七.冬:触れ合う透明度
無事北海道の地を再び踏んだ尾形さんと私は、真っ先に街の銀行へと向かった。ぼろぼろのみすぼらしい格好の私たちを見て行員はあからさまに眉を顰めたが、私の身上を明かし印鑑を突き出し、最後に祖父と大伯父の名刺を出すと目の色を変え丁重に扱われた。
「流石は立花のご令嬢ですな」
「……久しぶりに聞きました、それ」
口元に妙な笑みを浮かべて皮肉る尾形さんに、私は苦笑してから、ふと気付く。私は彼に母方の実家の名を教えたことは無いはずだ。尾形さんが立花の名を知っているということは、薄々思ってはいたが鶴見中尉もまた、私の出自を掴んでいるということだろう。この件は追々問いただす必要がありそうだ。
本隊は樺太から軍船で真っ直ぐ小樽へ戻ったと思われたが、27聯隊の兵がまだこの辺りに居るだろうことが想像に難くない今、銀行で金を準備するという明らかな痕跡を残すことは本来得策ではない。しかし土方さん達と合流するにも、路銀がないことにはどうにもならないので致し方ない。しばらく待たされたが無事資金を確保した私たちは、そそくさとその場を後にした。
「土方さんたちの拠点は小樽近郊にありましたよね」
「ああ。奴らは幾つかアジトを構えていた。網走監獄から逃げ果せていればその何処かに潜伏しているだろう」
「……また長い旅になりますね」
彼らが網走から脱出出来ずに捕縛されているとは思えない。これは確信に近い。もし土方さんがかの地で倒れていたなら、月島軍曹か鯉登少尉から何かしらその話が出ていたはずだ。
街を歩きながら私たちは今後の策を練る。土方さん達と合流するのが得策であるからには、ここからまたかなりの距離を移動することになる。
「馬が欲しいですね」
「そうだな」
どういう道を行くにしろ、徒歩では時間がかかる。うまく話を付けて馬を調達したいところだ。
夕暮れが迫って来たので私たちは宿を取り、翌日から行動することにした。
北海道に戻ってきたという高揚感に包まれたせいか、その夜はなかなか寝付けなかった。疲労は心身共に頂点に達したままだが、妙に気が昂ってしまっている。宿の薄い寝具の中で何度も寝返りを打てど、一向に睡魔が訪れる気配が無かった。
「眠れんのか」
「……はい。起こしてしまいましたか」
並べられた隣の布団から、低い声がかかる。眠りの浅い性質の尾形さんは、眠りに付かない私をいつ頃から察していたのだろう。
「あの、ひとつ伺っても良いですか」
返事はないが、聞いていることは分かる。私は独り言のように胸にわだかまっていた疑問を吐き出した。
「どうして尾形さんは私の祖父の名を知っているのでしょう。やはり鶴見中尉から聞かれたのですか。彼は私の目的を知っていたのでしょうか」
「質問がひとつじゃねぇ」
くっと笑い、それでも尾形さんはしばらくの沈黙の後、答えを提示した。
「……お前の母親の実家のことは、鶴見中尉から聞いた。『あれもお前と同じく花の名を持つ家の女だ』と」
ーー言われてみれば確かに、私たちはどちらも花という字を有した一族の人間だった。鶴見中尉はそこにどんな意味を見出していたのだろう。ただ風に散る芥のようなものだと揶揄したのだろうか。
「お前が何をするために北海道まで来たのかまでは、鶴見中尉は掴んでいなかった。……俺が27聯隊を抜けるまではだが。随分怪しんで調べさせてはいたがな」
「そうですか。ありがとうございます」
尾形さんからその言葉を聞いて、少しだけ安堵した。いくら鶴見中尉が優秀な情報将校とは言え、流石に軍部の上層部と新聞社と老獪な祖父たちの結託までは知り得なかったようだ。たとえ知ったとしても、祖父たちに直接危害を加えるなどできないだろうが。
「俺も聞きたいことがある」
「……何ですか」
珍しく尾形さんから問いかけられ、ずくりと鼓動が鳴る。こちらに背を向けたままの男から、闇に向かって質問が落とされた。
