八:そして、春はゆく
私と尾形さんは、函館行きの列車に乗っている。列車はそれなりに混雑していて、私たちは二等車の狭い座席に何とか場所を確保し体を押しこめていた。揺れる車窓から眺める景色は、解け残った雪がちらほらと白く見えるが、随分と春めいてきたように見える。
……いつの間にかこんなに季節が巡っていたのか、と私は思う。この金塊争奪戦が本格的に火蓋を切って落としたのは先の早春、まだ雪深い季節のことだった。尾形さんが雪山で杉元さんと遭遇して、大怪我をした状態で発見された。そして杉元さんが鶴見中尉に拘束され、逃げ出して。尾形さんは病院から脱走した。それからしばらくして、私は夕張へ取材へ行くがてら茨戸に立ち寄り、偶然尾形さんに再会した。あれがもう遠い昔のように思えてしまうのは、旅に明け暮れたこの一年が濃密だった証拠だろう。
麦酒工場の騒ぎの中、攫われたアシリパさんは札幌のとある教会に連れ込まれた。周囲を27の襟章をつけた兵士たちが警戒に当たる中、何某かの尋問が行われたのだろう、と推察された。
結局、アシリパさんは追ってきた杉元さんたちに救出されたが、そこからの鶴見中尉たちの行動を鑑みると、尾形さんの言うように、金塊の謎を解く鍵は鶴見中尉の知り得るところとなったようだ。逃げ去ったアシリパさんを27聯隊の兵士たちが追うことはなく、数時間の後に鶴見中尉率いる兵士たちは慌ただしく教会から出立した。
その様子を密かに伺っていた尾形さんと私は、彼らの後を追う。兵士たちの話から、目的地が五稜郭だと知り得たのもその時だ。
「五稜郭……」
「なるほど、都合のいい場所だな」
「都合がいい、とは」
「元々陸軍の演習地だった場所だ、どれだけ撃ち合っても問題がない」
争いを前提とした尾形さんの言葉に、私は眉を顰める。が、彼の言葉は正論だろう。この先に待つのは、血で彩られた金塊なのだから。
目的地が分かれば、危険を冒してまで後を追う必要はない。私たちは鶴見中尉たちから距離を取り、裏通りを縫って駅へと向かった。
鶴見中尉率いる27聯隊は、途中で二つに分けられた。手勢を率いた鶴見中尉は、鯉登少尉と月島軍曹に後の兵を預けて馬で港の方へと駆け去って行くのが垣間見えた。一体どういうことかと訝しむと、尾形さんは少し思案して「軍艦だろう」と言った。
「軍艦……鯉登少将の、ですか」
「船で海を行けば、最短距離で五稜郭へ向かえるからな」
息を切らせながら短い会話を交わす。鯉登少将は一体、どの程度まで鶴見中尉の真意を存じておられるのだろう。彼と意志を同じくする者なのか、それとも。
「鶴見中尉は本気だ。必要とあらば艦砲射撃も辞さんつもりだろう」
尾形さんが淡々と述べた言葉に、目の前が暗くなる思いだった。
がたん、と大きく列車が揺れて、私は物思いから意識を戻す。尾形さんの体が私へと寄り掛かり、その重みに彼の存在を確認する。
尾形さんは疲れているのか、珍しく深く眠ってしまっているようだ。目深に被った外套の下、眉間に皺を寄せたまま寝息を立てている。
彼と札幌の街中で落ち合った時、満身創痍の状態に驚いたが、宇佐美上等兵と交戦した結果なのだと彼は言った。腫れた唇が、顔が、痛々しいが本人はその痛みも一向に気にしていない様子だった。……宇佐美上等兵がどうなったのかは聞いていない。恐らく、尾形さんがこの場に居るということは、そういうことなのだろう。
ここまで彼を、そしてこの金塊争奪戦にまつわる人たちを駆り立てるものは何なのだろう。それぞれの信念や叶えたい願望があってこそなのは頭では理解するが、どうにも実感を伴わないままだ。
