#上階下階の給湯室にて | ナノ



DAY11

 下階の化粧室の扉を開くと、ふんわりと鼻をくすぐる魅惑的な匂いがした。
 ……あ、あの人がいる。
「こんにちは」
「あ、お疲れ様でーす」
 間髪置かずかけられた声は、やはり黒服の美女様だ。あー、今日も麗しい。ホント目の保養。高級なシルク生地のように艶めいた声は、耳に柔らかく優しい。にっこり微笑みかけられると、こちらが照れてしまう。仕事の疲れも今の微笑みひとつで吹っ飛んだな! お昼からも頑張ろう……なんて思いながら、歯を磨く。
 隣の洗面台では美女が丁寧に口紅を塗り直していた。真紅のルージュが似合うのは美人の特権だな……などと考えていると、横から視線を感じた。歯ブラシを咥えたまま視線を横に向けると、めちゃくちゃ見ていた。美女が。こちらを。食い入るような目で。
「な、何か……?」
 口から泡が漏れないよう、モゴモゴと私が言うと、黒服の美女は何も言わずにっこりと笑った。
 そこには先程の表情はかけらも残っていなくて、それがまた、逆に怖かった。
 何事もなかったかのような顔をする美女から視線を引き剥がし、私は一目散に口を濯ぐ。ささっとリップを塗り直し、化粧室から出る。美女も後ろから着いて出て来られた。
 と、廊下には先日手助けをしてくれたおでこにハンペンの紳士がいらっしゃった。どうも、と会釈をすると彼は目を細めて応えてくれた。しかしその次の瞬間、紳士の眉間にぐっと皺が寄って、私の後ろの黒服の美女に向けて鋭い眼光が飛んだ。
「おいジジイ、止めろと言われてるのに何また女子トイレに入ってんだ」
 ジジイって、誰のこと……と思ったけれど、この場には今は三人しかいない。私、ハンペン紳士、そしてもう一人。
 言われた先の黒服の美女は、ハンペン紳士の震え上がるような眼力にもまったく怖がる様子を見せず、こちらへ目配せして「うふふ」とあだっぽく笑った。
 どこからどう見てもその笑みは、キレイなオンナノヒト、なんですけど。
 えっ何、あなた、ジジイ、なんですか……?




DAY12

 お昼休みも終わりに近付いた頃、上階の給湯室にお弁当箱を洗いに向かう。大体いつもこのくらいの時間は人波も引いていることが多いのだ。しかし、今日は違った。先客がまだ洗い物の真っ最中だった。
 ……すごく体格の良い、大柄な男性が二人、みちみちに並んで洗い物をしている。ここのシンクは一般家庭にあるものよりは流し場が広めに取られているのに、この二人が並んでいるともうぎゅうぎゅうで、当然入り込む隙間なんてありはしない。
 二人は洗い物をしながら何か話しているようで、水音以外にボソボソと低い声が聞こえる。盗み聞きするつもりでは無かったけれど、横で空くのを待っていると耳に入ってしまったのだ。
「気にするな、あれはお前だけのミスじゃない」
「ウン……」
 色黒のやや長い髪をお団子にした熊ちゃんが、毛深い熊ちゃんを慰めているみたい。何か仕事でトラブルがあったのかな、と推察する。
 毛深い熊ちゃんが大きな体を丸めているのは、洗い物をするためだけではないらしい。そのがっくりと肩を落とした広い背中を、そっとお団子ヘアーの熊ちゃんがぽんぽんと軽く叩いて宥めている。
 こんな風に慰めてもらえて良かったね、と他人事ながら羨ましく思えてしまう。良い同僚さんだ。
 
 しばらくして彼らは洗い物を終え、仲良く給湯室から立ち去った。慰められた毛深い熊ちゃんの顔は、心なしかスッキリしているように見えて、私までほっとした。
 そしてみちみちの熊ちゃんたちが立ち去った後は、なんだかちょっと室温が高く感じた。熱量……。




DAY13

 廊下を渡り階段へと踏み出そうとしたところで、上の階からぼそぼそと低い話し声が聞こえた。誰かが上の方に居るようだ。何だろうと思い、好奇心からそっと覗き見ると、踊り場のところに二つの影があった。そのうちの一人は、弊社にも出入りしている顔に大きなサの字の傷のある宅配業者の兄ちゃんだった。

 宅配業者の兄ちゃんは、初めて見た時にはその大きな傷跡にギョッとしてしまったものの、大変な好青年だった。こちらの無理(通常の集荷時刻が過ぎた後の追加だとか、本来ならトラック引渡しの大きな荷物を好意で弊社まで運んでくれたりだとか)にも快く応じてくれるので、弊社でも大人気だ。お姉さまは良く差し入れを渡しちゃったりしている。

