#上階下階の給湯室にて | ナノ



DAY1

「……めちゃくちゃ面倒くさい!!」
 給湯室の改装工事初日にして、私はげんなりしていた。
 こんなに自社フロアのお手洗いや給湯室を使えないことが不便だなんて、本当に思いもしなかった。ちょっとお手洗いに、と思うと階段を登るか降りるかが必要で、自社に戻るには行きと逆の行動を伴うわけで。たかが一階、されど一階。万年運動不足な肉体には、たった一階分の、数度の昇降運動が、結構ふくらはぎにひびいている。
「エレベーター使っちゃ駄目かなぁ」と、職場の同僚であるお姉さまは早々にボヤいていた。流石に一階分でエレベーターを呼ぶのは気が引けませんか、と真面目に答えると「そりゃあなたは若いから……」とふてくされていた。いや、言うほど私も若くはないんですが、と返すのはやめておいた。
 しかも本日、何故か来客続きでお茶出しが連続したせいで、引いた茶碗を洗って、拭いて、次のお客様へ……と、わんこそばさながらの行動をしたから尚更だ。

「疲れた……」
 何往復めかの上階の給湯室で、私は泡のついたスポンジ片手に項垂れる。社員の高齢化甚だしい弊社において、この歳でも下から数えた方が早い私はお茶出し業務に駆り出されがちだ。勝手に茶碗買い足してやろうかしら、なんて思いながら茶碗を濯いでいると、嗅ぎ慣れない煙の匂いが薄く漂って来て、私は振り返った。すると、つやつやした黒髪をオールバックにした男の人と目が合った。真っ黒な猫のような瞳に整えられた髭、顎には左右対称の目立つ縫合跡。背はそこまで高くないにしても、妙な威圧感を感じさせる。
ーー仕事は出来そうだけど、クセが強そう。
 勝手に頭の中でそう評価を下しながら、止まっていた手を慌てて動かす。ざっと水を流して茶碗をカゴに入れ、会釈をして給湯室を後にしようとした時、オイ、と呼び止められた。
「あんた、見慣れん顔だな」
 軽く目を眇めた様子に、この階の人なのだと察した私は愛想笑いを浮かべた。
「下の階の者です。給湯室が工事で」
「ああ、そんなこと言っとったな」
 彼は不審そうな目で私を観察していたが、話を聞いて納得したらしい。今のうちに、と男の横をするりと通り抜け、お邪魔しました〜と小声で告げて、私はそそくさと上階から退散した。




DAY2

 全くもって不便だ。
 職場に着いて、まず手を洗うにも自社フロアの化粧室が使えない。そのことをすっかり忘れていた私は、階段を降りながら、昨日何度も繰り返した『不便』という言葉を今日も朝一番から頭に浮かべてしまう。
 出鼻を挫かれながら下階へと足を踏み入れると、ふわり、と何とも芳しい香りが私の鼻をくすぐった。誰かの香水だろうか。品のある花の香り。その中にどこか懐かしさも感じさせ、嗅いだモノに忘れられない印象を残すような重みもある。香水に詳しくないので、香りに対する表現が曖昧になってしまうが、とにかく、魅力的な匂いだ。
 化粧室の扉を開けると、それは一層強まった。
「おはようございます」
 挨拶の声が掛かり、私も反射的におはようございますと返事をする。中ではレトロな黒いワンピースを着こなした美女が、鏡の前で美しく微笑んでいた。どうやら香りの源は、この人らしい。
 ……純粋ないい匂い≠チて、濃く香ったとしても不快じゃないんだ、ということを私は初めて知った。
 それにしても、一つ下の階にこんな目の覚めるような美女が居たなんて知らなかった。きちんと結い上げられた髪も、目元の色っぽい黒子も、赤い唇も……一点の歪みもない完璧さだ。彼女が佇む景色はよくあるテナントビルのごく普通のトイレですら、映画のセットのように思えてしまうくらいに。
 私が呆然と彼女を見ている間、彼女も微笑みを湛えて私を見ていた。白いレースのハンカチで優雅に手を拭った美女は間抜け顔をしているであろう私を見て、ふふ、と笑い声を漏らす。そのちょっとした仕草すら美しい。天はこの人に何物も与え過ぎでしょうが。
「とっても美味しそうね」
 私の横をすり抜けて、化粧室を後にする彼女の口からそんな音が漏れ聞こえたのは、気のせいだろうか。美しいのに不穏な余韻を残す響きに、私の肌が薄く粟立った。
 ……残された香りからは、ほんの少しだけ、獣のような匂いがした。




