冬霞を追う鳥 09.
崖の上に建てられた灯台の下で、私は波打つ海を眺める。ここはもう、私の見たことのある海ではない。白波を立てる海は、これから先のことを表すかのように暗く荒れている。吹く風も凍るように冷たく、私は襟元を強く押さえた。
網走監獄への潜入からもうすぐ2ヶ月。そろそろこの樺太の旅も佳境を迎えていると言っていいはずだ。曲馬団の山田座長から得た情報ーーアレクサンドロフスカヤ監獄に、帝政ロシアに対する解放運動で捕まった極東の少数民族たちが懲役囚として大勢収監されているーーこれが正しければ、キロランケさんの目的地はこの監獄であると予想されるからだ。彼は同志との合流を果たそうとしているのだろう。
豊原を出てからの旅は順調だった。昨日、急な猛吹雪に襲われてあわや遭難しかけたが、偶然にもこの灯台へ辿り着くことが出来、命拾いをした。灯台に住まう老夫婦は、突然の来訪者である私たちを暖かく迎え入れてくれた。
一宿一飯の礼にと、杉元さんは以前ロシア軍の脱走兵と共に家を飛び出してしまった娘の消息を訊ねると約束していた。
「行く先々で聞いて回るくらいは負担にならないだろ?本来の目的が最優先だが、何も恩返しせずにサヨナラはできねえよ」
それを聞いた月島軍曹が、止めはしないながらも複雑な表情をしていたのが気にかかった。
時に月島軍曹はひどく沈んだ気配を漂わせる。それは彼の何か過去に関わることのようなのだがーー当然そんな極めて個人的なことに触れる権利は私にはない。私に出来るのは、彼が己の望む使命を全うできるよう、そして生きていてくれるよう勝手に願うことくらいだろう。
「ここに居たのか」
「鯉登少尉殿。……少し海を見ていました」
物思いにふける中、背後から声を掛けられて振り返ると、気遣わしげな目をした鯉登少尉が立っていた。雪を踏み、彼は私の隣までやって来て同じように眼前に広がる海を見る。妙な空気を感じ、彼を見上げるといつになく難しい顔で私と視線を合わせてきた。
「あの、何か」
「ひとつ提案なんだが。……なまえさん、次ん町でオイたちが戻るのを待たんか」
「……どういうことですか」
告げられた言葉が理解出来ず、私は彼に問う。鯉登少尉はふと息を継ぎ、真剣な顔で口を開いた。
「これから行くのは国境を越えた露国の、しかも監獄だ。また網走んようなことにならんとも限らん。オイの目の届く限り、なまえさんのこっは守ってみせるが……オイはなまえさんを危険に晒そごたなか。豊原に戻ってあん新聞社に世話になっちょってくれてもよか。必ず迎えに行っ。……とにかく、安全な場所で待機しちょってはくれんか。頼む」
最後は半ば懇願のようだった。
彼がどうしてこんなにも私の身を案じてくれているのかはわからないが、その弁に一理あることは確かだ。完全にただの足手まといである私が、一筋縄ではいかないことが確実なところへ同行することに益などないのだから。
頭ではそれを十分理解していても、私は首を縦に振ることができなかった。
再び会って、確かめないといけない。そのために私は身ひとつでここへ来たのだ。ずくり、と左腕の傷が疼く。『よそ見せず早く来い』そう言わんばかりに。
ひたと目の前に立つ彼を見つめていれば、沈黙を破る溜め息が鯉登少尉から落ちた。
「……駄目か」
「お心遣い、ありがとうございます。でも、今引き返せば私は何のためにここまで来たのかが分からなくなってしまいます」
「それは、尾形百之助のためか」
放たれたのは、彼の太刀筋のように真っ直ぐで、誤魔化しの利かない一言だった。
金塊争奪戦の行く末を見届けること。それは私の職務であり使命だ。しかしこの道を進む理由はもはやそれだけではなかった。目を背け、気付かないふりをしてきたがそろそろ潮時なのかもしれない。
私はそっと左腕に手を添え、かの人の黒い瞳を思い出す。感情の読めない漆黒。そこに存外様々な色が宿っていることを私は知った。その中にもう一度、自分の姿を映したいと願ってしまった。そして彼の中に宿る、寂しげな炎が向かう先を知りたいと思ってしまった。
私は、他でもない、この好奇心にこそ殺されてしまうだろう。ーーそれでも。
