グランドフィナーレ
そしてその日は、始めから予告されていたにも関わらず、急にやって来たように思えた。
「フロアの給湯室の改装、やっと終わったみたいだよ。今日から使って良いんだって。長かったねぇ」
朝、出社すると同僚のお姉さまがやれやれ、といった顔で教えてくれた。私はそうなんですね、本当に長かったですねと口に出しながらも、一抹の寂しさを感じていた。
約一ヵ月半の間、普段は関わりのない上と下のフロアにお邪魔して、今まで関わりの無かった人たちと何となくの交流をした。最初は会釈程度だったのが、次第に挨拶を口にし、世間話を交わして……。飴をあげたりもらったり、珈琲をこぼす姿を目撃したり。妖しい魅力を放つ美女やメンズファッション誌のモデルみたいな人が、こんなに近くに居たことを今まで知りもしなかった。顔見知りだというだけでラテをご馳走になったこともあった。ああ、肩を寄せ合うみちみちの熊ちゃんズ、微笑ましかったな。Mのシールのおじさまは、新しい服を着る時は本当に気をつけて欲しい。本当に。
名前もよく知らない、でもどこか近しい距離感。ツーブロ髭が小馬鹿にしたような猫目でこちらを見てくるのは、不思議と不快では無かった。……きまぐれニャンコはあちこちに喧嘩を売らず、黒子君やサの字の傷のある配達員さんとも仲良くしたほうがいいと思うけれど。
「ね、新しい給湯室見に行こうよ」
物思いに耽っていた私を、お姉さまがわくわくした様子で呼ぶ。はーい、と私は努めて明るく返事をして、デスクに鞄を置き後に続いた。
ぴかぴかの給湯室は、真新しいにおいを漂わせている。どこもかしこも新品で、それなりに築年数を経ているこのビルでは異質な存在に見えた。そんな風に感傷的になってしまうのは、淋しさからだろうか。
ひとしきり給湯室を堪能したお姉さまは事務所に戻り、お茶を淹れる私だけが残った。お湯をカップに注いで一息ついたところで、背後から聞き馴染みのある声がした。
「よお」
振り返ったそこに立っていたのは、入口の壁に手をつきニヤリと笑い瞳を光らせている、ツーブロ髭だった。
「え、なんで」
「『偶数階の工事が終わったら次は奇数階の工事に入る』って書いてたろ」
ちゃんと案内読んでねえな、と若干鼻で笑いながら近付いて来たツーブロ髭が言う。……そう言えば、ビルの人が持って来た通知文にはそんなことが書いてあった気がする。もう随分前に見たきりなので、確信は持てないんだけど。
「え、てことは、今日からは上と下から、ここに来ちゃうわけ……」
「あっ、おはよーございます!……失礼しましたッ」
間が悪く現れたのは下階の髪を一つしばりにした若男子で、元気に挨拶してくれたと思ったら、声を小さくして壁の向こうにフェイドアウトしてしまった。背後を見ると、ツーブロ髭がめちゃくちゃにガンを飛ばしている。若男子かわいそう。そんな縄張り意識全開の猫みたいに威嚇しないであげて欲しい。ここはそもそも君の職場のフロアじゃないんだし。
「オガタ、朝から揉め事を起こすな」
次に飛んで来たのはムキムキ坊主さんの声だ。マグカップを手にして、珈琲でも淹れに来たようだ。それを見たツーブロ髭は皮肉げに唇を歪めて笑う。
「ツキシマさん、普段はコンビニで買って来るのにわざわざ下の階まで珈琲を淹れに来るなんざ、何が目的ですかなァ?」
「……ッ、お前には関係ないだろう。そんな気分だっただけだ。そう言うお前だって、」
「ちょっと、朝から喧嘩するのはやめにしておきませんか……」
急に一触即発の様相を見せる二人の間に割って入り、私は交互に顔を見て嗜める。ほら、ちらちら様子を見てる若男子がますます怖がってるじゃない。
そうこうしているうちに、出勤してきた人たちが、飲み物の調達や手を洗うために上からも下からもやって来る。次々に現れる人で密度がすごい。眉毛のイケメン君は全く聞き取れない言語でムキムキ坊主さんに何かを訴えているし、下階の黒服の美女とハンペンの紳士はお構いなしに中へと入って行く。トドメに熊ちゃんズが揃ってマグカップ片手に現れたから、もう大変だ。改修されたからと言って給湯室が広くなったわけじゃないんだぞ。みちみちにも程がある。私は空気を求めて廊下へと抜け出した。
「やあやあ、これは綺麗だ。我々のフロアの工事が終わるのが楽しみになるね」
混雑する給湯室を覗き込んで、遅れて現れたオールバックの口髭紳士は楽しそうに言う。そうですね、と私が相槌を打つと彼は目を瞬かせた後、にっこりと笑った。
「もし、この中に気になる者が居るのなら、手引きしてあげるから遠慮なく言いなさい。給湯室のミューズ君」
オールバックの口髭紳士がこっそりと私に囁く。
言われた言葉が理解出来ず、え?と間抜けな顔をした私に、パチリ、と紳士は綺麗なウインクを飛ばし、私の頭には星が散った。
給湯室の中はまだまだ騒がしい。どうやら、まだしばらく楽しい日々は続きそうだ。
#上階下階の給湯室にて おわり
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