留まることなく過ぎてゆく年月を想い、死をふと考えるとき、わたしは行く先のない、辿り着くところのない深く暗い穴に堕ちながら、身体では蛆虫が背中を這い、それによって皮膚の細かい裂け目から体内を犯されているような感覚を覚える。溢れ零れることを厭わぬ恐怖がわたしにはりつき、生き進む足を竦ませる。
 春は生命が輝かしいまでに爛漫の光を放つ季節である。わたしの家の庭には芍薬やら蓮華やら其の他にも実に数多の草花が植えてあり、春の柔らかな日差しのもとそよ風に揺れているし、門の左方には隣家の庭の染井吉野の枝が覆い被さり、まるで細雪のように白や桜色の花弁を降らせている。風吹けば花弁は舞い、縁側に座るわたしの元へ草花の香りが運ばれてくる。これは命の匂いであり、それをわたしは身体の隅々までに行き渡らせたらんと大きく肺を膨らませる。なんとも清清しく満ち足りた気分にそのときはなっている。だけれども、春の行進が進むごとにそれは生命の終末を連想させるようになる。長い冬を越えてやっと咲き誇った庭の染井吉野が命を儚く散らせて逝くと、私は自分の命の終焉を思い描いて只管に恐怖してしまう。故に春の終わりは特に苦手な季節だった。

「あら、あなた。そんなところでお昼寝してらしたら、風邪をひかれますよ」

 ぼんやりと其のようにとりとめのないことを思案していると、細君が盆に茶を載せて縁側にやって来ていた。昼寝をしていたわけではないと注釈を入れつつ温かい茶を受け取りながら、私は彼女ならどのような感性で春を感じるのかふと興味を持った。細君は確か、冬を好んでいたはずである。其の理由は尋ねたこともなかったが、静かなところを好む細君らしいと思う。
 私の言葉を一通り聞き終えると細君は、庭に視線を遣りながら話し出す。

 「そうですね。春は正直、わたくしからしてみますと少々煩く思いますけれど、嫌いではありませんよ。わたくしが冬を愛でるのは、確かに風景が静かな季節だからということもありますけれど、次に春が来ると知っているからです。梅の蕾が膨らんでくるような、冬の残り香の強い頃が一等好きですわ」

 「冬が終わり春が来ることに寂しさだとか、時に恐怖だとか、感じたりはしないのかい」

 「ですから、感じませんわ。季節は過ぎていくものですもの。どんな季節にだって終わりはありますもの。人の命だってそうでしょう? 」

 「私は君のように冬の静けさに耐えられるようにはできてはいないし、賑やかな方が好ましいと思う性質だからね。命が終わり、なにもなくなることを割り切ることは難しいんだよ」

 「あなたが思われてるほど割り切れてはいませんわ。ただ、あなたよりは名残惜しいという思いを受け入れられているだけですのよ。過ぎゆくものは皆、名残惜しく愛おしいですわ。ふふ、それにしましても本日はやけに弱音を吐かれるのですね」

 「春が残酷だから、とでも言っておこうかね」

 「残酷、ですか。あなたのそういう感性、わたくしは嫌いではありませんよ。けれども、春はやはり柔らかく生命を包み込む季節だと思いますわ。ほら、あなたの左肩にも春の訪れが来ていましてよ」
 
 そう言いながら細君は其の白く細い指を用いて、わたしの肩で休まっていた花弁をつまんだ。口元に掲げ細君が息を細く吹けば其れは宙を舞い、風に誘(いざな)われて染井吉野に再び吸い寄せられていく。其れと同時に風は細君の薫りを私のもとへと運んできた。
 冬の残り香、梅の薫りがする。

 「今年も春が来ましたよ、あなた」

 そう言って髪を風に靡かせながら凛と微笑む細君は、春に媚びるわけでもなく其れを蔑ろにしようとするわけでもない。ましてや私のように怖気づくわけでもない。冬を愛でながら冬を追いやる春にまで思いを馳せられる、そんな細君を見つけることができたからか、先程のような恐怖も少しは和らいでいるように感じられる。 

 ふと細君が立ち上がり、梅の薫りが再び私の鼻を擽った。と同時に、名残惜しいと感じる。
 「そろそろ、奥に戻りますわね。ちょっとお喋りがすぎてしまったかしら」

 「いいや、たまには付き合っておくれよ。今日のように」

 私は名残惜しさを細君のように愛でられそうにはないから、本当はもう少し話してもいたいし、明日にでもまた今日のように話したいと思うのだが。

 「ふふ、考えておきますわね」
 
 しかし淡白にもそう言い残し、細君は奥に消えていってしまった。残された私の鼻腔には、細君の薫り、細君の愛でる冬の名残、梅香が依然として残っている。其れはまるで私の心の臓を苦々しくすり潰すかのように、意地悪く残っていた。





 20130429 梨野もも様へ
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