 そんなにこやかな笑顔の似合う青年が、眉間に深く皺を寄せて睨みつける先には、いつものツーブロ髭がいた。
 ……あー、この二人は仲悪そう。
 全く関係性を知らないのに、その場の雰囲気だけでなんとなく察してしまう。絶対、根本的に合わないやつだ。
 ひりひりする空気から逃げ出すように、私は足音を忍ばせてその場を後にした。


「……ってことがあって、と言うかまだやってそうで」
 と、下階の給湯室で洗い物をしながら、顔を合わせた髪をひとつしばりしている若男子に今しがた見たばかりの光景を説明する。彼は二人のことをそれなりに知っているようで、さして驚きもない様子でこんなことを教えてくれた。
「あー、あの二人っすか。よく喧嘩してるの見かけますよ。俺も詳しくは知らないんっすけど、何か因縁の仲らしくって。そんな感じなら、そろそろ軍曹さんが仲裁に入るんじゃないっすかねぇ、多分」
 グンソーさん? って誰だ。そして上階って軍隊なの? だから坊主頭が多いの……?
 私の疑問は深まるばかりだ。




DAY14

 楽しい連休が終わってしまった。どうして休みって一瞬で終わってしまうのだろう。
 この休みは秋晴れにも恵まれて、掃除に洗濯に気の置けない友人たちとのお出かけに、と充実した過ごし方が出来た。美容院にも行けたし。それだけに、これからの一週間が長い、辛い。現実はかくも厳しい、と思い知らされるようにメールボックスに届いていた渋い内容の要件と、営業から丸投げされた業務にげんなりとしてしまう。
 あー、なんか楽しいことでもないとやってらんないな。どうせ余りに余っているし、無駄に有休でも入れちゃおっかな……などと考えながら上階の給湯室で洗い物をしていたら、どうも口から全部出ていたらしい。私の欲望願望丸出しの大きなひとりごとを耳にしてしまった小柄ムキムキ坊主さんが、死んだ魚の目をして呟いた。
「ゆう……きゅう?」
 あ、なんか、ごめんなさい。
 どこからどう見ても立派なプロ社畜です! といった風情のムキムキ坊主さんに心の中で謝罪する。それだけでは申し訳ないので、ポケットにあった飴ちゃん(さっきおじちゃん営業さんから頂いたもの)あげときました。糖分補給して午後からも頑張って!





DAY15

「下階にはなかなか見ないようなイケジジが居るよ。あれは若い頃、相当モテたと思うわぁ。いや、今でもモテてるね」
 フロアの給湯室およびお手洗いの工事が始まって割と早々に、お姉さまはそう言っていた。その方は長くて良く手入れされた白髪と白髭をたくわえた紳士だ。噂話を聞いてから、私も何度か下階でお見かけしたし、お姉さまの評価には全面的に同意する。枯れ専でなくても、あの匂い立つような色気には誰しもがクラっと来ちゃうだろうな、と思う。細身の体によくお似合いの、質の良さそうなスーツ姿は眼福の一言だ。
 多分、下階の会社の偉い人なんだろうなぁと一目して分かる雰囲気の方なので、顔を合わせた時には私もきちんとご挨拶をするようにしていた。
 

 そして今日。下階にお邪魔すると、前方からそのイケジジ様が歩いて来られた。すっと伸びた背筋で堂々と歩かれる姿は堂々たるもので、何度見ても思わず見惚れてしまうほどだ。しかしあまりジロジロ見るのも失礼だし、と適度に視線を下げ、会釈をして通り過ぎようとした時。
「おや、髪を切ったのか。良く似合う」
 え。と顔を上げるとイケジジ様は柔らかく目を細めて、頷かれた。
 確かに私は髪を切った。この前の連休に。でもそれは誰にも気付かれないレベルで、実際誰にも指摘されていなかったのに。たまにすれ違うだけの、他社の人間の微々たる変化に気が付くって、凄い。いや、凄いを通り越して怖くなった。ちょっと引きつりそうになる頬をきゅっと上げて、私はありがとうございます、と営業スマイルを付けて頭を下げた。
 すれ違った後、背後から「全く、あなたと言う人は、昔から本当に女に目がない……」と誰かが呆れる声が聞こえた。
 あーやっぱり、お姉さまの言うことは正しかった。生涯現役ジジこわいな〜!