DAY3

 仕事の合間、気分転換にお茶でも淹れようと、私はマグカップとティーバッグ片手に上階を訪れた。
 午前中の廊下は人影もなくひっそりとしている。廊下の奥の方、大きめの企業が入居している部屋からは人の声が聞こえるけれど、他は皆出払っているのだろうか。
 静かに給湯室へと滑り込むと、そこには先客がいた。この数日の間に、既に何度か見かけた、社畜オーラ全開の小柄で筋肉ムキムキ坊主頭の人。私の見かけた彼は、腹の座った声で電話の先にいる人に指示を出していたり、かと思えば燃え尽きたような虚無の顔をしていたり。何せいつ見ても忙しそうで……なるべく仕事はしたくないし、定時退勤に命をかけている不良社会人の私からしてみれば、尊敬に値するタイプの人だと思っている。
 ただ、尊敬はすれど、その働き方は絶対に真似はしたくないんだけれど。
「失礼しまーす」
 通話中のムキムキ坊主さんの邪魔をしないように、そっと小声で挨拶して私はお茶を淹れる。ウォーターサーバーのお湯のボタンを押す音が妙に響く中、ムキムキ坊主さんは静かに相槌を打っていた。
ーー仕事は出来そうだけど、やっかいごとまで引き受けて損するタイプっぽいな。あのオールバックツーブロ髭の人と同じ会社の人かな。
 ティーバッグからお茶が出るのを待つ間、それとなく電話をする彼を観察する。ムキムキ坊主さんは肩でスマホを挟み、珈琲を淹れ始めた。匂いを嗅ぐと飲みたくなっちゃうじゃない、と思ったところでふと気付いた。
 この人、めちゃくちゃ珈琲飲んでる気がする。量もだけれど、頻度が。
 私がこのフロアにお邪魔するようになった数日の間に見かけたムキムキ坊主さんは、いつも珈琲を淹れていた。……わあ、典型的な社畜カフェイン中毒だー! 見た目は頑丈そうだし健康そうだけど、ワイシャツの胸ポケットには煙草も見える。これに新聞がつけば、立派なおっさん三点セット全部盛りの完成だ。
 そこまで脳内で盛り上がったところで、自分のマグカップからティーバッグを引っ張り出した。電話を終えたムキムキ坊主さんは淹れたての珈琲をひと口啜る。
「あのー、すみません」
 ふと思いついて声をかけると、彼は自分が呼ばれたのか? と不思議そうな顔をしてこちらを向いた。よく見ると目の下には薄くクマが浮いている。お疲れ様ですねぇ。
「カフェインばっかり取ってちゃダメですよ。良かったらこれ、糖分補給にどうぞ」
 ちょうどさっき、営業さんにもらった飴がポケットにあったので差し出すと、ムキムキ坊主さんは目を丸くしながらもそれを受け取ってくれた。
「……ありがたく頂こう」
「頂き物なのでおすそ分けです。お疲れ様です」
 へらっと私は笑って給湯室を後にした。……変な人と思われただろうなぁ。まあ、いいか。