「お前は、何かアシリパから聞いたか」
「何かって、何を……」
問い直すが彼は何も言わない。少し考えて、思い当たることはひとつだけだと気付く。
『なまえ、尾形は私に、』
アシリパさんの揺れた瞳と声が脳裏に蘇る。ニヴフ族の集落で、早朝、皆が目覚める前に。昏睡する尾形さんの横で彼女が私に言いさしたこと。結局、聞きそびれたままのそれを指しているのだ。ーーあまり良い話では無さそうだった言葉の続きを、私は知らない。
「尾形さんが樺太でアシリパさんに弓引かれる前に何を言ったのか、ということなら、何も聞いていません。……聞く前に機会を失ってしまった、と言うのが正しいでしょうか」
「そうか」
嘘をついても意味がないと思って、私は素直に答えた。尾形さんの返事からは何の感情も読み取れない。
その先は無いものと思われたが、一拍置いて尾形さんが声を発した。
「杉元が合流する直前、アシリパは刺青の暗号を解く鍵を思い出した。それを俺は聞き出そうとした。杉元が死ぬ前に、俺に故郷の女のことを託したと言ってな」
思わず体を起こして、尾形さんを見つめる。彼は闇の中横たわったままで、こちらを見向きもしない。罪悪感から私の顔を見ないのではない。彼の言葉に迷いは無かった。ただあったことを述べただけだとその背中は告げている。
彼は私を試しているのか、ふとそんなことを思う。
「……そうだったんですね」
詰まった喉から何とか言葉を絞り出す。平静を装おうとしたが、私の声は無様に揺れていた。
「お前はどう思う、なまえ。アシリパを騙そうとして失敗して、利き目を失った俺を」
しんとした夜の静寂の中、追い討ちをかけるように尾形さんは言葉を重ねる。あえて己の所業を悪し様に言うところに、彼が私を見定めようとしていると感じた。
何が正しい。彼が求める答えは何なのか。私はどう答えることが正解なんだろう。
「尾形さんは、どうしてそこまでして金塊を求めるんでしょうか。……そろそろ教えて下さっても良いんじゃないですか」
ほんの一瞬迷って、私は核心に切り込んだ。
「あなたがただ金を求めてこの金塊争奪戦に踏み込んだとは私には思えません。何かしらの見返りがあっての行動なのでしょう。危険を冒して、己の命を賭してまで争う理由は何なのですか。何を、尾形さんは求めていらっしゃるんですか」
私はとうに覚悟を決めている。最後まであなたに着いていくと。そうでなければ、あの日鯉登少尉の手を振り切ってあなたと共に雪原へと飛び出さなかった。その思いを込めて私は問うた。
痛いほどの静寂が耳を打つ。
「……祝福を」
「え、」
ぼそりと呟かれた言葉が聞き取れず聞き直すと、尾形さんはのそりと体を起こして胡座をかいた。闇の中で黒い目が光る。
「俺は、俺と母を捨てた男の無価値を証明する。金塊と権利書はそのための取引材料だ」
「権利書……」
「かつてアイヌは金塊と引替えに、蝦夷共和国を樹立しようとした榎本武揚から北海道各地の未開拓の地を買い上げる約束をした。刺青の暗号は金塊そのものもそうだが、権利書を隠したものだと俺は踏んでいる。中央も鶴見中尉も血眼で欲しがるわけだ」
「……そんな、話」
ごくりと息を呑んで私は呟く。土地の権利書なんて初耳だ。驚く私を見た尾形さんは、いつもの笑い声を上げて髪をかき上げた。
「そりゃこんな話、一介の新聞記者には教えられんだろうなァ。知りたがりもこれなら満足だろ。……わかってるだろうが、この話は表に出すんじゃねぇぞ」
そしてひたと私を見据えて言う。
「これでもう、最後まで抜けられんぞ。死にたくなければせいぜい俺と共に走るんだな、みょうじなまえ」
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