飛花追想記/殉情録 | ナノ

冬霞を追う鳥 12.



杉元さんが連れて来たロシア人医師は、月島軍曹と尾形さんの傷を診る。半ば脅す勢いで連れて来られたらしい医者は、それでも私たちの事情を深く聞くこともせず誠実に接してくれた。……私たちは勝手に国境を越えてきた密入国者なのだ。彼やニヴフの人々が通報すれば、即刻逮捕されてしまう。
医者の手により適切な処置がなされた月島軍曹は少し落ち着いた様子を見せていた。幾分顔色も良くなったように見えて、私は胸を撫で下ろす。
それに引き換え、尾形さんの容体は芳しくないようだ。身振り手振りを交え何かしか伝えている声色から、言葉は分からずともあまり良くない内容なのが察せられた。
「病院の方が機材が揃っていると言っている」
「ダメだ、ここでやれ」
治療を終えたばかりの月島軍曹が通訳した医者の言葉に、鯉登少尉は否定の意を示す。医者を呼びに行く前から、彼は『危険を冒してまで尾形を助ける必要なんかないはずだ』と言っていた。この先遣隊の指揮者であり27聯隊の、鶴見中尉の代行者である観点から判断すれば、それは正しい考えだろう。皆の身の安全を図る上でも、これ以上の不利益を被る可能性は選択すべきではないことはわかっている。
ーーでも、私は。
口を開こうとしたところで、杉元さんがきっぱりと言い放った。
「わかった、運ぼう」
「おい杉元いい加減に……」
「尾形にはいろいろ聞くことがある。まだ死なせない」
杉元さんの尋常ではない目付きに、流石の鯉登少尉も黙り込んだ。
「『ロシア軍に通報すれば、せっかく治療したのが無駄になる』だとさ」
鯉登少尉の心配を宥めるかのように、月島軍曹は医者の言葉を伝えた。それを聞き、鯉登少尉も仕方なしに尾形さんを病院まで搬送することを許可した。
「私も連れて行ってください」
慌ただしく犬橇が準備される中、私は鯉登少尉へ頼み込む。頭を下げる私に、彼は眉を寄せ至極不服そうな表情を浮かべていた。
「雪も酷うなってきた。なまえさんはここで月島と待機しちょってくれんか」
ゆっくりと、丁寧に、私情を挟まぬよう伝えられたそれに、私は胸を軋ませながらも首を振る。彼が私を同行させたくない理由は分かっている。これ以上私が尾形さんに近付くことを、鯉登少尉は由としていない。彼は彼なりに私のことを考えて、私が傷付かぬよう配慮をしてくれているのは分かっているが、それは私の望むところではない。
「……辛い結末を目にしても知らんぞ」
「分かっています」
しばしの沈黙の後、溜め息混じりに許されて、私は頭を下げた。

雪の散る中を犬橇は駆け、ロシア人医師の営む病院へと滑り込んだ。私たちは皆、ニヴフ民族の服を借りて身なりを偽装している。近付いて顔を見られれば日本人だとすぐにばれてしまうだろうが、遠目からなら誤魔化せるだろう。
尾形さんはすぐに院内へと運び込まれ、手術が始まった。邪魔にならないように病院の外で待つ間も、雪はしんしんと降り続けていた。
私は皆から少し離れた所で座り込み、ぼんやりと灰色の空を見ていた。
尾形さんを追ってやって来た樺太の旅の終着点。それは彼の死なのだろうか。
「私はまだ、何も聞けていないのに」
ぽつりと本音がこぼれ落ちる。彼の過去、目的、真意、成し遂げようとしていること。『知りたがり』の私に、彼はほとんど何も教えてくれていない。
「追って来い、って言ったのはあなたでしょう……」
恨み節のような言葉を白い息と共に吐き出して、私は膝に顔を埋めた。

