夏の前日。ずっと一緒だったじいさんが死んだ。僕は独りになった。

 「こんなもの、じいさんが持っているなんてなー」

 一通りの葬儀やらなんやらが終わったころ、僕はじいさんが最期にくれた形見を手に、じいさんと暮らした畳の上で寝転んでいた。久しぶりに障子も開け放して、僕の身体はこの季節独特の湿っぽくて緑のにおいの混じった空気に包まれる。視界の片隅にはじいさんの定位置だった縁側をおいて、ようやくひとり、感傷に浸る時間を僕は手に入れられた。じいさんが死んでからは手続きと儀式と時間だけが着々と進んでいき、僕自身の時間はじいさんがこれをくれた朝から止まっていた。世界では物質だけが動いていて、精神はこの畳の上に置いてきぼりだった。まだ正直、実感はなくて。これから少しずつ、いや衝動的にそれは襲ってくるものなのかもしれないけれど、まだこの家の何処かにじいさんが居て、ひょっこり現れて、僕のつぶやきに答えてくれるのではないかと思う。不思議と喪失感はなかった。

 「大切にしろよって言われたけど、どうしたもんだか」

 じいさんの形見は、曇ってしまいもう何も映さなくなった鏡だった。今の世の中では砥がなければ曇るような鏡はそう出回るものではないらしいし、相当ふるい代物なのだろうとは思うのだけど、大切にしろと言われてもこれでは使えない。そもそも本当に大切なものであるのなら、細やかに手入れをしていてもいいというのに、もう何十年も曇ったままにしてあるような、そんな鈍さをもった鏡面からは、銅の錆びたにおいがして僕の顔をくもらせた。とりあえず、ピカピカに磨けばこいつの実用性は回復でき、いやなにおいもとり去ることができると思うけれど、じいさんが意図して曇らせていたのかもしれないし、ただの怠惰で手入れをしていなかったのかもしれない。じいさんがこれについて多くを語らなかったから、真相はわからない。だから僕はぐるぐると処遇を思いあぐねる。
 ただ何故か、じいさんが大切にしていた鏡で、自分の顔をみてみたいとは思った。そこに映るのはきっと、というか間違いなく、洗面台のガラス鏡に映るのと同じ、少し釣り目で唇のうすいいつもの僕であるに違いないのだけれど。

 「正直、脳足りんなこの僕がぐるぐる考えてたってしょうがないな」

 じいさんは何も言わずにこれを託した。磨くなとも磨いてくれとも言われていないのだ。ならば、僕は僕のやり方でこれを大切にしておこう。
 久しぶりの思考に溺れてまどろんでいく意識の中で、とても乱暴な論理ではあったけれどそんなことを思っていた。そして僕の意識は、緑と湿っぽさに夕日のにおいが混じり始めたころ、何故か一瞬、じいさんのうしろ姿の幻を縁側に浮かべて、ぷつりと切れた。

***

 そしてその翌々日、僕の手元にはなにやら恭しく桐の箱にいれられたあの鏡があった。

 「こう、畏まれるとこっちが緊張しちゃうよなー」

 結局、砥いで磨いてもらったのだった。決め手は、眠りに落ちる直前に感じたじいさんの存在だった。なんとなく、じいさんが濁り曇った鏡面ではなく、僕の顔も映し出せるようなピカピカした鏡面を求めていたような気がして、衝動的に砥ぎに出していた。そして今日、それを受け取ってきたわけで、僕は柄にもなく正座でそれと対面している。やはりかなりの年代ものだったらしく、鏡面の裏側に施された螺鈿とかいう意匠のほとんどは元の通りにはならなかったらしい。ところどころ虹色の光沢を湛える鉱物は剥がれ落ちてしまっていた。
 でも、肝心の鏡面は。

 「うわ! 眩しい!」


 あの鈍く澱んでいたものが嘘みたいに、輝きを取り戻していた。夏に近づく日の光が反射して目が痛くなりそうなくらいに、ピカピカと存在を主張している。桐の箱の恭しさに影響されて、同じく恭しく扱おうとしていた僕は、あまりの眩しさに不意を突かれて、折角砥いでもらった鏡を放り出しそうになる。危ない危ない、と。今度はギュッと力強く握りしめて、強い反射も防ぐために障子ににじり寄ると半分ほど閉じてしまった。世界の半分が障子越しの間接的な光に包まれて白っぽくぼんやりしたものとなる。そしてようやく、僕は研ぎ磨かれた鏡面に映し出された僕自身の顔をみたのだった。
 
 「え? 」

 一瞬で背筋にゾワゾワと蛆虫が湧いたような感覚が伝った。鏡面の中には僕の顔がどこにも映っておらず、僕の身体の後ろにあるはずの襖の一部分が映し出されていた。こんなことってあるのか。僕は一体どこにいってしまったのか。

 「ここだよ」

 天井から声が聞こえて、さらに蛆虫が二の腕に湧いたように、ブワッと鳥肌がたった。鏡を構えたまま、眼球だけを動かしてできるだけ上を見ようとすると、僕のちょうど真上になにか居る気配がした。それを見ないほうがいいと僕の中の何かが警鐘を鳴らしていたのに、なぜだろう、僕はそれを長い間渇望していたかのようにみたくなって、とてもゆるやかに、首を後ろに倒してそれを視界にいれた。

