触れ合う透明度 10.
菊田さんとの邂逅とそこから知り得た情報を、どの程度まで話すべきなのだろう。私は皆が居る街外れの寺まで歩きながら思案する。
特務曹長、ということは今の彼は27聯隊の中では鶴見中尉、鯉登少尉に続く地位にいるはずだ。しかし彼は長らくの療養から明けたばかりで、この金塊争奪戦のすべてを把握しているわけでは無さそうだ。それは彼と登別で療養を共にし、かつ彼から信頼されていたように思われる有古一等卒の言動からも推察できる。
菊田さんを裏切るようなことはしたくない、というのは私の我儘だろう。既に彼を騙すような形で、彼から相応の情報を引き出しているのだから。それでも感情が先立って、私に躊躇させる。
中立な立場で居るべきである新聞記者が、一方の勢力に加担するのはどうなのだろう、と今更ながらに思う。しかし、そんな迷いが通じる状況では無いほどに、私はこの戦いに飲み込まれているのだ。
『これでもう、最後まで抜けられんぞ』
樺太から戻った後、尾形さんから囁かれた言葉が脳裏に蘇る。彼が言ったように、死にたくなければ、最後まで立っていたければ、迷っても戸惑っても走り続けるしかないのだ。……それが、誰かの死の上に成り立つことを受け入れた上で。
煩悶したまま足を動かせば、あっという間に寺の前にたどり着く。そしてそこには尾形さんの姿があった。夕陽を背に立つ影は言う。
「遅かったな」
「お願いされていたもの、買って来ましたよ」
どうぞ、と素知らぬ顔をして尾形さんへ弾薬を差し出す。しかしそれを彼は受け取らず、ひたとその片方だけの黒い目で私を見つめた。
「……どうかされましたか」
「お前は誤魔化しが下手になったな」
ふん、と鼻で笑いながらそんなことを尾形さんは言う。私が眉を顰めると、それを無視して彼は私の手首を握り元来た道を戻り始めた。訳が分からずついて行きながらも、こんな風に手を引かれるのは本日二度目だなと少し笑ってしまう。引かれる手の温度は、先の菊田さんのものと比べ雲泥に冷たいのに、伝わる脈に先程以上の温かみを感じ取ってしまうのは、何故なんだろうか。
寺から少し離れたところで、尾形さんは足を止めた。そしてまた黙って私の顔を見つめる。
「誤魔化しが下手になったって……それはお互い様じゃありませんか」
「俺に隠し事とは、良い根性してやがる」
何も言わない彼に痺れを切らせて、とりあえず思ったことを口にすると、完全に上から目線の憎まれ口を叩かれた。気難しい猫はご機嫌斜めだ。
しかしこのままでは話も何も進まないな、と私は諦めて、先程まで共にいた人のことを話すことにした。
「菊田特務曹長殿に、お会いしました」
「どこで」
「この弾薬を買いに立ち寄った猟銃店で」
菊田さんの名を告げると、尾形さんはきゅっと黒目を鋭く尖らせた。反応を伺うが、それ以上の表情の変化は見えなかった。
「何を言われた」
「……どうして北海道に居るんだ、ですとか。当たり障りのないことです。あの方は、私が27聯隊の兵舎に出入りしていたことをご存知無い様子でした」
「だろうな」
さも当然と言った相槌に、私は内心疑問を覚えた。
確かに尾形さんは私が兵舎に出入りしていた頃、菊田さんがその場に居ないことを知っている。しかし、鶴見中尉がどのような情報を菊田さんへ伝えていたかの詳細までは知らないはずだ。それなのに確信を持ったようなこの反応は……。これは穿ちすぎなのだろうか。
「菊田特務曹長殿はお前に何を話したんだ」
そんな私の猜疑心を知らずか、尾形さんは続きを促す。
尾形さんと、菊田さんの間には一体何があるのだろう。私には見えない糸が張られているように思えるのは、本当に気のせいだろうか。
「例の連続殺人犯を追っている、と」
「……あっちも犯人が囚人だと読んでいるってことか」
「そうでしょうね。でなければ、鶴見中尉がわざわざ特務曹長を遣わせるとも思えません。この調子ですと、近いうちに27聯隊の本隊がやって来る可能性があります」
私がそう言うと、尾形さんは何かしら思案するように目を伏せた。
その様子を見ていて、ふと、樺太の闘争劇の最中に告げられた言葉を思い出し、私は身震いする。
『俺は中央に繋がりがある』
その言葉が真実なら、尾形さんと中央の間には、何かしらの繋がりがある。
そして菊田さんは不自然に第一師団から第七師団へと転属をしている。
彼らの間にあるものが、軍部の中央参謀本部なのだとしたら、尾形さんの反応に辻褄が合わないだろうか。そこまで考えて、私は背を震わせた。
ーー近くなったと思えば、また遠ざかる。尾形さんの真意にはいつになれば手を伸ばせるのだろう。それが許される日は、果たして来るのだろうか。
「菊田さんの他には誰が来ている。単独行動ではないだろう」
「あ……姿は見ていませんが、宇佐美上等兵の声を聞きました」
沈黙を破る深い声に、私は顔を上げ思考を中断して事実を伝えた。尾形さんは「宇佐美か。面倒だな」と呟いてこちらへ向き直る。
「なまえ、ジイさんたちには今の話は伏せておけ」
「……え、」
「お前の憧れの『軍曹殿』が殺されても構わんのなら話せばいい。……戻るぞ」
言い捨ててさっさと尾形さんは踵を返す。私は慌ててその背を追いながら、また途方に暮れる。
結局、私は土方さんへ菊田さんの存在と、彼から聞いた情報を伝えることは出来なかった。
尾形さんの発言だけが理由では無い。元から、私の胸中には菊田さんの無事を願う少女の私があって、彼が不利益を被ることをどうしても許せなかったのだ。尾形さんはその気持ちを後押ししただけだ。
「なるほど、27の襟章の付いた軍人がうろついていた、と」
妥協案として、27聯隊の兵士が札幌で見かけられたらしいと聞いた、とだけ私は報告を上げた。
「……はい。猟銃店の店主の話です。単なる情報収集のためか、何かしらの目的があったのかまではわかりません」
「札幌は大きな街だ。鶴見中尉が斥候を遣わせていても不自然ではないな」
そう言って永倉さんと土方さんは、新聞社で得た各事件現場の状況と共に、私の曖昧な話を疑うことなく真剣に吟味をし始めた。
良くして下さっている彼らへ肝心なことを黙っていることに良心が痛む。しかし菊田さんのことを告げることはそれ以上に、無理な選択肢だった。膝に置いた拳を握りしめながら、私はそつない笑みを浮かべて、二人の話を聞いていた。
「ちゃんと黙ってたな」
話し合いの後、外の空気を吸おうと縁側へ出ると、待ち構えていた尾形さんがすかさず声をかけてきた。
「聞き耳なんてお行儀が悪いですよ」
私がそう言うと、尾形さんはどこか満足げな、薄い笑みを口元に湛えた。そんな彼の表情に、何故か私の涙腺が刺激される。ぐっとそれを堪えて空を見上げると、澄んだ冬空に散りばめられた星々の光は美しく瞬いていた。
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