飛花追想記/殉情録 | ナノ

冬霞を追う鳥 14.



翌朝目が覚めて、ぼんやりとした視界に尾形さんの姿を認め慌てて体を起こす。数日ぶりに深く眠ってしまった私は、自分の呑気さを反省しながら隣の寝台で眠ったままの尾形さんの容体を診る。彼の乾燥してひび割れた唇は開き、苦しそうに呼吸を繰り返している。そっと額に手を当てると、やはり熱が上がっていた。この様子だと今日ここを発つことは難しそうだ。
居間に当たる部屋に顔を出すと、この家の主人である老人は既に起床して朝食の支度をしていた。もっと真剣に月島軍曹から露語を学んでおくべきだった……そう思ってもすっかり後の祭りなので仕方がないが。
「おはようございます…えっと、ドブラエ・ウーットラ、だったっけ……」
うろ覚えの挨拶を口にすると、老人はにっこりと微笑んで同じ言葉を返してくれた。どうやら合っていたらしい。しかしその後が続かない。私は身振り手振りを交えて、同行の男が発熱していること、看病をしたいことを訴える。何となく察してくれた様子が見て取れたので、老人を寝室へと連れて行き、その手を尾形さんの額に乗せた。発熱を理解した老人は、すぐに水と薬らしきものを用意してくれた。
「尾形さん、薬をいただいたので飲んでください」
「……ん…」
寝台と体の間に腕を差し込み、ぐったりとした尾形さんを起こして口元に水を差し出す。喉が乾いていたことに気付いたらしく、勢い良く飲み下す。動く喉仏に目を取られていると、尾形さんが薄く笑った。
「……そんな目で見ても、今は相手してやれんぞ」
「馬鹿なこと言ってないで、早く熱を下げてください」
熱に腫れた目元が艶かしくて、私は乱暴に言い返して彼から離れた。その慌てぶりが面白かったのか、尾形さんは低い笑いを漏らして、また目を閉じた。やがて規則的な穏やかな寝息が聞こえて、私は息を吐き部屋を後にした。……本当に、早く熱が下がれば良い。

結局、尾形さんの熱が下がったのは二日後の朝で、そこから満足に動けるようになるのに更に二日を要した。その間、老人は闖入者である私たちに食事と暖かな寝床を与えてくれた。老人が親切心から他の村人たちに私たちの存在を教えてしまったら、と不安に思ったが、彼は元からひっそりと暮らしているらしく、家の周囲から遠くへ出掛けることも他の人が家を訪ねてくることも無かった。
世話になっている分少しでもお礼を、と私は裁縫や掃除に精を出す。老人はあまり目が良くないようで、服の繕い物などを買って出ると大層喜んでくれた。暖かい暖炉の側で縫い物をしていると、数日前までの厳しい現実が幻かのように思えて来てしまう。……今のこの休息の方がひとときの夢だということを忘れてはいけない。
ふと、尾形さんほどではないが大怪我をしていた月島軍曹や鯉登少尉は大丈夫だろうか、と思い思考が止まる。あまりに急な出来事が立て続けに起こり、彼らのことに思い至る余裕もなかった。
きちんとした医者に治療をしてもらった上、屈強な軍人である彼らのことだ。アシリパさんの奪還という任務も果たした今、粛々と帰路に着いているだろう。むしろ私の方が心配されているのだろうな、と思う。そう考えているうちに、去り際の鯉登少尉の「行くな」という切実な響きを、視線を思い出してぐっと唇を噛み締めた。
彼の寄せてくれていた好意は暖かく心地良いものだった。あの時彼の手を離さなければ、恐らく身の安全は保証されていただろう。
ーーそれでも私は、自分が道を選び違えたとは思わない。何度繰り返しても、選ばれる選択肢はひとつだ。寂しげに輝く孤独な星に魅入られてしまっているのだから。

