閑話:北見夕景
郵便局で手紙を出した後、杉元さんとアシリパさんと別れた私は北見の街を散策することにした。今日はこの街で宿を取ることが決まっているので、多少出歩いても問題はないし、日没までまだ時間がある。
ふらふらと大通りを歩いていると、すっと目の覚めるような香りが鼻をついた。小間物屋の店先から香るそれに釣られて足を向ける。
「すみません、この香りは何でしょうか」
「ああ、これですか。薄荷ですよ」
店の男に問うと「北見の新しい名物なんです」と笑って教えてくれた。
何でも、この街では近頃薄荷の栽培が盛んに行われているらしい。その薬効のみならず香料としても高く取引されるそれは、北見の風土に合っていたらしく栽培が順調で、この地に大きな富をもたらしているのだという。栽培された葉を蒸留したものは、爽やかな香りと目の冴える涼やかさをもたらす。試しにどうぞ、と差し出された小瓶に鼻を近付けると、確かに東京にいた頃嗅いだことのある薄荷とは鮮烈さが段違いだ。……これは大伯父たちに教えると喜びそうだな、と思い至り、薄荷の卸を請け負っている者の名を聞き手帳に書き付けた。
小間物屋の主人に礼を述べ、再び街を散策していると、急に背後から襟元を引かれた。
「きゃっ……!」
「何ほっつき歩いてやがる」
跳ね上がった心臓に次いで、背後から現れたのは猫のような男の黒々した目だった。見慣れたそれに私は長々と安堵の溜め息を漏らす。
「尾形さん……驚かさないで下さい」
「郵便を出しに行くと聞いたのになかなか戻らんと思ったら、こんなところに居たとはな」
「遊んでいたわけじゃありません、取材ですよ。今夜はこの街に滞在すると土方さんが仰っていたでしょう。まだ日が落ちるまで時間があるので、仕事に勤しんでいます」
引っ張られた衣服を正しながら私が唇を尖らせると、尾形さんはさも気に入らないと言うように鼻を鳴らした。きゅっと細まる目元。眼光が強まる。
「……何だこの臭いは」
そう言ったかと思えば、尾形さんはくしゃみをひとつした。
「匂い?……ああ、薄荷ですよ。この街は薄荷の生産が盛んなんですって。良いですよね、爽やかで」
先の小間物屋で試した薄荷の香りが私の服にも付いていたようだ。私は微笑んで言うが、尾形さんのお気には召さなかったらしい。私は良い香りだと思ったけれども、万人受けするわけでも無いんだな、と得た見解を頭に刻む。
しばらくそのまま何かしら思案していた尾形さんは、ふと私の腕を掴み歩き出した。
「えっ、尾形さんどこへ」
「腹が減った。飯行くぞ」
有無を言わせぬ強引さは普段通りだ。半ば引きずられるように歩きながら、私は真っ直ぐ前を向いてこちらの様子を伺いもしない彼の態度に苦笑した。
しばらく通りを歩き、やがて尾形さんは一軒の飯屋の暖簾をくぐり店の隅に陣取った。落ち着いた店構えのそこは程よい賑わいで、軍服姿の男と男物の洋装を着た女という奇妙な取り合わせもさして注目される風は無かった。
注文を取りに来た店の給仕に、尾形さんは勝手にあれこれと頼み、ついでに酒も頼んでいた。
「珍しいですね。今日は飲みたい気分ですか」
用心深いこの男は、旅の最中もあまり積極的に飲酒することはなかった。酔いが回った時に襲撃されたら、と警戒し常に緊張感を持っていることは見ていればよく分かる。そんな彼が自ら酒を頼むとは、と思って問えば、尾形さんはついと視線を逸らしながら言った。
「今日はやかましい奴らがおらんからな」
その言葉に、彼は元来物静かな人だったことを思い出す。小樽の下宿に居た時には、私が物書きしている間密やかに縁側で枯葉が落ちていくのを眺めていたこともよくあった。……あの頃から、もう季節は一巡りしてしまった。
ゆっくりと物思いに耽る間もなく、給仕が酒と肴を運んで来たので、私たちは静かに杯を上げる。こんな風に二人きりで食事をするのは、牛山さんが留守をした夕張の夜以来だ。そう思って思わず笑うと、尾形さんは目を光らせた。
「ああ、こうやって尾形さんと二人で食事を頂くのも久しぶりだな、と思いまして」
「……そうだな。お前の下宿に居た頃は、静かだった」
普段より柔らかな口調から、彼も気を緩めているのがわかる。それが何だか嬉しかった。
そうしてぽつぽつと会話をしながら酒と肴をつまむ。お互いこれから先のことは口にしなかった。不安を煽るような野暮な話はしたい気分では無かった。ただゆったりと流れる時間を、心地良い沈黙を楽しんだ。
「……おい、なまえ。寝るな」
「ねてません」
どのくらいそんな時を過ごしただろう。ふわふわと酔いの回った頭で私は返事をする。寝ていない、と返事をしたが瞼は重い。手にした杯が溜め息と共に取り上げられて、私はムッと尾形さんを睨み付けた。
「かえして」
「もうこれくらいにしておけ」
そんなに飲ませてないだろうが、と尾形さんは小言を言いながら卓の上に勘定を投げた。
「宿へ戻るぞ」
「……はぁい」
顎で店の出口を示されて、観念して立ち上がる。一歩足を踏み出せば、自分が強かに酔っていることにやっと気付いた。さして呑んだつもりは無かったが、久しぶりの飲酒のせいだろうか。それとも、覚えが無いほどいつのまにか呑んでいたのだろうか。
尾形さんは店先で待っていてくれた。逆光でも呆れ顔をしていることがよく分かる。これ以上迷惑をかけると怒られてしまうな……そう思い、宿へとさっさと帰ろうとするが、ふらつく足は上手く前に進まなかった。
「……ったく。世話の焼ける奴だ」
「すみません……」
地面にへたり込んでしまった私の腕を尾形さんは掴んで立ち上がらせようとしたが、ふと何か思い付いたように手を離した。どうしたのかと口を開こうとしたその時。彼が私に向けて背を向けた。
「乗れ」
「えっ、」
「早くしろ、置いて行くぞ」
流石におぶってもらうのは、と断ろうとしたが、苛立ちを見せる黒い瞳に逆らうことなど出来なかった。私はおずおずと彼の背に身を任せる。私が乗ったことを確認し、尾形さんは立ち上がった。しっかりと鍛えられた筋肉を感じられる体は、酔っていようが私の体重にもぶれることがない。私の足に通した手で銃を持ち、宿へ向かって歩き出す。ゆらゆらと一定の間隔で揺れる背に、眠気が誘われる。すっと通った夜風には、尾形さんの外套から香る硝煙の匂いと、私の服に残った薄荷の香りが混じった。
ゆっくりと、柔らかに。眠りに落ちてしまう私の耳に、尾形さんのくしゃみがひとつ、響いた。
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