DAY16

 ちょっと休憩、と上階に向かい、給湯室でお茶を淹れている所へひょっこり顔を出したのは、三つの坊主頭だった。一人は時々顔を合わせる黒子の人。あと二人は同じ顔をしていた。……同じ日に見かけたのに午前と午後でネクタイの色が違う時があって、客先によって締め直すとかしてるの? と思っていた謎が解けた。この人たち双子君だったんだ。
「あっ、ツキシマさんに飴配って、ヒャクノスケからミントタブレット強奪しようとした人だ。僕にも飴ちょーだい」
 私に向けて黒子坊主の人はそう言って、ニコニコと手のひらを広げて言う。彼につられて双子の坊主君たちも「飴くれるの?」「俺も飴欲しい」と手を出した。
「ええ……飴は今、在庫がないですね……」
 困惑気味に私が言うと、双子君たちはあからさまに落胆した顔を見せた。いや、そんな顔見知りというほどでも無いのに、他人から食べ物を貰おうとしないで欲しいし、勝手に期待して勝手に落ち込まれても困るんだけど。小さい頃、知らない人から物をもらっちゃいけません、って習わなかったかな?
 それにしたって、ツーブロ髭とか黒子坊主の人とか内心言ってる私が言えたことではないけれど、微妙な呼ばれ方をしている気がする。そして何より、これだけは訂正しておきたい、と私は口を開いた。
「あの、私、ミントタブレットは強奪しようとはしてません。あれは向こうが『やる』って言ったからなんです」
「……へぇ。ふーん。そうなんだ」
 私の言葉に黒子坊主さんは少し目を丸くしたあと、何やら嬉しそうに笑った。双子君たちは私と黒子坊主さんのやり取りの意味が全くわからないようで、きょとんとした顔をしている。
 あれ、私、変なこと言ったかな。黒子坊主さんはどんな風にツーブロ髭から私のことを聞いていたんだろう。深追いするのも何だか怖くて、結局、彼の反応の意味はよくわからないままだった。




DAY17

 今日、弊社に荷物を持ってきたのは、あの顔にサの字の傷のあるイケメン君だった。結構な重さの段ボールを軽々と積み上げていく様は、何度見ても爽快だ。
 受取のサインを差し出された電子媒体にしたところで、目の前の彼は立ち去る風もなく、何か言いたげな顔をする。
「何か他にありましたか?」
「えっ。いや、その……あの、この前怖がらせちゃってゴメンね」
 話を振ってみると、彼は決まりが悪そうに被っていたキャップを脱ぎ、癖のある髪を掻きながら言った。
 この前って……と思い返して、あ、階段の踊り場でツーブロ髭と揉めてたやつね、と思い至る。私が様子をチラ見して逃げたことに、彼は気付いていたらしい。私が勝手に覗き見しただけだから謝ることもないのにな、と思いつつも、気に掛けてくれていた彼の誠実さに笑みがこぼれた。やっぱりこの人、性格が良い。
「……仲が良いんですね、あの上の階の人と」
 ちょっと皮肉混じりにからかってみると、サの字の青年は「そもそもアイツが悪いんだよぉ」などとごにょごにょ言い訳をしていた。
 デカい体を丸めてもじもじするんじゃないよ、可愛いじゃないか! きっと彼はこんなふうに、いろんな配達先で無自覚に愛嬌を振りまいては、可愛がられているんだろうな、なんて思った。


「ねー、さっきあの配達の子と何話してたの?」
 席に戻るとさっきの様子を見ていたらしいお姉さまが、興味津々なご様子で目を輝かせていた。これこれこうで、と事情をお伝えすると、お姉さまの中でますますサの字の青年への評価が高まったようだ。
「それにしたってあの猫目の男、あんな良い子に喧嘩売るなんて。いくら営業成績が良くてもダメね〜」
 それと同時にツーブロ髭の株が大暴落する音が聞こえた気がした。いや、そもそも私たち、ツーブロ髭の営業成績なんて知りませんけど。




DAY18

 お昼前。自社のあるフロアの廊下を歩いていると、見慣れない人影があった。エレベーターの前で、紫のスカジャンを着た坊主頭の人が、片手に大きな袋をぶら提げてスマホを見て首を傾げている。
 お客さんかな、と思ったところでその人とばっちりと目が合ってしまう。坊主頭の男は人懐っこい笑みを浮かべて「すみませ〜ん」と声を上げた。
「この会社って、この階じゃないのかなあ?」
 聞かれたのは下階の会社名だった。
「こちらでしたら、一つ下のフロアですね」
「あっ、そうなんだ、これ間違ってんじゃん! ありがとねー!」
 ピュウッ、と謎の効果音がつきそうな振りをして、スカジャン坊主頭の人は階段を目指して駆け去って行った。
 
