は同じ年頃だったのである。国を出た時は未だ五つにも満たなかった娘の成長した姿を、男は、雨の中でも健気に父御を待つこの少女に重ね合わせていた。少女に声を掛けていたのも、何故か共に父御を待とうと考えたのも、そうした懐かしむ心が男の胸に浮かんだのだろう。男自身は、娘の顔などもうとっくに忘れ去って居るものだと考えて居たのだが、今は在(あ)り在りとその表情が浮かび、少女の顔に重なる。不意に男は、とても故郷が恋しくなった。


 それから、二人の間に会話と云う会話は無かった。だが、男は自分の編笠を無言で少女に被せてやったりした。既に少女もずぶ濡れになって居るのに、偏屈な男なりの不器用な優しさだった。少女の方も、気難しい顔をしながらも自分を思いやる、男の父性のようなものを何処かで感じ取っているのか、男の隣で鼻歌を歌ったり、時折笑い掛けたりした。


 そんな二人の姿は、何も知らぬ人から見れば親子が旅の途中で休んで居るように見えるのだろう。時折街道に現れ通り過ぎる人々は、微笑ましそうに二人の姿を眺めて行った。男は、そんな旅人の視線を感じながら、まるで自分の娘と共に居るような気分に成っていた。そして、頬を伝う雨滴に紛れ、静かに涙を流して居た。

 武士(おとこ)として諸国を走り回り忙殺の日々を送るよりも、娘に会って伝えなければならない事が沢山在る、と云うこと。其れが今更に成って、この身に沁みて来たのである。溢れ落ちる温かな涙は暫く、静かに男の頬を濡らしていた。



「あっ、父さん!」


  二人が待ち人を共に待ち始めてから一刻ばかりが経った頃だ。少女は弾けるように立ち上がった。長く降り続いた驟雨は漸く通り過ぎようとしていた。

 街道の遠く、糸のような雨が雲から這い出した太陽に煌めく中、一人の旅商人が歩いて来ているのが見てとれ、少女に気が付くと大きく右手を振っている。少女も細い腕を大きく大きく振り返した。其の顔には溢れんばかりの笑顔が在る。
「父さん帰って来た!」


 その顔のまま、少女は男に笑い掛けて言う。嬉しすぎて堪らないと云った表情で、今にも駆け出したくて仕方ないと云うような雰囲気で在った。


「早く父御の元へ行きな」


 男はつっけんどんにそう言うが、その表情には久方ぶりの笑みが零れて居た。少女は大きく頷き、編笠を返し、礼と別れを述べると、父御の元へ勢いよく駆け出して行った。


 少女の土を蹴る音を聞きながら、男は緩る緩るとした動作で編笠を深く被り、首に紐を結び付けると徐(おもむろ)に立ち上がる。少女の背中を追うように視線を遣れば、丁度父御の元に辿り着いた少女と其の父が、此片に向け二人して頭を下げているところだった。


 男は編笠を片手で僅かに上げ、小さく礼を返す。その表情にはもう笑みは無く、また「無」の表情に戻って居た。そして男は素早く踵を返すと、足早に其の場から立ち去り、少女の視界から直ぐに姿を消した。


 気が付けばもう雨脚はすっかり途絶えて、男の行く先は、太陽の淡く柔らかな光に包まれていた。




驟雨の中で









蛇足:其の後其の男は、国許に帰る機会を作り、娘と妻と七年振りの再会を果たしたのだと云う。



提出:fish ear
お題:待ちぼうけ

by 翠子 [ text home ]

20110912