老人に世話になって五日目の早朝。体を揺すられ重い瞼を開けると、薄暗がりの中尾形さんが立っていた。
「行くぞ、なまえ」
「……えっ、そんな急に」
「明るくなって騒がれると面倒だ」
淡々と、しかし強引に促されて、私は慌てて身支度を整える。尾形さんは老人が与えてくれた服を着て、すっかり防寒は万全と見える。これなら厳寒の樺太でも凍えることはないだろう。
静かに家の裏手から忍び出て、繋いでいた馬に近付くと、既に鞍と荷物が付けられていた。……この家に馬具は無かったはずだが、どこから調達してきたのだろう。不審に思ったが深くは聞かないことにした。
「お爺さんにお礼くらい言いたかったです」
「……礼はして来た」
思わず心残りを口にすると、こともなげに尾形さんは言い、私にさっさと馬に乗れと催促した。そこまで言われてしまうと言い返す言葉もない。私は頷き、黙って鞍に跨った。尾形さんは私の後ろに乗り手綱を握る。
「捕まってろよ」
夜明けの迫る中、私たちはそっとひとときの休息を与えてくれた老人の元を後にした。

そこからの旅は、行きのあれこれを思えば順調だったと思う。日中は馬を走らせ、夕暮れにはその日の行程を終わらせる。野営が主だったが、食料や日用品を補給するために数日に一度は集落に立ち寄り、そのまま宿を取ることもあった。手持ちの路銀は心許ない額だったが、なんとか二人食べる分くらいは持ちそうだった。
「お前金持ってるな」
「こんな着の身着のままで飛び出さなければ、もう少し余裕があったんですけどね」
食糧を買いに立ち寄った店先で、不躾に私の財布を覗き込んだ尾形さんが揶揄うように言う。私は財布の口を閉めてつんと顔を逸らした。何だかこのやり取りは、いつぞやの小樽の蕎麦屋で奢らされそうになったことを思い出させた。あの頃はまだ穏やかだったな、と懐かしくなる。
本当なら尾形さんには、もっときちんと目の治療を受けてもらいたかったが、そんな時間も金銭的な余裕も無かった。まずは北海道へ帰り着くことが先決だ。私たちを乗せた馬は、雪の中を駆け抜けて、国境を越え、樺太を南下する。
途中、あのスチェンカ騒ぎのあったロシア人集落に立ち寄った際、尾形さんが嫌そうな顔をしたのでもしや、と思い尋ねてみた。
「もしかして、尾形さんもあの行事に参加されましたか」
「……キロランケの野郎が『刺青人皮が一枚手に入るかも知れん』とか言うから」
心底うんざりした表情で彼は言う。先行していた彼らより後、私たちがたどり着くまで岩息は殴り合いに興じていたのだから、結果は聞くまでも無い。彼らの樺太での旅の一幕が知れて、私は微笑んだ。
そこでふと、尾形さんにとってアシリパさんたちとの旅はどんな意味を持っていたのだろうと考える。そして結局聞くことが出来なかったアシリパさんの発言を思い出し、目を泳がせた。
『なまえ、尾形は私に、』
昏々と眠る男の側で揺れていた、真剣な光を湛えた青い瞳。彼女が私に告げようとした真相。……今、私の隣に立つ男は、アイヌの少女に何と言ったのか。
『俺は中央に繋がりがある』
熱に浮かされながら、褒美だと言って彼が私に与えたひとつの事実。結局その話も聞きそびれたままだ。
私は知りたい。真実に手を伸ばしたい。私の身に巣食う、衝動という名の獣が蠢く。ずくり、と尾形さんに撃たれた腕の傷が疼いた。
「どうした」
馴染みのある黒い瞳が私を振り返る。ほんの少しだけ体温を宿した、たったひとつの光。
「……いえ、何も。早く行きましょう、私たちを知る者が余計な行動を起こす前に」
今は答えを求める時ではないと、私は獣を胸に抑え込み、普段通りの顔をする。震える手を誤魔化すように握りしめて。ほんの一瞬疑問を浮かべた男は、それでも何も言うことなく馬の方へと歩いて行った。

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