飛花追想記/殉情録 | ナノ

触れ合う透明度 07.



肌寒さを覚えるような秋の夕陽の中、馬に乗って家路に着いたあの日。子どもをあやすように私の頭を撫でた大きな手のひら。背後から香る煙草の匂い、ほろ苦い秋刀魚の味。どこか寂しさを連れた長身の背中と、優しい眼差し。
初めて胸をときめかせた彼にまつわる諸々が、一斉に私の脳裏を駆け巡る。
「みょうじさん、大丈夫ですか」
肩を揺すられて、私はハッと息を吐く。懐かしい記憶の奔流に飲まれ、目の前のことが見えなくなってしまっていたらしい。心配そうに顔を覗き込む有古さんに私は頷いて答える。
「すみません、ちょっと驚いてしまって……。菊田軍曹、いえ、今は特務曹長殿でしたね。あの方には確かに以前お世話になりました。でも、どうしてそれを……」
「療養中にあなたの話を聞いたことがありました。新聞記者として駆け回っている女性が居る、と」
「……そうでしたか。覚えて下さっていたんですね、菊田さん」
私が言えば、有古さんは少し迷うような表情をした後に口を開いた。
「お守りを、大切にされていました」
その一言についに息が止まる。
彼が出征される前に、『ご無事でありますように』とありきたりな言葉でごまかして渡したそれを、大陸から引き揚げてくるまで大切にしてくれていたなんて。押し寄せる万感の思いに私は立っていられなくなり、その場にしゃがみ込んだ。
「おーい、みょうじさん大丈夫かー」
「あー、イポプテがみょうじを泣かせてやがる」
「ちがっ、違います!!」
周りで門倉さんやキラウシさんが有古さんを囃し立てる声が聞こえる。慌てふためいている有古さんには申し訳なかったが、私は動くことが出来なかった。
少女の頃の私の淡い想いは、ちゃんと菊田さんに届いていた。それを知ることが出来て、心の中にずっと残っていたしこりが溶けて、消えていく。喉の奥から漏れそうになる嗚咽を堪えて、私は深いため息をついた。

息を整え胸をさすり、やっとの思いで立ち上がったところに土方さんがふらりと現れた。悠然とした微笑みを浮かべて、彼は私を呼ぶ。
「盛り上がっている話の腰を折って悪いが、なまえ、少し来てくれるか」
「あっ、はい!」
私は目尻を拭い、気持ちを切り替える。おろおろと目を泳がせたままの有古さんには「大丈夫です、また後で」と告げて、土方さんの後を追い奥の間へと進んだ。そこには永倉さんと、額の広い小男が私たちを待っていた。
「ああ、君か。久しぶりじゃないか」
「これは石川さん、ご無沙汰しておりました」
新聞記者の石川啄木氏だ。彼と顔を合わせるのは網走に向かう途中、北見を出た頃が最後だっただろうか。土方さんに命ぜられ別行動に移ったと聞いていたが、またどこからか合流していたらしい。彼は額を撫でながら、以前と変わらないじっとりとした視線で私を眺めた。
「聞いたところによると、君、27聯隊の先遣隊と一緒に樺太に行ってたんだって?しかも帰りはあの脱走兵と二人きりの逃避行。良いねぇ、本当に君はネタに事欠かない」
「石川貴様、下卑た目でみょうじを見るな」
石川さんの発言に永倉さんが間髪入れずに釘を刺す。相変わらず、永倉さんは石川さんに手厳しい。思わず苦笑を漏らすと、土方さんが仕切り直すように話を促した。
「石川、先程の話をなまえにも教えてやってくれ」
「はいはい。…… みょうじ君、最近札幌の紙面を賑わしている殺人鬼の話は知っているかな」
「……いえ、初耳です」
私が素直に首を振ると、石川さんは鼻を鳴らす。
「最近まで田舎を放浪してたんなら無理もないか。なかなか不気味な話なんだが、女ばかりを狙う通り魔事件が札幌で頻発していてね」
石川さんの話によると、主な犠牲者は人気の少ない場所で客引きをする街娼たちらしい。街角で客を取る彼女たちは、店に所属することも出来ない貧しい者が多い。なので、金銭目当ての犯行ではないだろう、というのが大方の推測とのことだ。
「その通り魔が刺青の囚人に関係している、と」
「ああ。囚人の中にそういった嗜好を持った者がいた」
私が口を継ぐと、土方さんは静かに肯定する。なるほど、収監されてもその嗜好までをも修正することが難しいのは、今まで遭遇してきた個性的な囚人たちを見ればよく分かる。
「それで、私は何をすれば良いのでしょう」
「みょうじにはひとまずこの札幌の新聞社を訪ねて、この通り魔についての情報を聞き出してきてもらいたい」
「かしこまりました。……でも、どうして私が?石川さんの方がこの札幌に馴染んで居られるようにお見受けしますが」
永倉さんからの依頼に頷きつつ、私は素朴な疑問を口にした。すると、永倉さんが苦虫を潰したような目で石川さんを見遣り、言った。
「こやつ、ここの新聞社とはかつて悶着を起こしておるそうだ」
「……なるほど」
苦笑しながら私は任務を了承した。石川さんは悪びれず「あれは向こうが悪いんだよ、私の価値を理解していなかったからね」などと言って、また永倉さんに呆れられていた。
「早速明日にでも訪ってみることにしましょう」
「頼む。我々は別の方向から情報収集に当たろう。……後は、なまえ、お前に渡すものがある」
「何でしょうか」
土方さんがついでのようにそう仰るので、私は首を傾げる。彼はいそいそと部屋の隅から包みを引き寄せ、それを私へと手渡した。……何故か、永倉さんが先程まで石川さんへ向けていた呆れたような顔をされていて、私は訝しむ。
「開けてみなさい」
そんな永倉さんにお構いなしで、機嫌の良さそうな土方さんに告げられ、私は手元の包みを開く。そこには美しい縹色の着物と葡萄茶の帯があった。思わずあっと声を上げると、土方さんはますます嬉しそうに微笑まれた。
「美しい女がいるのに、着物のひとつも贈らんのは男としてどうかと思ってな。この街は人が多いし、其方の洋装はそれなりに目を引く。人に紛れるようこれを着てみるのも良いのではないかな」
「はあ……あの、ありがとうございます……」
「それを装ったお前を楽しみにしている」
熱の籠った視線を送られ、私は恥じ入って縮こまってしまう。
「本当に、貴方と言う人はいつまで経っても女に目がない……」
永倉さんのため息混じりの声に、土方さんはからからと朗らかな笑い声を上げられた。