どれくらいの時間が経っただろう。病院の扉が開き、医者が顔を見せた。男は神妙な顔で何かを告げる。それをニヴフの男がエノノカちゃんへ伝え、エノノカちゃんが私たちに意味を教えてくれた。
「もうすぐ死ぬって…」
幼い声で伝えられた残酷な事実。
医者は出来る限りのことはしてくれたようだが、尾形さんの傷は深く、アイヌの毒のせいもあってか呼吸も脈拍も弱ってきているとのことだ。
皆の方を見ると、アシリパさんが顔を曇らせているのが見えた。彼女のことだ、責はないし尾形さんにとっては当然の報いだと言われても、自分を責めているのだろう。
「どうする?」
「死ぬのを確認する」
様子を伺う谷垣さんに、鯉登少尉は淡々と告げた。私の頭は冷静であろうとすればするほどぐらぐらと揺れる。息が浅くなり足元がふらつく。それを察した鯉登少尉が私の背に腕を回し、支えてくれた。そっと見上げると、彼の視線は病院の方へと向けられたままだった。
「…なんとか助けられないか頼んでみる」
そう言って、ふらりと杉元さんは院内へと消えていった。と、次の瞬間。建物内から鋭い声が上がった。
「尾形が逃げた!!」
重い長靴の踵が鳴り、杉元さんが飛び出してきてもう一度叫ぶ。
「アシリパさん、尾形が逃げた!!」
信じられない思いで驚きに息を呑む私たちに、杉元さんは銃を構えて迷いなく指示を下す。
「裏へ回れッ、白石と谷垣は向こうだ!まだ遠くへ行ってない、アシリパさんは離れるなッ」
私は頭を殴打されたような衝撃に襲われていた。
……瀕死の状態と医者が宣告していたのに、逃げた、とは。彼は、尾形さんは、一体どこへ。
「中を確認する。…… なまえさん、オイの後ろに着いて来てくれ。絶対に離れるな」
「は、はい……」
ひとりその場に残っていた鯉登少尉が私に呼びかける。私は渇いた喉から声を絞り出し、後に続いた。
鯉登少尉は拳銃を抜き、ゆっくりと扉の引き手に手をかける。開かれた先の院内は静まり返っていて、物音ひとつしない。ギシギシと私たちが床を踏む音が耳に付く。外からは時折、杉元さんや白石さんの声が聞こえる。尾形さんの姿はまだ見当たらないようだ。
廊下の先から光が漏れている部屋があり、そこへ鯉登少尉は足を向ける。病院の一番奥、手術を行うその部屋の床に、ロシア人医師が倒れ伏しているのが見えて、私たちは彼を助け起こそうと慌てて駆け寄る。
ーーだから気付かなかったのだ。開かれた扉の影に、看護婦を盾にした尾形さんが潜んでいたことに。
医者の男の視線が向いた先を辿った瞬間に、尾形さんから鋭い言葉が発せられる。この旅の中で耳にして来た、しかし私たちには分からない言語で。
尾形さんがそう命じたのだろう。医者は鯉登少尉を容赦なく殴り付けた。不意を突かれた少尉はもんどり打って倒れ込む。私は声も上げられず、膝をつき口を開けたまま尾形さんを凝視していた。
薄い術衣だけを羽織った姿は、彼が正しく治療を受けたことを示している。片側だけの黒い瞳がギラギラと危険な光を放って鯉登少尉を睨み付けていた。乾燥してかさついた唇が緩く弧を描く。そしてもう一度、尾形さんの口から露語と思わしき単語がこぼれた。
「バルチョーナク」
鯉登少尉はその言葉に息を呑んだ。それにどんな意味があるのだろう。私にはわからない。
尾形さんはそのまま鯉登少尉が取り落とした拳銃を拾い上げ、銃口を少尉の頭に向けた。ゆっくりと引鉄に指をかけるその動きに迷いはない。
「お、尾形さん、やめて……」
私は震える声で懇願するが、彼の目がこちらを向くことは無い。ひたと鯉登少尉の方を見たままだ。窓の外からは微かに杉元さんたちの声が聞こえて来る。声を上げれば、彼らはたちまちこの部屋へなだれ込んで来るだろう。そうなれば今度こそ杉元さんは尾形さんを殺してしまう。
異様な緊張感の中、尾形さんはおもむろに口を開いた。
「今度、鶴見中尉に会ったら…『満鉄』のことを聞いてみろ」
と。言われた鯉登少尉は困惑の色を目に浮かべる。
満鉄……南満州鉄道のことを、どうして今。
しかしそのことについて悠長に考えている暇など無かった。素早く動いた尾形さんの足が鯉登少尉の頭を蹴り上げる鈍い音。飛び出そうになった悲鳴を手で押さえ込んだ。
尾形さんは何事もなかったかのように、部屋の片隅で震え上がる医者と看護婦に黙っているよう身振りをしてから、ついに私の方を見た。
黒々とした目は、最後に会った時と変わらず底が見えない。私の心とからだは痺れるように震えていた。驚きと不安と、喜びによって。
「……行くぞ、なまえ」
あっさりとそう言い放ち、彼はするりと動き出した。その声に呼ばれるままに、引っ張られるように。私も立ち上がる。
「行くな、なまえさん……ッ」
痛みを堪えながら鯉登少尉が引き止める。彼の目は行っては駄目だと訴えてくる。私の身の安全を思ってくれる彼の感覚が、きっと正しいのだろう。しかし私の選んだ道はそれではなかった。多分、ずっと前から選択は終わっていたのだ。
「……ごめんなさい、少尉殿」
彼の縋る目を振り払い、私は尾形さんの後を追った。

裸馬に無理矢理騎乗した私たちは寒風吹き荒ぶ中を疾走する。背後から杉元さんの、アシリパさんの、白石さんの声が途切れ途切れに聞こえる。
「ははッ」
しがみついた背からは楽しげな男の笑い声。私は彼の命がこぼれ落ちてしまわないよう、その腰に回した腕に力を込めた。

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