冬霞を追う鳥 13.
馬は私たちを乗せて凍える大地を駆ける。冷え切った体は感覚が薄れてきていて、落馬しないようしがみついているのもそろそろ限界だった。
「尾形、さん!そろ、そろ、止まりま、せんか!」
跳ねる馬上で私は声を上げる。どのくらい走ったのか最早分からないが、杉元さんたちが追ってくる気配はない。このままだと私以上に薄着、と言うよりほぼ裸の尾形さんは凍え死んでしまうだろう。
「尾形さん!」
返事が無いので再度名を呼ぶが、やはり返事はない。首を伸ばし何とか顔を覗き見ると、彼はほぼ意識がないような状態だった。……やはり無理をしていたのか、と半ば呆れながら私は腕を伸ばして鬣を掴み、先に見えた小屋の方へと馬を誘導した。
すっかり日は暮れ、辺りは暗く、当然灯りもない。人気がないことを確認して馬から尾形さんを下ろす。朦朧とした状態の男を小屋の中まで運び込むのは一苦労だった。偶然見つけたその掘立て小屋は、埃が溜まっていて長らく使われていない様子がうかがえた。ひとまず片隅に置かれていた木箱を並べて寝台代わりにし、ありがたくも毛布があったのでそれを敷き、尾形さんを寝かせる。上から更に毛布を掛けるとかび臭い匂いが鼻に付いたが、背に腹は代えられない。
だらりと落ちた腕を毛布に入れてやると、触れた素肌から冷え切った体温がじわりと指に伝わる。……しかし、この状況で火を焚くことは憚られた。どうすべきか、一瞬迷ったが取れる手段は多くない。私はそろりと彼の隣に身を横たえ、冷たい体に腕を回した。彼の頭を抱き込んで長々と息を吐く。闇の中、とくとくと心音が伝わって、彼がまだ生きていることを知る。
呼ばれるがまま衝動に抗えず、尾形さんと共に当てもなく飛び出してしまったが、私が着いて来なければ、彼はこの後どうするつもりだったのだろう。片目を失った満身創痍の状態で、何も持たず、たったひとりで。露語は話せるようなので、どうとでもなると考えたのだろうか。
……そういえば小樽の病院に収容されていた際、鶴見中尉から見舞いに露語の本が届けられていた。あの時彼は読めるような素振りを見せず『嫌がらせだ』と言っていたが、内容を理解した上での発言だったのかも知れない、とふと思った。
ぼんやりと思考を漂わせるうちに瞼は重くなる。今後のことをよく考えるべきなのだろうが、考えることが多すぎる上に、考えても仕方がない気もする。何としてでも国境を越え海を越え、北海道へと戻ることが当面の目標には違いない。
うつらうつらと微睡む中、大雪山で彼とこうして身を寄せ合い、夜を越えたことを思い出しながら、私もまた意識を閉ざした。
夜明けに近い頃、低い呻き声が聞こえて私は目を覚ました。麻酔が切れたのか、尾形さんは夢現に苦痛の声を漏らす。胸元に寄せられた男の頭をそっと撫で、刺激を与えないようそろりと起き上がった。
と、不意に手首を掴まれて驚きのあまりヒッ、と声が漏れた。
「……どこへ行く」
「どこにも行きませんよ。起きてらしたんですね」
「お前が起こしたんだろうが」
機嫌の悪そうな声すら嬉しく思えてしまう。憎まれ口が叩けるなら上出来だ。片方だけになってしまった尾形さんの黒い瞳が私を見上げている。
「なまえ」
「はい」
「何故泣く」
「……泣いてますか、私」
「わからんのか」
知らず私の頬は涙に濡れていた。そんな私の様子を少し呆れたように尾形さんは眺めていたかと思えば、すげなく伸ばされた指が涙の跡を伝う。その感触に促されたように、私はしゃくり上げた。一度意識してしまうと涙は止めどなく溢れてくる。私はみっともなく声を上げて泣いた。
悲しいのか、つらいのか、それとも嬉しいのか。一気に押し寄せる感情の奔流に飲み込まれ、ここまで堰き止められていたものが流れ出してしまう。
彼の手はしばらく遠慮がちに私の肩を彷徨っていたが、ついにふわりと抱き寄せられた。肩口に頬を寄せると、鼻をくすぐる消毒液と毛布のかび臭さの中に、わずかに香る硝煙の匂い。記憶にある尾形さんのそれに違いなくて、私は一層涙をこぼす。
「約束を守って本当にこんなところまで来るとはな」
馬鹿な女だ。そう耳元で落とされた言葉は、どこか嬉しそうな色をしていた。