DAY4

 昼食時間帯の給湯室およびトイレは、大体にして混雑するものだ。お弁当用にお茶やインスタント食品を用意する者が居るし、食後にはお弁当箱を洗う者が多い。最近はゴミの分別が厳しくて、『お弁当の空容器は、給湯室の専用ゴミ箱に水洗いしてから捨てて下さい!』と、ビルの管理会社から厳しく通達が来ているので、持参弁当派以外も食後は給湯室に顔を出すことになる。
 社会人のエチケットとして食後には歯を磨くし、化粧直しもするから、往々にして女性用の化粧室周辺は人が多くなる。普段からそうなのだから、他フロアから人が来るとなれば一層往来が激しくなるのだ。
 自階の給湯室が使えなくなった初日にそれを思い知った私は、なるべく人気の少ない時間帯を狙って上階または下階へ足を向けるようにしている。今日は午前の打合せが長引いたお陰で、図らずも遅めに休憩に入れたのが良かった。すっかり人波の引いた上階の給湯室で、私はお弁当箱を洗っていた。
『何でもいいからお弁当箱に詰めれば、それは立派に弁当なんだよ! どうせ食べるのは自分なんだし!』という友人の金言に基づき、手抜きながらも自炊弁当は何とか続けられている。外食は飽きるけど、手弁当は意外と飽きが来ないのも良い。多少の節約も積み重ねれば山になるのだ。多分。
 ぼんやりそんなことを考えながらお弁当箱を洗っていると、誰かが給湯室にやって来た。ちらと横目で見ると、すっとした立ち姿の若い男性が何をするでもなく隅に佇み、こちらを見ていた。
 最近の子(って言い方もどうかと思うけど)は顔が小さくて頭身が高いなあ、というのが第一印象だった。……訂正。イケメンだけど変な眉毛、というのが本当の第一印象。
 若いのに仕立ての良いスーツを綺麗に着ていて、育ちが良さそうだ。モデルさんみたい。ホント、変な眉毛だけど。
 そんな勝手なことを思っていたら、イケメン眉毛君が不意に口を開いた。
「いッ、いつも昼は弁当か」
「はい。そうです」
 反射的に愛想も何もない返事をしてしまうと、眉毛君は切れ長の目をまん丸にして「あ、そ、そうか……」と押し黙ってしまった。怖がらせてしまったかな。ごめんなさい。
 それにしても、私が給湯室から出た後、「キエエェ……」と猿のような叫び声が聞こえたのは何だったんだろう。





DAY5

 階段で耳を澄ますと、上下の階の給湯室界隈に人がいるか、ある程度察することが出来る。なるべく人がいない方へ行きたいので、自然と上下階の様子を伺うようになった。
 今日は上のフロアには何人か居るようだ。女性の喋り声が小さく聞こえて来る。下は……静かな様子なので、私は足を下りへと向けた。
 ところが。段を降り切って、廊下へと足を踏み出したところで急に騒がしくなった。
「あっつーー!!」
 響き渡る男性の叫び声。それと同時に、がちゃがちゃと何かを落下させる音。ちらっと覗き見すると、髪の両サイドが白くなったおじさまが、盛大に珈琲をこぼしてしまったようだ。シンクの上からぼたぼたと黒い液体が流れ落ちているし、珈琲の粉も散乱しているのが見えた。
「カドクラァ……」
「あつ、熱ちぃ!」
 頭に凝った模様のバンダナを巻いた別の男性の呆れた声にも返事をせず、珈琲をこぼした中間管理職的なおじさまは、手近にあった台拭きでワイシャツを拭っている。せっかくの白いシャツが薄茶染みてしまっていて、早くシミ抜きに出さないともうどうにもならなさそうだ。
 そんな光景を観察した私は、後片付けにしばらくかかりそうだと見切りをつけ、二階分階段を登ることを選択した。

