飛花追想記/殉情録 | ナノ

冬霞を追う鳥 11.



アシリパさんたちと再会した直後のことを、私はあまり覚えていない。白石さん曰く『怪我人の手当てをしている間も、移動している時も、心ここに在らずって感じだった』そうだ。
確かに、アシリパさんがキロランケさんと最期の会話をしている姿も、流氷の向こうから岩息さんが現れた時も、キロランケさんに別れを告げている時も。涙も出ず、全てが薄い透明な壁に隔たれたように現実味が無かった。
思えば、この旅の最中で仲間と言える人を目の前で亡くしたのは初めてだった。そしてその仲間を殺したのも、樺太を共に旅して来た仲間だという事実が重くのしかかる。こうなる可能性はずっとあったにも関わらず、私はそれから目を逸らし、考えることを放棄していたのだと今更ながらに思う。
そして何より、意識を失ったまま杉元さんに背負われている尾形さんの存在が私の心を凍らせてしまった。彼はアシリパさんの矢が目に刺さり、毒を回らせないために杉元さんがすかさず眼球をくり抜き、毒を吸い出したのだという。
「尾形の死に、アシリパさんを関わらせてたまるかよ」
杉元さんにどうして尾形さんを助けたのかと聞けば、ぽつりとそう答えた。ーー彼は尾形さんの命を救いたいわけではないのだ、と思い知り内臓がぎゅっと絞られるように痛む。この痛みは、目の前にある事を信じたくないと思ってしまった、私の自業自得から来ていることは理解していた。
杉元さんにしてみれば、尾形さんは彼を撃ち、彼の相棒を連れ去った男なのだ。夕張から網走までの道中は、あくまで利害の一致で行動を共にしていただけだ。彼らの目的は同じではなく、むしろ本来は相対する存在だ。それを私が勝手に勘違いして、良いように解釈していただけだ。救いたい相手であるはずがない。そう、分かっていたはずなのに。事実を曲解するなど新聞記者としてあるまじき思考だと言うのに。
いずれにせよ、キロランケさんの死と意識のない尾形さん、このふたつの衝撃を心が受け止めきれず、茫然自失してしまっていたようだ。落ち着いて物事を見られるようになったのは、亜港監獄近くのニヴフ民族の集落に宿を借り、仮眠から目覚めたあとだった。

