飛花追想記/殉情録 | ナノ

はじまりの中の赤 06.



変わった刺青の入った囚人。この鶴見中尉からこの話を聞いてから、私の脳裏には緩やかな曲線を描く紋様が伸び続けている。暗い闇を走る線と線。その上を鶴見中尉の語る声がこだまする。
帰社した際に、編集長にはこの件は報告済みだ。彼は話を聞いた時、首を捻りながら何やら唸っていた。
「中央への謀反と、刺青の囚人……何の関連性だろうな?」
「編集長にはお心当たりありませんか」
「無いな。まあ…鶴見中尉がお前にそんな聞き方をするってことは、何かしらあるんだろうが……。とりあえずその囚人の件は、手始めに古い記事を漁ってみるか」
「そうですね。丁度良いので、ついでにあの倉庫をお片付けしましょう」
私がそう言うと、編集長は分かりやすく苦虫を潰したような顔をした。

結局、埃だらけの倉庫をひっくり返して出て来たのは、囚人が脱走したという小さな記事だけだった。鶴見中尉が話していた以上のことは何も書かれていない。護衛の屯田兵が皆殺しにされたなど、軍部の体裁が悪くて公表できたものでは無いだろう。
「やれやれ、収穫はこれだけか」
「倉庫が片付いたという大きな成果があったじゃないですか」
うんざり顔の編集長と、同じく埃まみれで疲労感を滲ませる同僚の記者たちとは対照的に、私は達成感に満ちあふれていた。積み重なった本や過去の新聞をきちんとまとめて整理したことで、今後は資料も探しやすくなるだろう。
「囚人の話は他の街の同業者にもそれとなく聞いてみよう。情報将校だか何だか知らんが、聞屋の情報網を思い知らせてやる…」
何故か火のついた編集長が、ぶつぶつと呟きながら次の手を考え出したので、後はお任せしますと伝えて私は帰宅することにした。

銭湯に寄り埃を落として帰宅すると、縁側に最早見慣れてしまった影があった。
「……今日も非番ですか尾形さん」
「ん」
質問には答えず、買ってきたらしい魚を私に押し付け、手にした新聞に目線を戻す。傍には酒瓶があり、すっかり呑む気で来ている。私は呆れたため息をこぼしつつ鍵を開け、土間へ上がった。
初めてここへ姿を現してからというもの、尾形さんは時折ふらりとやって来ては時間を潰して行く。私が居ない時に訪れた際には、土産を縁側に置いて帰る。何故ここへ来るのか、と問うた時、彼は特に深い意味もなさそうな具合で「ここは静かで良い」と言っていた。もしかすると、鶴見中尉に命ぜられて私を監視しているのかも知れないが、探られて困るものはここには置いていない。それに、彼は狙撃を得意とする兵士のためか、気配が薄い。私が原稿を書いている時などは、ただひっそりと枯葉が落ちる様などを眺めているだけで邪魔にはならないので、私も咎めることをやめてしまった。

七輪を外へ出し、秋刀魚を焼く。秋刀魚を焼く匂いはすこし懐かしくて、ある秋の頃に出会った人を私に思い出させる。…少し寂しげな、秋の気配を纏うその背中に、まだ女学生だった私はほのかな憧れを抱いた。
「何を考えている」
ふと顔を上げると、黒い目がじっとこちらを見ていた。
「ちょっと、昔のことを思い出していただけです」
「男か」
「……。」
私が思わず否定も出来ず黙ってしまうと、瞬きのない黒目を鋭くさせながら、尾形さんは薄く笑った。
「図星か。お前が嫁にも行かずこんな北の地で働くのは、その男が忘れられんからか?」
「違います、今私が働いていることにあの人は関係ありません。あの人は…ただの、憧れです。それも若い頃の思い出に過ぎません」
不躾な言葉に私は少しムッとしながら、焼き上がった魚を皿に盛り、居間に上がり卓に置く。後をついて来た尾形さんは、どすんと座布団の上に胡座をかいた。味噌汁に漬物と、飯を出せば手を合わせてから食べ始める。この男、案外そういうところはきちんとしている。育ちは悪くないのだろう。
「…で、その若い頃の思い出に過ぎない男の話は聞かせてくれるんだろうな」
食事を進める最中、突然尾形さんが切り出した言葉に、わたしは盛大に咽せて咳き込んだ。
「な、何でその話を尾形さんにしなきゃいけないんですか」
「酒の肴になるだろ」
湯呑み茶碗に持参した一升瓶から酒を注ぎながら、しれっと尾形さんは言う。自分のものにだけでなく、私の方にまで注いでニヤリと笑った。
「ほら、景気付けに飲めよ」
「…尾形さんの昔話も今度聞かせて頂きますからね!」
どうにも調子が狂う。私は覚悟を決め、注がれた酒に口を付けた。強くてほんのり甘い清酒の香りが鼻を抜け、私の意識を酔わせていく。ーー思い出すのはあの秋の日の夕暮れだ。