 移動した上階の給湯室には、先程まで聞こえていた人の声もなくなっていた。上がって来てよかった、と私は洗い物と洗剤の入ったカゴを置き、お弁当箱を洗い始めた。しばらくして、ぬっと現れたのはオールバックツーブロ髭の人だ。この人、気配が無くてびっくりする。目だけじゃなくて動きも猫みたいだな、と新たな印象を抱いた。
 ツーブロ髭さんはドリップパックを乗せたマグカップにお湯を注ぎ、蒸らしの間ぼんやりしている。広がる良い匂いに思わずすん、と鼻を鳴らすと、それをきっかけにしたようにツーブロ髭さんが口を開いた。
「随分下から上がって来たように見えたが、下は混んでたのか」
「え、見てたんですか」
 驚いて私が言うと、それには特に何も返事をせず、特徴的な目を少し細めた。そうだ、ということらしい。
「下に行ったら、珈琲をこぼしちゃったみたいで大騒ぎされてて……片付けるのに時間が掛かりそうだったので」
 私が言うと、ツーブロ髭さんは眉を顰めて「誰だその間抜けは」と呟く。下の階の人、知ってるのかな……。特徴を伝えてみると、知ってる、と返ってきた。
「そいつ、喫煙所でよく見かけるな。この前スラックスが新品だったのか、半透明のMってシールが太ももについたままだった」
 Mのシールって。私もよくお世話になってるあの赤と白のロゴの店かな。あのおじさまの太ももに貼り付いたままのシールがリアルに頭に浮かんでしまい、苦笑する。
「それ、教えてあげたんですか」
「言ってねぇ」
「うわぁ、おじさま気の毒……」
 私が同情の声を上げると、ツーブロ髭は呆れたような表情を浮かべた。……私も気をつけよう。




DAY6

 今日は一日パソコンに張り付いて書類作成に追われていた。自分一人で黙々とやる作業は全く苦では無いし、書類自体も完成したから良いのだけれど、流石に疲れた。目の奥がじぃんと痛むし、首も肩もバリバリに固まってしまった。帰りに自分へのご褒美として、コンビニスイーツでも買って帰ろう。そんなことを思いながら、上階の給湯室でカップを洗う。この時間なら後は席に戻って印刷して、最終チェックは明日でも良いだろう。
 首を傾けると、パキパキと小気味良い音が鳴った。週末に久しぶりにマッサージに行きたいかも、と首を回していると、この前飴をあげたムキムキ小柄坊主頭の人が現れた。
 お疲れ様です、と挨拶するとムキムキ坊主さんは目を瞬かせた。
「肩こりか。事務職も大変だな」
「運動不足もありますね……お恥ずかしい話ですが」
 思わぬねぎらいに恐縮しつつ笑うと、意外な言葉が飛んで来て、今度は私が目を瞬かせた。
「この前飴を貰った礼だ、揉んでやろう。……いや、いやらしい意味ではなく」
 どちらかと言えば厳つい顔の、ムキムキ坊主さんの頬がほんのり赤い。そんなことを言ってしまった後に照れるのはやめて欲しい。こっちまで変に意識してしまうじゃない。しかしせっかくのお申し出だし、お言葉に甘えてしまおう。この人の筋肉で揉まれたら、私のこのガッチガチの肩も一気にほぐれる気がする。
「じゃあ、お願い出来ますか」
「うん、任せろ」
 彼に背を向けると、がっしりした手が肩に添えられた。おっ、これは期待出来そう、と思った次の瞬間。
「いッ……でででで!!」
「えっ、すまん!」
 予想を遥かに超えた馬鹿力で、肩が握り潰されるかと思った。色気も何もない声も出るし、ちょっと涙目になってしまう。そこへ知らない声が掛かった。
「あー、ツキシマさん、セクハラですかぁ?」
 給湯室にひょっこり顔を出したのは、新たな坊主頭。口の両端に黒子がある色白の美形さんだ。彼はニヤニヤ笑いながらムキムキ坊主さんを揶揄う。この二人は同じ会社の人なんだな、と脳内の相関図に書き加えた。
 ムキムキ坊主さんは大慌てで私から距離を取り、「違ッ……! これはその、ただの礼で…!!」と弁解しているが、黒子坊主の人は新しいおもちゃを手に入れた子どものような、悪い顔をしていて……何だか申し訳ない展開になってしまった。




