飛花追想記/殉情録 | ナノ

はじまりの中の赤 05.



「ところでなまえ君、君は網走監獄を脱獄した囚人の話は聞いたことがあるかね」
ある日の定例訪問時。前に用意すると言われていた、鶴見中尉の好物である団子を供され頂いていると、ふと鶴見中尉からそんな問いかけを受けた。私は記憶を巡らせるが、そのような事件は聞いたことが無かった。私は首を振り、
「網走監獄と言えば、脱獄するのは不可能と言われている果ての地の監獄、と聞いておりますが…」
そう言うと鶴見中尉は頷き、団子を頬張りながら話し始めた。
「あれは日露戦争前のことだ。網走監獄に収監されていた囚人24名が、輸送中に逃げ出したんだよ。彼らは示し合わせて、護衛の兵隊たちを皆殺しにしてね。その後もちろん追跡されたんだが……」
「捕まっていない、のでしょうか」
「ウン、そうなんだ。」
「まあ恐ろしい。」
私が少し大袈裟に驚いて見せると、鶴見中尉は楽しそうに笑い声を上げた。
「東京まではこの話は伝わっていなかったか…話しておいて良かった。もしかすると凶悪犯がこの小樽に潜んでいるかも知れないからね。君は若く、美しいのだから用心なさい」
「ご忠告ありがとうございます。お褒めに与るほどの容姿でもございませんが、十分に気をつけます」
「そうだ、もしなまえ君が取材をしていて、そういう怪しい者の噂話を聞いた時には、私に直ぐに教えて欲しい。陸軍としても取り逃がしたままなのは沽券にかかわるからね」
鶴見中尉はついで話のように軽い口調で言う。しかし、この話になった途端に、彼の漆黒の瞳の奥に突如暗い炎が灯ったように見えて、私の鼓動が跳ねた。…これは、何かある。好奇心が疼き、飛び付きたい気持ちをぐっと堪えて、努めて自然に答える。
「承知致しました。しかし脱獄した囚人、と言うだけでは誰がその24人なのか分からないのではありませんか?」
沸き起こった疑問を私が口にすると、鶴見中尉は朗らかに笑いながら教えてくれた。
「囚人たちには共通点があってね。変わった墨が入っている。こう……曲線が組み合わさった…幾何学模様のような。」
すっと、手にした団子の串を皿の上の蜜に走らせて言う。彼の指先から、艶やかな黄金色の上に何本もの線が描かれていく。交差し、離れては近づく…それはまるで何かへと導く道筋のような、星の軌道のような線。
私が思わず食い入るように描かれたそれを見ていると、視界の端でゆっくりと形の良い唇が弧を描くのが見えた。

先程聞いた話が、脳裏から離れない。鶴見中尉が描いた線が、私の頭の中で暗闇の中怪しく光る道となって行き先を惑わせる。囚人の件は詳しく調べてみないといけないな、と私は浮かされた頭で考えていた。
「みょうじさーん」
不意に名前を呼ばれ振り返ると、特徴的な目をした男がこちらへ手を振っていた。宇佐美上等兵だ。
彼は鯉登少尉と同じく、鶴見中尉に心酔している口だ。それほど多く話したことがあるわけではないが、言動の端々からそれが察せられる。あまり深入りするのは危険だな、と私の心の何処かで警鐘が鳴る。そんな私の気持ちも知らず、宇佐美上等兵はにこにこと笑みを浮かべてこちらへやって来た。
「宇佐美上等兵殿。お邪魔しております」
「今日は鶴見中尉に会いに来たの?」
「はい。今から新聞社に戻るところです」
失礼にならない程度に淡々と答えると、ふーんと言いながら私をじっと見てくる。どこか値踏みするような視線が、私の体に絡む。
「……何か、御用ですか?」
「みょうじさん、綺麗だよね。育ちが良いって感じがするし、良い匂いがする」
唐突な発言に私は何を言えば良いか分からなくて、目を瞬かせる。そんな私を見て、ますます宇佐美上等兵は笑みを深くした。
「鶴見中尉と並んでいるのが絵になるなぁ、と思ってね。つまらない女が篤四郎さんの横にいるのは癪に触るけど、君なら合格だよ」
「…はあ。ありがとう、ございます…?」
「みょうじさんのこと、篤四郎さんすごく褒めていたよ。良く気が付くし、話も上手い聡明な人だって」
話しながら宇佐美上等兵がにじり寄って来るので、私は後退りする。爛々と目が輝いているが、その目は私を見ていない。私を通り抜けて、この場にいないはずの人を見ている。
「う、宇佐美上等兵殿は鶴見中尉殿とお親しいんですね……」
「そうなんだよね。僕は鶴見中尉と同郷でね、小さい頃から憧れの人だったんだー。将校服を着て帰省された時には、僕だけじゃなく、皆こぞって篤四郎さんの姿を見に行ってたんだ…柔道も強くてね、僕は小学校に通っている頃から目を掛けて頂いてたんだ!」
「な、なるほど……」
後ろ手が壁に触れる。もうこれ以上下がる事が出来ない。はっと顔を上げると、きゅっと目線を鋭くした宇佐美上等兵が私を見下ろしていた。横へ逃れようとすると、軍服に包まれた腕が壁へと伸ばされ、退路を断たれた。整った顔が近い。
「みょうじさん、」
「宇佐美、何をしている」
名を呼ばれた宇佐美上等兵が、ぱっと後ろを振り返る。そこには書類を抱えた月島軍曹が立っていた。宇佐美上等兵の注意が逸れた瞬間に、私はさっと身を屈めて彼と壁の間から抜け出し、胸を撫で下ろした。
「いえ、何も。みょうじさんの肩に埃が付いていたので、払って差し上げていただけでーす」
「…そうか。用が済んだならさっさと行け。今日お前は兵たちの訓練指導だろう」
飄々と答える宇佐美上等兵に、月島軍曹は深追いせず普段と変わらぬ声の調子で指示を下す。それにはいはい、と軽い口調で返事をした宇佐美上等兵は、背後で身を固くしている私へ微笑みかけ、ひらひらと手を振った。
「みょうじさん、また今度ね。」
そうして軍靴の音を響かせて、宇佐美上等兵は立ち去って行った。彼の背中が遠くなってから、私は重い息を吐き出す。……彼は何を言おうとしていたのだろう。あまり良いことのような気はしないが。
「みょうじ、大丈夫か。宇佐美に何かされたか」
表情をこわばらせていたらしき私を気遣うように、月島軍曹が声をかけてくれた。その言葉にやっと、正しく呼吸ができる思いがした。
「大丈夫です。何もありませんよ」
「…そうか。お前がそう言うなら、良い。」
ほっとしたように月島軍曹は表情を緩めた。個性の強い面々が揃うこの聯隊を取り仕切るのは、さぞや大変だろうな…と軍曹の眉間に刻まれた皺に、密かに私は同情したのだった。

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