長い沈黙を肯定と取った鯉登少尉は、眉間に皺を寄せてぐしゃりと整った前髪を握った。そして唸り声を漏らしたと思ったその瞬間、私の視界が雪の白でも海の紺でもない色で埋まった。
「尾形なんぞに渡したくないと言っても駄目か」
頭の上から切羽詰まった鯉登少尉の声が降ってくる。頬に当たる彼の外套の硬い感触、体に回された腕の力強さ。大きな掌が私の後頭部に触れている。……抱擁されているのだと、そこでやっと気が付いた。与えられる暖かさに胸が軋む。
「オイはずっとなまえさんのこっが、」
「鯉登少尉殿、離して下さい。……お願いです」
彼の言葉を遮り、口から漏れた音の固さに、内心自分で驚いてしまう。私の制止に鯉登少尉は口を閉ざし、ゆるゆると腕の力を抜いた。それに合わせて私は彼の胸に手を付き、距離を取った。雪混じりの風が私たちの間を吹き抜ける。
見上げた男の顔は、酷く傷付いて見えた。
しかし私はもう選んでしまった。……否、きっと、ずっと前から決めてしまっていたのだ。
「申し訳ございません。……先に、戻ります」
強ばった顔を無理に動かして、微笑もうとしたが出来なかった。踵を返し、皆の居る方へと足を動かす。
「オイは諦めんぞ」
去り際に放たれた、強い決意を秘めた鯉登少尉の言葉が胸に刺さる。
傷付けたのは私で、傷付けられたのは彼のはずなのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。自分の身勝手さに嫌気がした。
逃げるように灯台守夫婦の家の方へと戻ると、エノノカちゃんの祖父と杉元さんが橇を完成させたところに出会した。昨日、吹雪に巻き込まれた際に杉元さんたちは橇を燃やして暖を取っていたのだ。短時間、しかもあり合わせの材料で立派な橇を作り上げたことに杉元さんは感嘆の声を上げていた。
「みょうじさん!ほら、ヘンケが新しい橇を作ってくれたんだ!これで出発できるよ」
「本当、素晴らしいですね」
素直に私も賛辞すると、お祖父様は当たり前のことだというように、にこりと微笑まれた。この地に生きる彼らにしてみれは、これしきのことは当然の知識と力なのだろう。
ふと、杉元さんが私の顔を覗き込む。まじまじと光る瞳で見つめられると、反射的にたじろいでしまう。
「な、何ですか杉元さん。私の顔に何かついています……?」
「みょうじさん、何かあった?悲しそうな顔してる……」
つと伸ばされた指が、私の強ばったままの頬に一瞬触れた。そのかさついた指の感触に、いつか同じように触れられた男の指を思い出してしまい、肩が跳ねる。そんな私の様子に動揺したのか、杉元さんは慌てて手を引き「ご、ごめん」と顔を赤らめてしまった。
「いえ、大丈夫です。ご心配ありがとうございます」
「杉元貴様、なまえさんに何をしちょっ」
謝る私の背後から、低い声が響く。見れば鯉登少尉が大股でこちらに近付いて来ていた。眉を寄せ、大層機嫌が悪そうだ。
「な、何もしてねぇよ……」
「ならばないごて彼女がこげん怯えちょっ」
「鯉登少尉殿!私は怯えてませんし、杉元さんは心配して下さっていただけですから……!」
怒気をはらむ鯉登少尉の声に、ぎろりと睨み返す杉元さんの視線が刺さる。私は一触即発の空気を漂わせる彼らを取りなそうと必死になる。
そこへ月島軍曹と谷垣さんが現れた。不穏な気配を察した月島軍曹は私の腕を引き、入れ違いに谷垣さんを二人の間に押し込んだ。
「みょうじ、面倒事を起こすな」
「……申し訳ありません」
月島軍曹に呆れたように咎められ、私は自分が謝ることなのだろうかと思いつつも頭を下げる。威嚇し合う二人の間で、私の代わりに挟まれた谷垣さんがただオロオロと狼狽していた。
「出立の準備が出来た。鯉登少尉殿、行きますよ。杉元も置いて行かれたく無ければ喧嘩を止めろ」
そう月島軍曹が言い放ったことで、一先ず二人は睨み合いをやめた。ホッとしていると鯉登少尉がずかずかと歩き出したかと思えば、私の前でぴたりと足を止めた。
「あ、あの」
「……行くぞ、なまえさん」
そうして彼は強引に私の手を取り、橇へ向かって歩き出す。後ろから杉元さんが何か喚いている声が聞こえたが、動転した私の耳には意味を成して届かなかった。
→次back