DAY7
 下階の給湯室で洗い物をしようと、持って来た食器洗い用の洗剤を傾けるが、出ない。いくら待っても、出ない。
「前に使ったの誰……! 足しといてよぉ!」
 思わず舌打ちしそうになるのを堪えて、私はぼやく。こういうのが『名もなき家事』って言われていて、家庭なら奥様がキレるやつだ……と、少し前に見たウェブの記事を思い出す。今ならその気持ち、すごーく、わかる。
 階段を登り自社まで取りに戻るのも面倒で、何とか一回分の洗剤が出てこないかと私は躍起になって容器を振り始めた。
「フンッ! フンッ!」
「えっ」
「えっ?」
 鼻息荒く唸りながら振っていたら、人の声がして私も釣られて驚きの声を上げる。首を回すと長めの髪を一つしばりした若い男の人が、ギョッとした顔でこっちを見ていた。私の手には、振りかざした洗剤の容器。
「おっ、お邪魔しましたーー!!」
 もう、この場には居ていられない。洗う予定のお弁当箱とスポンジをカゴにぶち込み、脱兎のごとく給湯室から逃げ出した。
 本ッ当に恥ずかしい! 私の前に洗剤使った奴、見つけ出して詫びさせてやる!


 その日の夕方。
 今日はあまりに暇すぎて、自席に座っているのも辛い。それなのに終業時間までまだ一時間もある。もうダメ、と目覚ましと気分転換がてら、だらだらと階段を登り上階の給湯室に逃げ込んだ。そうして手持ち無沙汰にお茶を淹れながら大あくびをしていたら、例のツーブロ髭の人が現れた。
 大口開けた顔、見られたな……と思っていると、よく感情の読み取れない顔のまま彼は「やる」と何かを投げて寄越した。キャッチしたそれは、ミントタブレットのケースだった。あー、目覚ましにこれは助かる。ありがたく頂いて帰ろうとしたところで、無愛想な声で呼び止められた。
「おい、全部持っていくな。取ったら返せ」
「……あ、そういう」
「どういうだよ」
 猫目がキュッと鋭利に光る。
 いや、『やる』って言ったのはそっちじゃない、とその剣呑な視線を受けて思ってしまった。もらっておいての言い草ではないんだけど、何となくイラッとしてしまった私は、マグカップをシンクに置き、タブレットの蓋を開ける。左の手のひらを上に向けて、じゃらじゃらと目一杯ミントの粒を出して、一気に全部口に入れた。
「ごひそふさまでひたァ〜」
 鼻から漏れる空気が涼しい。唖然とした顔のツーブロ髭にタブレットを投げ返し、ツンとするミントの匂いを漂わせた私は、マグカップ片手に自社へと戻って行った。
 はー、鼻が痛い。目は覚めたけど。




DAY8

「ねえ、あなた見たことある? 上の階のイケメン!」
 タンブラー片手のお姉さまが、鼻息荒く私に問い掛ける。
 イケメン? 眉毛君のことかな? ふわふわと私の頭に、色黒の顔が浮かんでくる。
 でも、ああいう若い男の子の事なら、お姉さまは『カワイイ子』って言うだろうな……。
「どんな人って? 背が高くて顔の彫りが深くて、あのー、アレよ、今度公開になる映画の主役の人みたいな顔立ちの人よ!」
 外見を聞いてみると、勢い良く特徴が述べられた。幾人かの上階で見たことのある顔に当てはめてみたけれど、正解は居なさそうだ。
「そんな人居るんですか。私も見てみたいです〜」
「私、もう上の階にしか行かないことにしたから! あなたも早く遭遇出来ると良いわね。あーん、イケメンがこんなに近くに居るなんて、人生の潤いよねぇ……」
 うっとりと頬を上気させてお姉さまが言う。意気込みが凄い。顔の良い男はいつだって女性を乙女にしちゃうんだなぁ。