その日の夕食は、尾形さんが捕まえて来た白鳥だった。白鳥はアイヌの言葉でレタッチリと呼ばれているそうで、キラウシさん曰く「今の時期の白鳥は太ってるから飛べないんで、鉄砲使わなくても簡単に捕まえられる」のだそうだ。
ぶつ切りにされた白鳥は大鍋で炊いて供された。白鳥を食べると白髪になる、とアイヌの間では伝えられているそうで、それを聞いた男たちはもぞもぞと食すことを尻込んでいた。
賑やかな夕食の風景に、私はどこかほっとする。樺太からの帰路はずっと、尾形さんと二人きりで食事時でなくとも静かなものだった。彼と分け合う沈黙は決して気まずいものではなく、心地良くもあったが、この周囲にある温かな人の気配は無条件に安心感を得られるものだ。
尾形さんは男たちの騒ぎに我関せずの顔で、黙々と鍋を食している。と、不意に尾形さんは私にだけ聞こえるように問いかけて来た。
「なまえ、有古と何か話したか」
「……菊田軍曹殿のお話を、少し」
隠し通せる気がしなくて、私は素直に白状した。有古さんと話したことはやましいことではないはずなのに、何故か胸が騒ぐ。落ち着かない気持ちを尾形さんに察せられないよう、私は静かに息を吐き、平静を装った。
私の告白を聞いた尾形さんは一瞬その片目を鋭くしたが、すぐにその棘は溶けた。
「会いたいと思うか、菊田さんに」
「それは、まあ……思わなくは無いですけど」
気持ちの見えない声で聞かれて言い澱むと、隣でくっと笑いを噛み殺すのが聞こえた。
「どうして笑うんですか」
「いつもの勢いはどこへ行ったかと思ってな。ああ、お前にとって『若い頃の思い出に過ぎない男』だからなァ菊田さんは」
「そっ、その話はやめて下さい!」
カッと頬に血が昇るのを感じ、思わず大声を上げると周囲の男たちから怪訝そうな目を向けられた。
「みょうじ、楽しそうだな。尾形に何を話しているんだい」
「牛山さん、何でもありません!何もないです!」
取り繕えば繕うほど、私の頬は熱を持つ。そんな私を見て、尾形さんはひとり楽しそうにくつくつと笑い続けていた。

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