閑話:幼い闇の向こう側
土方一行の拠点のひとつにたどり着いた後、なまえは精魂尽き果てたように畳へと転がり込んだ。息が上がり、体からはじっとりと不快な汗が滲む。彼女が荒い息を繰り返す横で、尾形はじっと様子を見ていた。
ーー普段より顔色が悪い。無理をさせたか。
怪我人とは言え、男で軍人である尾形でもこの寒中の強行軍には疲労感を覚えている。増してやなまえは普通の女なのだから、無理もないことだろう。
「外れだったな」
尾形が言うと、なまえは体を動かすことも億劫そうに、視線だけをこちらへ向けて答えた。
「そうですね……。どうします、このまま出ますか」
「いや、雲行きが怪しい。日が落ちるまでに次の拠点までたどり着けるか微妙だ」
ちらと視線を走らせた先の空には、黒く厚い雲が広がっている。二人はここで夜をやり過ごすことに決め、急いで薪を集め馬を納屋へ避難させた。
竈に火を入れると、小屋の中に暖かい空気が満ち始める。それにほっと息を吐いたなまえの視界は、眠気に誘われて徐々に暗くなっていく。
「おい、そんなとこで寝るんじゃねえ」
「あ……はい」
最もな尾形の言葉になまえは返事をし、のろのろと室内へと移動する。畳へ上がったところで限界が来たのか、そのまま倒れ込むように意識を失ってしまった。
「お、おい。…… なまえ!」
その様子に尾形は珍しく狼狽した。なまえの薄く開いた唇からは早い調子で呼吸が繰り返されている。穏やかな寝息とは程遠いそれに、尾形は彼女の首筋へと手を当てた。脈が早く、体が熱い。
「……チッ」
憎々しげに舌打ちをしたが、それは当然なまえの耳には届かなかった。
苛立ちを隠せないまま尾形は乱暴に家探しし、古びた布団を見つけ出した。雑に埃を払い、囲炉裏近くに敷く。ぐったりと倒れ伏したままのなまえを抱き上げると、その体は思いの外軽く、尾形の胸が落ち着かなく騒めいた。
敷布団の上に下ろした体から、分厚い外套を剥ぎ取る。続けて上着に手を掛けたところで一瞬、尾形は動きを止めた。何もやましいことをしようとしているわけではないが、意識のない女の服を脱がそうとしている事実に躊躇する。しかしそれもほんのわずかな間のこと。尾形はなまえの上着の釦を外し、襯衣の首元をくつろげてやった。そうして布団を肩まで掛け、その枕元へ座り込んだ。
囲炉裏に火を起こし、側で眠る女の顔に陰影が踊るのを尾形はただ見つめて夜を明かした。時折苦しそうに唸ったり、咳をしたりはするが、死が迫るほどのものではない。それなのにいつ容体が変化するかと思うと落ち着かず、眠れなかった。
……他人の状態を気にするなど自分らしくないと自嘲してみるが、それでも不安な思いは夜中消え去ることは無かった。
翌朝、雪が止んだ隙に尾形はなまえを連れて次の拠点を目指すことにした。気が済むまで寝かせておけば自然と治るだろうとも考えたが、少しでも早く、きちんとした休養を取らせたいと思った。そしてそれ以上に、自分ひとりでこの柔く不安定な命を受け止めているという事実が堪え難かったのだ。
ーーこの場に奴らが居れば、甲斐甲斐しく的確に世話を焼いたのだろうな。
ふと、樺太で自分が裏切ってきた者たちの姿が脳裏に浮かぶ。そんな想像をしてしまうこと自体が今までの尾形はありえない事態だった。
女の顔色は昨晩より幾分ましに見えるが、それもそうであって欲しい、という願望が見せているものかもしれない。いずれにせよ、先を急ぐことは悪手ではないはずだ。
なまえの体を毛布で包み、抱え上げる。横抱きにした体は馬上で不安定極まりなかったが、自分へともたれ掛からせることで何とか固定した。
「おい、こいつに世話になってるだろ。落とさんように慎重に走れよ」
思わず馬へ声をかけると、馬は理解したと言うように鼻を鳴らした。
冷たい風を切り、馬は走る。途中、なまえは一瞬意識を浮上させた。
「おが、た、さん」
「気付いたか。馬から落ちんようにだけしてろ」
掠れた吐息混じりの声に、尾形の胸がまた騒めく。そんな様子を悟られぬよう素っ気なく指示すると、なまえは微かに頷きまた目を閉じた。
尾形はぐっと前方に視線を向けて、はやる気持ちを押し留める。腕の中の女を落馬させないよう抱き寄せる力は強めながら。
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