冬霞を追う鳥 04.
結局四人でスチェンカに出ることになった彼らは、当初の乗り気で無かった素振りが嘘のように闘志を漲らせていた。
「こいつは戦争だ」
真顔で杉元さんはそんなことを言う。
「私ひとりで四人倒してやってもいい。…なまえさん、オイの闘いぶりをしっかり見ちょいでくれ!」
「あ、はい……」
熱心にこちらを見ながら鯉登少尉に言われ、私は肯首するほか無かった。谷垣さんと月島軍曹もそれぞれ試合に向け気を昂らせているのがわかる。軍人としての矜持を刺激されてしまっては、こうなるのも仕方がないことなのかもしれない。服を脱ぎ試合の行われる柵の中に入って行く彼らの背中を見ながら、私はそんなことを考えた。
試合開始を告げる声が上げられ、男たちは拳を繰り出す。体格では明らかにこちらが不利だが、その差を埋めて余りあるほど四人は強かった。
しなやかな鞭のように長い腕を振るう鯉登少尉、がっしりとした体から重い一撃を放つ谷垣さん。月島軍曹は小柄な体を逆手に取り、相手の脇腹に鋭い拳を叩きつける。そして圧倒的な戦意と力でねじ伏せる杉元さん。……これは、勝てる。
固唾を飲み試合の行方を見守っていたところ、ふと視界の端にある人に目が止まって、私はそちらへ首を向けた。壁際に腕を組んで佇むその男は、丸眼鏡の奥の瞳をきらきらと輝かせている。スチェンカがそんなに好きなのだろうか、と思っていると男と目が合った。軽く会釈をされたので、私はおもむろにそちらへと足を向けた。
「とても良い試合だね。あなたは彼らのお仲間かな」
「あ、はい。同行させていただいている者です」
「そうか。彼らは強い。…特に、あの彼。とても良い」
ちらと男が杉元さんへ視線を走らせる。
「拳は自己表現だよ。彼の拳をこの身で感じてみたいものだ」
満足そうに微笑む男を私は注視する。穏やかな顔つきの奥に潜むものを探ってみるが、悪意や敵意は感じられない。あるのは純粋な喜びだ。
わっと歓声が大きくなり、試合の決着が付いたようだ。柵の中では勝者が敗北し倒れる男たちに手を貸し、互いの健闘を称えていた。
「善き哉」
ふとそう言い残して、丸眼鏡の男はその場から姿を消した。立ち去る男の背を、杉元さんがじっと見つめていたのが少し気に掛かった。
「なまえさん!オイの活躍見ちょったかぁ!」
「はい、拝見しておりました。鯉登少尉も皆さんも本当に強くて……凄かったです」
試合後の興奮そのままに、鯉登少尉が今にも飛び付いてきそうな勢いで感想をねだる。私が述べた月並みな感想でも、彼の自尊心は充分満たされたようだ。殴られてやや腫れた頬も気にする様子なく、にこにこと晴れやかな笑みを浮かべていた。
「みょうじさん、杉元がどこに行ったか知らんか」
谷垣さんの言葉に、私は周囲を見回す。彼の脱いだ服はそのままで外套だけが消えていた。私が首を振ると、谷垣さんは眉を顰めた。また勝手に厄介ごとに首を突っ込んでいなければ良いが、と言いたげな表情だ。
「建物の中には居なさそうですね。表に出られたんでしょうか」
試合で火照った体を外気で冷やしているのかもしれない、そう思い私は出入口へと足を向ける。扉を開けばきんと冷え込んだ空気が肌を刺し、体を縮こませた。
「いた。……あの男、」
同じく様子を見に来た月島さんが、疑問を含んだ声を落とす。果たして杉元さんは小屋のすぐ外に居た。そして彼の視線の先に、夜の闇に溶けていくひとりの男の影が見えた。あれは、先程の丸眼鏡の男だ。
「あの方と何を話されていたんですか、杉元さん」