『好奇心に殺される』
私はそんな風に評されるが、命を賭せるほどの覚悟があるかと問われればそうでは無かったのだと、この一年に出会った人々の顔を思い描いて考える。
私はゆっくりと訪れる眠気に身を任せ、静かに目を閉じる。体を預けてくれている尾形さんの体温が、命がまだここにあると示してくれていることに安堵しながら。
「何だ騒がしいな」
「ガイジンさんが酒飲んでるらしい」
周囲の客がぼそぼそと話す声が聞こえる。どこかの車両に乗っている乗客が、酒宴でもしているようだ。私は喧騒を耳にしながらも睡魔に抗えず、尾形さん共々束の間の眠りに落ちた。
ーー夢を見た。
小樽の下宿の濡れ縁に、尾形さんが佇んでいるのを私は背後から眺めていた。よく晴れた空の下、庭には淡い色の花弁が舞っているのが見える。
薄紅色の花が散る。
「尾形さん」
呼べど彼は振り返らない。その視線はただ真っ直ぐに、宙を舞う花に注がれていた。
「……なまえ」
肩を揺すられ目を開けると、尾形さんが不審な顔をしてこちらを見ていた。どのくらい眠っていたのだろう。彼の右の瞳は歪みもせずに、がらんどうの光を向ける。状況が飲み込めず何度か瞬きを繰り返していると、かさついた指が私の目尻を拭う。そこで初めて、自分が泣いていたことに気が付いた。
「……ちょっと、夢見が悪くて」
「そうか」
しゃくり上げそうになるのを堪えて言った私の言葉に、尾形さんはただ相槌を打つ。どんな夢だ、と聞かれることは無かった。
到着した函館の街は、騒然としていた。不安げな表情を浮かべた人々は落ち着きなく空を眺め、どこかへ避難しようと右往左往している。
「始まっているな」
尾形さんが呟く。何が、とは聞くまでもなかった。五稜郭がある方向から幾度も響く銃声に、港の方から太く低い砲撃音まで聞こえてくる。これは恐らく、鯉登少将の乗る軍艦からの艦砲射撃だ。……鶴見中尉はなりふり構わなくなっている。本当に、これがこの金塊争奪戦における正念場だと考えているのだろう。
「どうしますか」
「どうもこうもねぇだろ」
思わず口をついて出た問い掛けに、小馬鹿にしたような調子で返事を返されて、私は小さく笑う。まったく平時と変わらない尾形さんに、私の浮き足立った心は平静を取り戻す。
その時、ドンッ、と今までと違う方向から大砲の音が響き、私たちは振り返る。港とは反対側、山手からの砲撃音だ。……これは、一体どういうことだろう。海の方を見遣れば、薄く煙の上がる船影。今の砲撃が軍艦に命中したようだ。
「なまえ、行くぞ」
「尾形さん、今のは……」
「俺に聞くな」
足早に進む尾形さんを追いかけて、私は小走りに続く。山側からの砲撃音は続くが、今はそれを追求している暇はない。とにかく、現場へと追い付くことが先決だ。
用心に民家の敷地を抜ける途中、急に先行する尾形さんが立ち止まり、私は彼の背中に強かにぶつかった。
「……った……えっ」
何で急に止まるんですか、と文句が口を突こうとしたが、目の前に一瞬見えた人影に口籠る。
「永倉さん……」
こちらに気付きもせずに駆け去った小柄な影は、間違いなく永倉さんだった。続けて馬の嘶きと、蹄の音が遠ざかっていく。向かったのは山のほうだ。
「あの山の手からの大砲は、土方さんたちが?」
「さあな。俺たちには関係のないことだ」
尾形さんは手早く繋がれていた馬に鞍と手綱を付けて騎乗する。差し伸べられた手を握って、私も彼の後ろに乗った。
馬は駆ける。戦場へと。
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