落日
 あれはまだ、蝉の鳴き声の聞こえた季節で。しかし、少々冷えた風が吹き抜ける夕暮れのことであった。ミンミン蝉の小さな弱々しい鳴き声の後ろから、はかなげだが力強い鈴虫の鳴き声も聴こえる。夏の彩りは消え失せ、じとりとした熱さを含んだ湿気だけがその残り香を漂わせている。蝉は逝き遅れたのだ。秋の気配が世界を彩り始めているのにただ一匹、いや二匹か。夏の遺物を叫んでいた。ヒグラシの鳴き声は聴こえない。可哀相だと、わたしは思った。

 それからわたしは、長い長い畦道を夕日に向かって歩んでいた。左右どちらを見渡しても面白みのない田圃が続く一本道。その道中には時折、首のもげた不恰好な案山子(かかし)が突っ立っていた。もげ落ちる寸での所で留まっている首の表情が、道先案内人気取りで突っ立っているように見えてなんとなく不愉快になる。何故首がもげているのかなど知る由もないが、それがわたしの進む道を嘲笑って(わらって)いるようで腹が立った。

「わたしの進む道はお前達にはわからないのだろう。とても魅力的な道なのに。馬鹿げていると嘲笑う(わらう)お前達の方が馬鹿なのにな。可哀相な奴らだ」

案山子から視線を道先に遣れば、夕日が遠く地平線に沈みかけている。わたしの道の果てに在る、とても魅力的な高貴な光――…

――嗚呼、落日。なんて魅力溢れる姿なのだろう! わたしはその神々しい姿に涙した。鼻の奥がツンと詰まり、溢れ出る涙を止められず、嗚咽を挙げて咽び泣いていた。ガクリと膝が崩れ土に着いた。震え出す身体を抱きしめるように慰めながら、落日の燭(ともしび)が消え失せるまで眺め続けていた。

「落日よ、堕ちないでくれ!」

 落日は、そんなわたしの叫びなど関係ないとでも謂うように、地平線の中に熔けていった。時にして五分とかかっていないだろう。わたしの求める物はあっという間に消え失せてしまった。長い長い道のりを歩んで此処まで来たというのに、魅力など一つとして存在しない世界から遥々やって来たというのに。どうしてなのだ……。

 そしてわたしに突然の虚無が襲う。心の中に空洞が出来てしまったのか、落日に満たされていたはずのわたしが、急にどうでもよくなったのだ。何故わたしが此処に居て、何故落日に涙したのかさえもわからなくなっていた。

 急に視界が狭くなった。地平線はもっと遠退き、代わりに空がぐんと近付いてきた。見上げた空には神々しいまでに光り輝く月が浮かんでいる。不思議と落日よりも大きく思えた。そして、ぼんやりとしたわたしの心を癒していくように思えた。

 落日は、堕ちるものなのだ。だからその名があるのだ。それなのに何故わたしは、堕ちないでくれと願ったのだろうか。

 何処からか、ヒグラシの哀情的な鳴き声が聴こえてくる。先程わたしが馬鹿にした案山子の嘲笑い声や、哀れみの感情を向けたミンミン蝉の弱々しい鳴き声もわたしの脳内に響き渡っていた。

 嗚呼、わたしは何もかもが既に堕ちているのだ。戻ることは、永遠と出来ないのだ。落日はきっと、もう一人のわたしだったのだ。

 頭上の下弦の月が、にやりと嘲笑ったような気がした。それはとても残酷で、すべてを見透かしているような笑みであった。






キウイベア様提出
お題:月

by 翠子 [ text home ]

20110910