 そんな話を聞いたので、上階の給湯室に行こうかと思ったけれど、「洗い物行くならついでにスポンジ替えておいて」とお姉さまにお願いされたので、下階の方へと向かった。ウチの備品は下階の給湯室の棚に避難させられているらしい。知らなかった。
「……って言われたけど、届かない……ッ!!」
 弊社の社名が記された箱は確かに下階の棚にあった。しかし、よりによって一番上の段に放り込まれていた。空きスペースがそこしかないのは見ればわかるけど、これは踏台でも無いと私の身長では絶対に届かない。上から持って来るの面倒くさいな、何とかならないかなと届かぬ手を伸ばしていると、横から大きな手が伸びてきた。
「どれ、取ってやろう。これか?」
 ビシッとスーツを着こなした大柄な男性がひょいっと棚の一番上の箱を下ろしてくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「嬢ちゃんにはちいと高すぎるなぁ」
 お礼を言うと、同情したような優しい言葉をかけられる。見上げた顔のおでこには大きなコブ? がついている。ハンペンがおでこにくっ付いてる……と大変不躾なことを思ってしまったが、それは当然口には出さなかった。
 ハンペン紳士は私が箱から新しいスポンジを取り出した後、ご丁寧に元の場所に戻してくれた。ほんと、助かった。




DAY9

 お昼休憩に所用で郵便局へと寄った帰りのこと。そろそろ暦の上では秋のはずだけれど、日差しはまだまだ元気いっぱいだ。日傘が無いと目も開けられない眩しさと暑さで、ほんの少し歩いただけで汗が吹き出てくる。
 あんまり暑いのでアイスラテでもテイクアウトしちゃおうかな、と帰り際に近くのオシャレカフェのメニューの前で考える。ボードに書かれた値段とにらめっこして、これならあっちのコンビニのでいいか……でも美味しいんだよなここのラテ……と悩んでいたら、 お店から人が出て来た。
 ちら、と顔を見ると、上階で何度かすれ違ったことのある、口髭をたくわえたイケオジ紳士だった。間が悪く目が合ってしまったので、軽く会釈をすると向こうも気付かれたようで微笑みを返された。ジャケットを脱いで片手に持ったベスト姿も様になるなぁ、と思っていると、彼はつかつかとこちらへと寄って来る。え、と思う間もなく目の前に立った紳士は、手にしたプラスチックのカップを私へと差し出して言った。
「君、良かったらこれを貰ってくれないかな。急用が入ってしまって、飲む時間が無くなってしまったんだ」
「え、でもそんな……」
「飲み物を頼もうとしていたんじゃないのかな。遠慮しないでくれ、人助けだと思って。さあ」
 イケオジはずい、と半ば強引に私にオシャンなホイップクリーム山盛りのアイスラテを押しつけて行ってしまった。去り際にウインク付きで。
 後に残された私は、開いた口がふさがらないまま、しばらく自分の身に起きたことを反芻していた。
 ……何これ。金曜日ボーナスすぎない? こんなドラマみたいなこと、ある?




DAY10

 週明けの乗り気のしない一日。
 昼食後に歯磨きをしようと上階に行くと、化粧室からきゃいきゃいと普段はしない、はしゃいだ声が聞こえてくる。何だろう、と様子を見ると、どうやらこのフロアのどこかの企業が研修か何かをしているらしく、見慣れない顔の若い女の子たちで鏡の前が埋まっていた。まあ、そんな日もあるよね、と諦めて下階へ行くことにする。
 二階分階段を降り、下階へ足を踏み入れると、こちらでも何やら混雑の気配を察した。どういうこと? と思わず眉を顰ませながら化粧室を覗くと……そこにも着慣れないスーツ姿の女の子たち。どうやら、上の階だけでは収まりきらず、下階にまでなだれ込んでいたらしい。
 お昼休みは有限だもんね、研修だと特に時間がきっちり決まっているもんね……と、開きかけた扉をそっと閉じて、ため息をこぼしながらまた階段を登る。休憩が終わってからさっと磨きに来ようかな、と思ったけれど、もう一度だけ上階へ様子を見に戻ろうと考えて階段を踏む。
 すると、踊り場で特徴的な眉毛のイケメン君と行き合った。彼は私の顔をしげしげと見てから、小首を傾げて呟く。
「……食後の運動か」
「え、いいえ。歯を磨きたいだけです」
「そっ、そうか……」
 端的に答えると、眉毛のイケメン君は困惑した表情を浮かべた。また怖がらせてしまったかな。ごめんね。




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