目を開けると暖かな室内で、周囲からは静かな寝息が聞こえる。皆はまだ眠っている。そっと外を覗くと空はまだ夜明け前の薄明かりで、ちらちらと星が瞬いている。私は物音を立てぬよう部屋の隅の寝台に寝かされている尾形さんの側へと移動した。
包帯の巻き付けられた顔を覗き込む。元来顔色は良い方では無かったが、出血のせいで尚更青白い肌が薄闇に浮かぶ。あまりに命の気配が薄くて、死んでいるのかと慌てて口元へ手の甲を近付ける。するとかすかな呼吸が感じられ、胸を撫で下ろした。矢の刺さった目をくり抜き、血を吸い出したとは言え巨大なヒグマを殺すほどのアイヌの毒ーーそれが体を蝕んでいることは間違いない。そっと頬に触れると燃えるように熱い。これが毒のせいなのか、傷のせいなのかは分からないが、高温で体力が失われるのは危険だと判断して、外の雪を集めて袋へ詰め、氷嚢代わりに額に乗せた。
雪の降るささやかな音と皆の寝息を聞きながら、どうして彼がアシリパさんに矢を向けられることになったのかを考える。杉元さんが二人の元へ現れる前にあった、何かしらの行動の結果そうなったのだろうが……あまり望ましいことで無かったのは想像に難くない。アシリパさんが毒矢を向けるのは、明確に『敵』だと判断した相手にだけだ。
二人の間に何かがあり、アシリパさんは矢を射た。しかしそのまま尾形さんが死に至ることを杉元さんは許さなかった。その点に杉元さんの尾形さんに対する憎しみの強さを思う。憎い相手だからこそ、大切な『相棒』の手で命を奪ったことにしたくは無いのだ。……つくづく、彼らを取り巻く奇妙な因縁の深さを思うとため息が出る。私などが手出し出来ない、金塊が結びつけた縁の糸。
「……なまえ」
小声で名を呼ばれ、顔を上げると部屋の隅で不安げに揺れる青い瞳があった。目覚めたアシリパさんはそっと私の側に来て、同じように尾形さんの顔を覗き込んだ。
「大丈夫です、生きていますよ」
「そうか。……つらそうだな」
「そうですね。深い傷ですから」
私はなるべく彼女が負担に思わないようにと言葉を選ぶ。真相はわからないが、多分、アシリパさんは悪くない。尾形さんが彼女を焚き付けるようなことを言ったのだと思う。彼はそういう『試しごと』をしてしまう性分なのだと何となく理解し始めていた。
「済まない……」
ぽつりと震える声で告げられた謝罪に、私は静かに問う。
「どうしてアシリパさんが私に謝るんですか」
「なまえは尾形のことを大切に思っているだろう。私の矢が尾形を傷付けてこんなことになってしまったし、なまえにも辛い思いをさせているから……」
俯く小さな背が震えている。私は居た堪れず彼女の背を撫でながら、思うことを素直に伝えた。
「この件に関しての仔細はまだ聞いていませんが、アシリパさんは悪くないんじゃないかなと私は思っています。だって、アシリパさんは理由もなく弓を引く人ではないでしょう。結果としてこうなってしまっただけで。……尾形さんは、複雑な人ですから」
そう、彼は複雑な人だ。いや、複雑と言うより真意を見せない人というのが私に今見えるすべてだ。彼の行動は何がしかの基準……彼の中にある規範に則っているようなのだが、それが奥深くに隠されていて、手を伸ばしても触れられず、他人には見ることが叶わない。
私の曖昧な表現に、アシリパさんは少し迷いを見せた後にきゅっと唇を引き結んだ。
「なまえ、尾形は私に、」
「なまえさん、もう起きちょったか」
何かが告げられようとした時、鯉登少尉の声がした。そちらへ顔を向けると、眠りから覚めたらしい男たちが目を擦り体を起こし始めていた。
「……お話は後でにしましょうか」
人の居る場でする話ではなさそうだという気配を感じ、私はアシリパさんへ小声で告げた。彼女も小さく頷き、表情を切り替えて食事の準備をするために立ち上がる。
後から思えば、この時場所を変えてでもアシリパさんから話を聞いておけば良かったのかも知れない。そうすれば、また違った見解が得られたのかも知れないと思う。

滞在していたニヴフの集落の人々は優しく、怪我人揃いの私たちに献身的に接してくれた。手投げ爆弾から鯉登少尉を庇った月島軍曹は尾形さんに次いで重傷で、寝台に横たわりなすがままとなっている。心配した村の人がニヴフ族に伝わる塗り薬を作ってくれたので、ありがたく頂戴し傷口に撒布する。かなり痛むはずだが、脂汗を流しながらも苦痛の一声も上げないところは流石歴戦の軍人だ。
「月島軍曹殿、鎮痛剤です。良ければ飲んで下さい」
「……すまん、助かる」
私は網走を飛び出す前にカノさんから与えられた鎮痛剤を月島軍曹へ差し出した。月島軍曹は礼を述べ、手渡した水でぐいと飲み干す。ほうと息を吐き、緩慢な動きでまた横たわり目を開けているのも辛いと言った風に瞼を閉じた。
「……尾形はどうだ」
「生きてはいます。まだ」
「そうか」
淡々と事実を確認する月島軍曹の態度が今はありがたかった。下手に気を使われると不安が膨らんで、弾けてしまいそうだったから。
先刻、杉元さんは医者を呼んでくるといって集落を飛び出してしまった。彼は絶対に尾形さんを死なせないつもりらしい。
「この流れで死なせるかよ」
燃えるような瞳で吐き捨てるように言われた言葉に、私の心はじくりと痛む。目を向けた先には、昏睡したままの彼の姿があった。

→次

back



×
BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -