飛花追想記/殉情録 | ナノ

触れ合う透明度 09.



菊田さんは私の手を引いたまま、通りを足早に通り抜ける。時折ちらと後ろを振り返り、追手ーー宇佐美上等兵の姿が見えないかを確認しながら。私は大股で進む彼に着いていくのに必死で、懸命に足を動かしていた。こんなことを思うのは場違いだと思いながらも、見上げる彼の姿にどこか胸を弾ませることを止められないまま。
裏通りに入り、菊田さんは一軒の店へと滑り込んだ。入る直前に見えた看板は、蕎麦屋だ。
「悪い、ちょっと二階借りるぜ」
菊田さんは端的に店の女へ告げて、そのまま階段を上がる。そうしてさっと私を空き部屋へ通し、静かに襖を閉めた。

狭い部屋の中で、彼の堂々たる体躯はますます大きく見える。私たちはしばらく無言のまま息を整えつつ、互いの姿を観察していた。
「……菊田、軍曹どの」
「なまえ、本当になまえなんだな?何故お前さんがこんなところで、何してるんだ一体……」
私が沈黙を破ると、つられて堰を切ったように菊田さんが疑問を口にする。そして彼の指が伸ばされて、存在を確かめるように私の輪郭をなぞる。その勢いに私は思わず笑い声を上げてしまった。ずっと会いたかった人との再会と、置かれた緊迫感ある状況。そのちぐはぐさが私の笑いを誘発する。くすくすと笑い続ける私を困り顔で菊田さんは見つめる。
「おいおい、笑いごとじゃねぇだろ……」
「そうですね、すみません」
ひとしきり笑いの波が落ち着いたところでとりあえず座れと言われ、畳に座った。私の前に菊田さんはどっかと胡座をかいた。
「お久しぶりでございます、菊田軍曹殿」
「ああ。……今は軍曹じゃないんだが」
「階級が上がられたんですね。それはおめでとうございます」
私が賛辞を贈れば、彼は少し照れ臭そうに頭を掻いた。
菊田さんが今、特務曹長であることは尾形さんと有古さんから聞き及んでいたが、彼の立ち位置と知り得ている情報がわからない以上、不用意なことは言えない。私はひとまず何も知らない体で彼と対峙することに決めた。
菊田さんは菊田さんで、私のことを図りかねているのが伝わって来る。私の身上の話なら、もし鶴見中尉へ伝わっても尾形さんや土方さんへ迷惑を掛けることは無いだろうと判断して、現状を少し明かすことにした。
「私は今、小樽の新聞社に勤めております。日露戦争はわが国の勝利により終結致しましたが、露国との関係は今後も注視すべき事項だと、東京の新聞社から露国に近い北海道での取材を命ぜられまして。……個人的に、この北の地に興味もございましたので」
「お前さんのジイさんが良く許したな」
「可愛い孫娘の我儘は、断れない性質なんですよ」
ふふ、と笑って告げれば、菊田さんはいくらか緊張を解いたように見えた。
この様子だと、彼は私のことを鶴見中尉から何も聞いていないようだ。有古一等卒の話によれば、彼らは戦後引き揚げたその足で登別へと向かい、長い療養生活を送っていたという。ある程度鶴見中尉とは連絡を取り合っていただろうが、一介の新聞記者のことなどわざわざ下達されるほどの事でもないだろう。
……それは、私にとっては好都合なことだ。彼と敵対することは、私の本意ではない。
「なるほど。しかし小樽の新聞記者のお前さんが、何故札幌にいるんだ」
「取材です。こちらで不穏な通り魔事件が起きていると記者仲間から伺いまして。ちょうど立花の家のお客様との約束もございましたから」
さらりと真実を織り交ぜて言えば、菊田さんは至極納得した顔をした。自分の身の疑念を晴らしたところで、今度はこちらから切り込む。
「菊田軍曹殿……でなくて、今は、」
「特務曹長だ。なまえ、お前さんは軍属じゃないんだ。菊田でいい」
「では、そう呼ばせて頂きますね。菊田さんはどうしてこちらに……」
小首を傾げ、興味津々といった顔を作り彼を見る。すると菊田さんはわかりやすく困った顔をした。
「日露戦争前に第七師団へ転属になったんだ。札幌に来たのは上官からの命令でな。ちょっとここで、探し人と言ったところだ」
「それはもしかして、かの連続殺人犯ですか」
菊田さんは沈黙する。それが答えだ。
やはり、鶴見中尉も話題の殺人犯が刺青の囚人だと踏んでいるのだろう。だとすれば、鶴見中尉がこの札幌の地へやって来る日も遠くないだろう。早く、こちらで疑惑の男を捕らえなければーー。
「それにしてもどうして、陸軍がこの事件に手を出すのですか。官憲が追っておりますでしょうに」
「……お前さん、しっかり仕事してんだなぁ」
私の問いかけに、菊田さんは感心したように声を漏らす。それはごまかしなどではなく、純粋な感嘆の音色だ。久しぶりに会った姪か誰かが、思った以上に大きくなって驚いた、といったような反応。当然だけれど、やはり彼にとっての私はそういった類いでしかなかったのだと突き付けられたようで、小さく胸が痛んだ。
菊田さんはしみじみと私を見つめながらも、何か思案していた。気のいい彼のことだ、機密事項を漏らすようなことはしないだろうが、昔馴染みのよしみで伝えられることはないか考えているのだろうか。
「なまえ、仕事熱心なのは良いが、今の札幌は危険だ。特にこの事件の犯人は普通じゃないんだ」
「普通ではない……だから菊田さんが、陸軍が捜査に協力されていると?」
「まあ、そうだ。……犯人は、網走監獄からの脱走者の可能性がある」
「網走監獄からの?」
予想通り、鶴見中尉もその線を読んで菊田さんと宇佐美上等兵を札幌へと派兵したのか。確信を得た私は、菊田さんの言葉に殊更驚いたように目を丸くしてみせた。私の反応に重々しく菊田さんは頷き、言葉を続けた。
「聞いたことはないか?日露戦争の開戦前に、移送中だった囚人二十四名が逃走したんだと。戦争のどさくさに紛れて、逃走者の追跡は大してされてなかったらしいんだが……」
「そのうちの一人が今回の犯人かもしれない、ということですか」
ああ、と菊田さんは肯定する。
これ以上の詮索は危険だと、私の記者としての直感が告げる。菊田さんが鶴見中尉の真の目的を知った上で、彼に従っているのかは是非にも知りたいところだけれど、そこに触れるのは不利益が多すぎた。
何にせよ、彼と偶然に再会できたことは大変に喜ばしいことだ。札幌の新聞社から囚人についての新しい情報を得ることは出来なかったが、思わぬ方向から大きな成果も得ることができた。
「……そろそろ、出ないと」
「そうだな」
私が促せば、菊田さんも素直に同意した。

「とにかく、無茶なことはするなよ。今回の事件の犯人は女を狙ってるんだ」
二階の部屋から階下へ降りながら、菊田さんは諭すように言う。
「わかっています。夜は大人しくしていますからご安心ください。……あの、菊田さん。私と会ったことは、くれぐれもどなたにもお話にならないようにして下さいね」
「ん、ああ、そのつもりだが……」
「特務曹長ともあろうお方が、勤務中に女と蕎麦屋に居た、なんて知れたら大変ですから」
くすりと笑って釘を刺せば、彼はぎょっとした後大きなため息と共に天を仰いだ。
「いや、この場所はそう言う意味で選んだんじゃなくってな、」
「分かっていますよ。冗談です」
慌てて取り繕う菊田さんが可愛らしくて、私は機嫌良く笑う。こうやって対等な立場で話が出来るようになっただけで、かつての私の思いは昇華されるようだ。とにかく、宇佐美上等兵に私の存在を告げることはこれで無いだろう。
「俺はまだしばらく札幌に居るだろうから、もし困ったことがあれば頼ってくれ」
そう言って菊田さんは投宿している宿の名を告げ、私に裏口から出るように指示した。
「菊田特務曹長殿」
去り際の背に呼びかける。振り返った彼の姿を、しっかりと目に焼き付けた。
「どうぞ、ご無事で」
私が今言える、すべての気持ちを込めた言葉に、彼は優しい笑みを返し去って行った。

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