触れ合う透明度 13.
男たちは麦酒ですっかり酔っ払い、本堂に並べた布団の上で鼾をかいて眠っている。アシリパさんも疲れていたのだろう、にわかに宴会と化した夕餉の最中に船を漕いでいたのを、土方さんが別室へ連れて行き休ませた。私は後片付けを終えてから、一番最後にひとり与えられた離れの一室へと下がった。
網走監獄への突入前を思い出させるような、温かい夜だった。屈託なく笑う男たちの顔に、私の張り詰めていた心も緩むような気がした。……そこに、彼の姿が無いことだけが、気掛かりだった。
杉元さんが合流した今、尾形さんはのうのうとここへ顔を出すわけにはいかないのはわかる。一度彼らが顔を合わせたなら、例え土方さんが制止したとしても、二人は殺し合うことを止めないはずだ。杉元さんの瞳の奥に燻る炎を思い出した私は身震いする。接近戦になれば、尾形さんは杉元さんには敵わないだろう。片目の視力が失われている今なら尚更だ。決着を付けるなら、尾形さんは身を隠したまま、杉元さんを狙撃するはずだ。……あの、網走の夜のように。
私は不安混じりに周囲の気配を探る。夜はしんと静まり返り、ただそこに闇があるだけだった。
離れの冷えた室内に入った途端、口を押さえられて体を羽交い締めされた。悲鳴はくぐもった音にしかならない。抵抗し身を捩ると耳元で「俺だ、大人しくしろ」と聞き慣れた声がした。
「お、がたさん」
ゆっくりと口元から手が外され、安堵の息と共に名前を呼ぶ。男は反省の色もなく、するりと畳の上に腰を落ち着けた。そうして座れ、と指で示すので私も黙って正座した。
「手短に言うぞ。俺はしばらく身を隠す。あの露兵にも、杉元にも見つかると厄介だからな。お前はこのまま土方歳三たちと行動を共にしろ。急に居なくなると奴らはお前を探すだろう。そうなると厄介だ」
彼の発言はすべて最もだ。私が今、尾形さんと行動を共にするのは利点がない。私は一瞬、迷った末に口を開いた。
「……分かりました。でも、尾形さん」
「なんだ」
「約束してください。一人でどこかへ行ってしまわないって」
自分の声が思っていた以上に縋るような響きで、頬がかっと熱くなる。戸惑いに視線を彷徨かせていると、ふっと息を漏らし尾形さんは笑った。
「笑い事じゃないです」
「分かってる。お前は俺を追う約束だからな」
ほんの少し口角を上げた尾形さんの視線が柔らかくこちらへ向けられているのが、暗い室内でも分かった。同時に与えられた『約束だから』という言葉が信じるに足るものだと、私には思えた。
「ご無事で」
「ああ。上手くやれよ、なまえ」
そう言い置いて、尾形さんは密やかに出て行った。彼の立ち去った後を、私は長い間、ぼんやりと眺めていた。
そして犯行期限の日がやって来た。朝から私たちは総出で札幌市街を走り回る。
「急げ……今夜を逃せば犯人はどこかに姿を消す!」
土方さんが珍しく焦りを滲ませる。私も普段の洋装姿で彼らと共に聴き込みに当たっているが、件の男の動向は杳として知れず、時間だけが無慈悲に過ぎていく。
「もうダメだ、この広い街で次の殺害現場を当てるなんて不可能だ!」
夕陽の射す中、手がかりのひとつも見つからず手ぶらで戻った私たちの間に、白石さんの呻きが流れる。そう漏らしてしまうのも最もだと思うほど、札幌の街はあまりに広く、人が多かった。
と、その時。通りの向こうからとぼとぼとこちらに近づいて来る影があった。薄汚れた、額の広い小柄な風貌には見覚えがあった。
「石川啄木……?」
襤褸切のようになった着物を引き摺り、さながら幽鬼のような姿の石川さんを、永倉さんが抱き止める。目だけを爛々と輝かせた石川さんは、ひしと永倉さんの襟元を掴み、叫ぶように言った。
「第七師団に追われてドブに隠れてました。次の殺害現場が分かったからです!!」
私たちは泥だらけで悪臭を放つ石川さんを連れて、市街に別途借り受けている長屋へと舞い戻った。最低限の清拭だけを済ませた石川さんは、興奮状態のまま滔々と自説を語る。
「犯人はジャック・ザ・リッパーの真似をしているので、犯行時間の真夜中までまだ時間があります。この地図を見てください」
そう言って、握りしめていた一枚の紙切れを広げた。
「その地図は札幌ではない。どこの地図だ?」
「倫敦のホワイトチャペルです」
土方さんの問いに端的に石川さんが答える。倫敦の地図が、今回の事件にどう関係するのだろう……私はぐっと首を伸ばし、皺だらけの地図を睨む。地図上にはいくつかの数字が乱雑に書き加えられていた。
石川さん曰く、この地図のあった土地には『売春婦の教会』と呼ばれた教会があったのだと言う。ジャック・ザ・リッパーの被害者たち、つまり街娼たちは、当時警察の標的にならないよう教会の周りをぐるぐる回って客を取っていたのだと。
石川さんは札幌の地図を広げ、倫敦の地図と照らし合わせる。川の位置、教会の場所、そして犯行現場。これらがぴたりと一致することを確認して、ぞわと鳥肌が立つ。
「犯人はホワイトチャペルと似たこの札幌の街で、犯行現場の位置まで再現しようとしていたんですッ」
そう言って石川さんは5人目の犯行現場と予想される地点を、札幌の地図に書き加えた。
その場所は、札幌麦酒工場だった。
「石川、お手柄だ。見直したぞ……!」
喜びに打ち震える永倉さんに、石川さんはふっと腫れた顔をほころばせて言う。
「あんたらの蝦夷共和国ってのが面白そうだから、どうしても見届けたくてね」
『面白そうだから』。その言葉に私ははっとする。彼もまた、私と同じく好奇心の獣を身の内に飼う者なのだ。大体において、新聞記者なんてそういうものなのかもしれないが。
と、石川さんのぼろぼろの着物から落ちた一葉のはがきを取り上げた白石さんの表情が急に険しくなる。どうしたのか、と思えば彼はひらひらとそのはがきを振って見せた。
「オイ啄木ちゃん、この絵葉書……東京から札幌薄野遊郭に出張してきてる話題の花魁じゃねえか。まさかお前、本当はこの事件を解決させた手柄で『あわよくば』って魂胆だったのか?」
「だって花魁は……!!大金積んでも好かれないとヤレないんですよ?」
絵葉書を奪い返し、白石さんの指摘に噛み付くように石川さんは反論する。その顔は全く反省の色もなく、対価を求めて何が悪い、といった風だ。反応としてはいかにも石川さんらしいのだけれど……皆が石川さんを見る目はあっという間に冷ややかになり、白けた空気が室内に流れる。私も含めてその場に居合わせたほぼ全員が、本当にこの人はどうしようもないな、と呆れた顔をする。先程まで石川さんの背を支えてやっていた永倉さんは、さっと身を返し蔑むような視線をして、呟いた。
「あーあ……死んでバッタに生まれ変わればいいのに」
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