 提げてたの、仕出しのお弁当だよね。下階の今日のお昼はみんなでお弁当なのかな。そして袋に入っていたロゴが、この近所の美味しいと評判のアイヌ料理の居酒屋さんのものだった。あのお店、お弁当もやってたんだな。最近真面目にお弁当生活してたから、全然知らなかった。今度買いに行こ、と心にメモしておいた。


 そもそもお昼のためにお茶を淹れようとしていたんだった、と元々の目的を思い出した私は、坊主頭さんを追うように下階に足を向けた。すると、奥の方から「シライシおせーぞ!」とドヤされている声が聞こえた。
 ……さっきのお弁当の催促かな。フロアに漂う賑やかで楽しげな気配に、私は思わず笑みをこぼすのだった。




DAY19

 上階の給湯室から出ようとした時、エレベーターホールの方から「兄様」という呼び声が聞こえて私は首を捻る。
 アニサマ? なんて古風な呼称だろう。一体どんな人がそんな言葉遣いをしているのかと無性に気になって、私は声のする方へ素早く移動した。
 

 興味本位で顔を覗かせた先には、そこには先週ラテを(半ば強引に押しつけて)下さった口髭のイケオジ紳士と、このフロアでは見かけたことのない、キラキラした品の良い顔立ちの好青年と、好青年にがっちりと腕を取られ虚ろな目をしたツーブロ髭がいた。
「兄様と昼食をご一緒出来るとは、なんて良い金曜なのでしょう!」
 好青年がキラキラを撒き散らしながら言うと、ますますツーブロ髭の目は遠くなる。あんまり似てないけれど、どうやらこの好青年は、ツーブロ髭の弟君のようだ。明るく話しかける弟君に、ツーブロ髭は目線も合わさず、しかし無視も出来ずにかろうじて相槌は打っているのが見えた。
 そんな二人をニコニコと暖かい目で見守る口髭のイケオジ紳士は「私としても仲の良い兄弟愛が見られて嬉しいですよ」とご機嫌だ。……これは仲が良いと言えるのかなあ? と、側から眺める分には疑問に思えてしまう。
 とにかく、事情はよくわからないけれど、望まぬランチ会に連行されるらしいツーブロ髭、ご愁傷様です。キラキラ顔の弟君はすごくアニサマを慕っている様子だけど、お兄ちゃん側は無言で高い壁を作っているのが私にははっきりとわかった。
 しかしいつも澄ました顔をしているかの男の、こんな表情が見られたのはなかなかな収穫だ。アニサマって今度呼んでからかっちゃお! とほくそ笑んだところで、ばっちりツーブロ髭と目が合って、がっちり睨まれた。わあ〜こわい。
「あ、エレベーターが参りました! 兄様は何を召し上がられますか?」
 私にものすごく何か言いたげな顔をしていたけれど、ご機嫌な弟君とイケオジ紳士に連れられて、ツーブロ髭は下りのエレベーターへとドナドナされていった。
 頑張れ、お兄ちゃん。これを乗り越えたら週末だよ。




DAY20

「お、いた」
 と、ちょっと弾んだ声と共に給湯室に顔を出したのは、ムキムキ小柄坊主さんだ。休み明けだからか、いつもより社畜度の減った顔をしている。目の下のクマもほとんど影がない。この土日はちゃんと休めたみたいだ。よかったね。
「何かご用ですか?」
 私が首を傾げると、ムキムキ坊主さんは視線を逸らし逡巡する様子を見せた後、後ろ手に持っていたそれを私へと差し出した。すごく大きな、飴の袋だ。
「これ、いつももらってるんで」
「えっ……」
「たまたま……そう、偶然人から沢山もらったんだ。良かったらもらってくれないか」
 そう言ってムキムキ坊主さんは、困り顔のような柔らかい笑顔を見せた。
 別にお返しが欲しくて飴を渡していたつもりではなかったんだけどな……と思ったけど、彼のその表情に絆されて、ありがたく頂くことにした。
「あ、じゃあこれ、黒子の人と双子君にもおすそ分けしといて下さい。この前欲しがってたので」
 そう言って大きな袋を開け、三つ飴玉を手渡すと、ムキムキ坊主の人は不思議そうな顔をしていた。


「なにそれ、懐かしいもの持ってるね」
「頂き物です。良かったらおひとつどうぞ」
 自席に戻ると、手にした飴の袋は目ざとくお姉さまに気付かれた。ーー誰からの貰い物かと問われることが無くて、安堵してしまったのは何故だろう。
 そのままいくつか飴玉を袋から取り出して、お姉さまに手渡し、自分用にもひとつ取って口に放り込んだ。
 琥珀を煮詰めたような色の大きな飴玉は、甘じょっぱい、懐かしい味がした。



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