そうして、私たち二人の北海道への帰路は始まった。
一夜を過ごした小屋の外で、馬は大人しく留まっていてくれていた。強引に連れ出したというのに賢い子だ。彼女が居なければこの旅路はもっと時間がかかっただろうし、困難なものになったはずだ。
黴た毛布をそのまま拝借し、尾形さんに被せたまま馬に騎乗して凍てついた大地を駆ける。不孝中の幸いか、雪はちらつく程度で風も弱い。道を行く旅人の影も無かった。時折馬を休ませながら、私たちは静かな雪景色の中をただただ南下し続けた。
「さみぃ」
「……服を何とかしないといけませんね」
何度目かの休憩で、尾形さんが遂に弱音を吐いた。慌てて図嚢の奥に潜めておいた燐寸で火を焚いたが、それにしても唇が真っ青だ。とは言え、私の服も靴も尾形さんが着られる大きさではないし、貸し与えてしまうと今度は私が凍えてしまう。
「なまえ、こっちに来い」
どうしたものかと思案していると、急に手首を引かれ、私は胡座をかいた彼に乗り上げるような体勢になってしまう。かと思えばおもむろに冷え切った手が私の服の中へと突っ込まれた。
「や、だ!!冷たいッ」
「はぁ、あったけぇ……」
昨日まで死にかけていた者とは思えない力の強さで抱きすくめられ、身動きが取れない。腹に、背に、無遠慮に暖を求めて男の大きな手が私の素肌を弄る。その未経験な感触に、私は上がりそうになる声を堪え肌を粟立たせるほか無かった。
観念して待てばじわじわと体温が移って、尾形さんの手と私の体がひとつに溶けていく。それにほっと息を吐くと、気が緩んだのか腹がぐう、と鳴った。
「色気のねぇ奴だな」
「……ほっといて下さい」
揶揄うような尾形さんの声に、私は唇を尖らせる。昨日から何も食べていないのだから仕方ないだろう。そもそもこんな限界の状況で、色気などと言う方がおかしい。もう十分暖を取ったはずなのに、飽きず肌を撫で回す男の手を服の下から引きずり出し、その甲を叩けば「ハハッ」といつもの笑い声が上がった。
「笑う元気があるならもう大丈夫ですね、さっさと行きますよ。今夜はちゃんとした宿が取れると良いんですが!」
立ち上がって衣服の乱れを整えながら私は言う。そんな私の態度に、尾形さんは鼻を鳴らして満足気にしていた。
その後再び馬を走らせた先で、私たちは小さな集落へと行き当たる。遠巻きに様子を伺う中、ぽつんと外れに建つ小屋の軒下に数枚の衣服が干されているのを見つけた。
「あれを拝借するか」
尾形さんはそう言って、私に林の中で待機するよう命じた。彼はそろそろと近付き、衣服を手にする。その時、建物の中からひとりの老人が現れ尾形さんに声をかけた。私が固唾を飲み見守る中、何かしら露語で会話が交わされている。意味はわからないが、話し声の声色から一触即発といった雰囲気では無さそうだ。
しばらくして尾形さんが私を手招きした。馬を引き林の中から姿を表した私に、老人は目を細める。尾形さんが何をどう伝えたのかわからないが、何でもこの老人が食事と宿を提供してくれるのだと言う。
「スパシーバ、でしたっけ」
「Большое спасибо」
月島軍曹から教えてもらった礼の言葉を思い出し口にすると、隣に立つ尾形さんから流暢な露語が発せられる。髪を撫で付けどうだと言わんばかりの態度に、私は素直に笑ってしまった。
老人は突然の珍客である私たちに温かな食事と、尾形さんに清潔な衣服を与えてくれた。穏やかに微笑む顔に、東京に居る祖父のことを思い出して少し胸が痛んだ。
ここで休むと良いと連れられた一室で、私と尾形さんはそれぞれ寝台に身を横たえる。尾形さんはまた少し熱を出しているようだ。眉間に皺を寄せ、黙って目を伏せている。最後の鎮痛剤を飲ませてしまえば、あとは彼の体の強さに頼るしか無かった。
睡魔に身を任せようとした頃、ふと尾形さんが私を呼んだ。
「なまえ。褒美にひとつ教えてやる」
「……何ですか」
「俺は中央に繋がりがある」
掠れた声で唐突に投げ与えられたその事実は、冷たく私の胸に落ちた。
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