 目が、合ってしまった。
 僕と同じように首を倒して、天井に立っているむこうも僕をみている。こんなことってあるのか。こんなところに……僕が居るなんて。

 「コウイチもはじめはそんな表情をしていたな」

 目が合ったまま、もうひとりの僕が喋る。僕の身体は恐怖で身が竦んでいるのか金縛りにあっているかのように動かなくて、眼球は【僕】を捉えて、呼吸は荒く、聴覚だけが研ぎ澄まされる。
 
 「半世紀ぶりの再会なんだ。もっと嬉しそうな顔をしてくれてもいいのに」

 鏡に映し出されない僕。僕と同じ姿で天井に垂直に立つ少年。

 コウイチってじいさんの名前だ。半世紀ぶりってなに。僕はまだ生まれていない。それなのに再会だと【僕】は言う。
 ぐるぐるとした思考の中で、自由の利かなくなった体でもなんとかして力をふり絞って瞼を閉じた。何もなかったと、これは気のせいだと、何回も何回も唱えるように念じて、確かめるように再び瞼を開いた。天板の木目だけが視界にはいった。なにもない。

 「ほらね」

 やっぱりなにかの間違いで、もしかしなくても疲れていたのだとおもう。無意識下では孤独感に蝕まれていたとかで、だから幻でもみたんだと思う。
 そう納得しようとした、のに。

 「そんなに僕の存在を否定したいの? 」

 背後から声がして、次の瞬間には僕はひんやりとした物体に包まれていた。誰かが、いや【僕】が僕の身体を抱いている。静かに泣いているようで、僕の首にそっと回された腕には涙がこぼれ落ちた痕が伝っていた。幻でなく、腕はちゃんとした物体だった。僕のものより、生物のものとは思えないほどに無機質に冷たかったが、ちゃんと触れた。そしてその冷たさは、僕の頭も冷やしてくれたようで金縛りのように動かなかった身体も自由の利くようになった。
 
 「否定しても、どうしようもないのだということだけは理解してくれた?」
 
 鏡の中に僕は居なくて、居るはずのないもう一人の僕が鏡の外で泣いている。僕もそっとその腕に触れてみればそれは確かに存在している。
じいさんが死んで最期にくれた形見が何やら曰くありげで、その所為で得体の知れぬ【僕】に抱きつかれていて、正直こわいし泣きたいのは僕の方だったのに。何故だろう。否定したところでこの状況は変わらないよな、と思った瞬間、スッと気持ちが和らいだ。冷静になったとも言うのだろうけど。そして、さらに何故か。背後から僕の身体をぎゅっと抱きしめながら、静かに涙を流す【僕】を僕はどうにかして慰めてやりたいと思ったのだった。

 「でも、わけわからんことばかりだからとりあえず説明してくれたらうれしい」

 そう言いながらポンポン、と冷たい腕をやさしく叩くと、【僕】の身体は驚いたように跳ねて、暫く僕のうなじに顔を埋めていたが、その後はゆっくりと言葉を紡いでくれた。

 「僕はよくない存在なんだ、この世界にとっては」

 その声と、身体は震えている。

 「いっそ粉々に砕けてしまえばいいのに、それを望んだのに、コウイチはそれをしなかった」

 コウイチ、と呼ぶその声色は淡く甘美な、しかし哀しげな音色を奏でているように聞こえたのは、僕の気のせいだろうか。

 「自分じゃ自分をどうすることもできないから、コウイチに託していたのに……また僕は僕の業から逃れられないんだ」

 【僕】の唇から絞り出すように並べられた言葉達が、絶望感に満ち暗く落ち込んでゆくのと対照的に、障子越しの光は滲み出るように明るさを増していき、そして僕らの身体は穏やかな白光に包まれた。夏が近づいているのだ、日に照らされた土の匂いがする。

正直、脳足りんな僕には【僕】の言わんとしていることはよくわからなかった。いや、僕だけのせいでなく、【僕】の説明もなにやら抽象的すぎて理解するのは難しそうだ。けれど。

「僕はじいさんが死んでしまって、独りになったんだ。そんな時に、たとえまやかしだとしても、じいさんを偲んでくれるやつがいてくれるってことは、嬉しいよ。それだけは、言える」

不思議とすらすらと言葉が出てきて、僕自身も驚いたけれど。これは本心だった。そして、この言葉を聞いた【僕】は、僕から身体を離してゆらりと目前に滑り込むように現れる。

「また僕は、僕の業を背負うんだ。だけど」

そして血の気の通わない白磁色の肌に、涙を擦った痕だけが赤く色付いた顔をくしゃりと歪ませながらこう言った。

「僕は、ずっと見てきたんだ。そしてこれからも見ていくんだ」

【僕】の白く細い手が僕の頬をやわらかく撫でた。

「この、いとしい人のかんばせを。僕が粉々になるまで、ずっと」


古鏡



20161001
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