あれはまだ、私が女学生だった頃のこと。女学校と言えば良家の子女の花嫁修行の場とも言われており、結婚が決まれば祝福されながら退学し、卒業まで居座れば完全な売れ残りとして憐れみの目で見られるような場所。純粋に学問をしたいと思い通う生徒は、私を含めごく数名だったろう。早々に「嫁には行かない、卒業したら働く」と宣言していた私は、当然周囲から奇異の目で見られていた。
その日も、授業が終わった後も私は一人教室で本を広げていた。級友たちは皆お喋りに花を咲かせながらさっさと帰路についている。彼女たちの世界に馴染めない私は、やはり異端なのだろうか。それでも構わないと思ってはいるけれど。
「あ、やっぱりまだいらっしゃったわ。みょうじさん、門のところで素敵な兵隊さんがみょうじさんを探してらしたわよ」
帰ったと思っていた級友が室内に顔を覗かせて、私を呼んだ。その内容の心当たりの無さに私は首を傾げた。
「兵隊さん…?」
「ええ、ほら。あそこに」
級友の指す先を見ると、確かに軍服姿の男が馬を連れて立っていた。門から出て行く袴姿の娘たちにちらちらと見られて、居心地が悪そうだ。男を見る私の訝しげな顔に、級友は雲行きの怪しさを覚えたのか「じゃあ、わたくしはこれで…」とさっさと立ち去ってしまった。覚えがないから断って来て、と頼む相手に逃げられた私は、仕方なしに本を閉じ部屋を出る準備を始めた。

「みょうじなまえさん、だな」
「…どちら様でしょう」
彫りの深い顔をした軍服姿の男に名を確かめられ、私は警戒しながら問う。見覚えのある顔ではない。男は物入れから軍隊手牒を取り出し、私に見せた。身分を偽ったりしているわけでは無いようだ。
「軍曹さんなんですね」
「ああ。今は陸軍士官学校で指導をしている。不躾で申し訳ないが、上官からあなたを迎えに上がるように命令されてね」
「…何故でしょう」
「アンタにどうしても会いたがっている男が居てな。心当たりあるんじゃないか?」
器用に片眉を動かして男は言う。そう言われて記憶を辿れば、夏頃に大伯父からどうしても、会うだけでもと頼み込まれ見合いをした某少尉に思い当たった。かなり熱心に言い寄られたが、やはりそう言う気にはなれなくてお断りしたのだ。彼にはもっと、貞淑な…それこそ私の級友たちのような、普通のお嬢様が似合いだと。
「家の者に遅くなるとは伝えておりませんので…」
「それは心配無用。上官が立花の家に使いを出している。諦めてくれ、アンタを連れて行かないと俺が叱責されちまう」
やんわりと断ろうとするが、先手を打たれていたらしい。軍曹は困ったような笑顔を浮かべ、馬に跨って私に手を差し伸べた。
「ほら、早く乗って」
戸惑いながらもその手を取れば、軽々と馬上に引き上げられる。視界が広がり、私は目を見張る。この視点は久しぶりだ。あれはまだ私が幼くて、父が生きていた頃ーー。
「馬車よりこっちの方がアンタは好みかと思ってね」
私の心を読んだかのような男の声が背後から降ってきて、私は振り返る。
「みょうじ大尉には聯隊は違ったが俺も世話になった。まだ小さいアンタが馬に乗せられて兵営に来ていたのも何度か見たよ」
目を細めて言うその姿が眩しくて、私は慌てて視線を前に戻した。手綱を持つ腕が私の体の両側に伸ばされ、急に跳ねた心臓の音がやけに耳に付いた。

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