戸惑いながら聞いてみても、杉元さんは意味深な笑みを浮かべるだけだった。
翌日、私たちは再び酒場へと交渉に赴いた。刺青の男のことも気にはなるが、早く先導犬を返してもらわなければ、私たちはいつまで経ってもこの村から先に進むことが出来ない。
昨夜の杉元さんたちの活躍は、瞬く間に広まったらしい。遂に刺青の男に勝てる奴らが出てきた、と。酒場の主人は今夜の試合に刺青の男が出ること、恐らく杉元さんたちに客は大金を賭けるだろうから、わざと負けろと八百長を持ち掛けてきた。……本当に賭博とは恐ろしいものだ。
「そんなことより、犬を返す約束は?」
チカパシ君がエノノカちゃんと祖父の言葉を代弁して問いかける。すると酒場の主人は手を上げ微笑みながら何か言った。
「『八百長が終わったら返す』と言ってる」
月島軍曹の翻訳が終わるか終わらないかの刹那、杉元さんが主人にのし掛かり髪を毟り取る。上げられる悲痛な叫びに、私は顔を顰めた。
「北海道のアイヌは刑罰で鼻や耳を削ぐものがあるそうだが……樺太アイヌはどうなんだ?エノノカ」
「指の先っちょ、きるよ!」
谷垣さんの問いに、エノノカちゃんが指を切る仕草をする。幼な子の真剣な表情に酒場の主人は本気であると悟ったのか、露語で何か弁明をした。
「俺たちが刺青の男を追っていたことを本人にバラすと言ってるぞコイツ」
月島さんの言葉に、ざわと空気が動く感触がした。気配の方へ目をやると、杉元さんが昏い平板な目をしていて、私はまた背を震わせる。
「おまえ、交渉の相手を間違えたな」
地の底から伸ばされる手に、闇へ引き摺り込まれるような響き。私は浅い息を繰り返す。そんな杉元さんの言葉に追随するように鯉登少尉が淡々と告げる。
「月島軍曹、このあとの我々の予定をこいつに伝えろ。まず犬を返すまでお前の指を斬り落としていく。お前を裏庭に埋めたあと、我々はスチェンカの会場に行き、刺青の男を確認する。スチェンカはやらずに男を森へ連行し、射殺して皮を剥ぐ」
あっさりと述べられた解決方法は血生臭く、私は眩暈がする思いだった。彼らは皆、真剣だ。そしてそれを実行してしまうだけの力がある。
今更すぎるが改めて、自分と彼らの置かれた環境の違いを思い知る。目の前にいるのにとても遠い。それはこの場にいない彼と同じくらいに。
ーー尾形さんなら『さっさとこの男の頭をぶち抜いてしまえ』だとか言うんでしょうか。ねぇ。
眼前で進む話が耳に入らないまま、私はかの人の黒い瞳へ語りかけていた。
「みょうじさーん、行くよぉ」
「あっ、はい!」
杉元さんに呼ばれて私は反射的に返事をする。気付けば交渉と呼べない会合は終わっていたらしい。杉元さんの様子もすっかり元通りだ。
「なまえさん、顔色が悪かね。疲れたか」
「いえ、……少しだけ」
「無理はすっな。ないかあっては大変だ」
鯉登少尉が控えめに私の背を撫でる。その感触に、先程まで果てなく遠いと思っていた距離がまた縮まるのを感じ、胸を撫で下ろす。
「どうかしたか」
「あ、いえ……すみません、最後の方のお話ちゃんと聞けていなくって。結局、どうなったのでしょう」
私がごまかすように話をすり替えると、鯉登少尉はああ、と頷き顛末を教えてくれた。結論から言えば、今夜のスチェンカにはやはり参加して、刺青の男と対峙するとのことだ。
あの後、キロランケさんの情報を知っていると酒場の主人が言ったことで、杉元さんが私刑を下そうとしていた一行を止めたらしい。『アシリパさんの行方に繋がる情報として、万にひとつでも可能性があるなら、俺は無視なんて出来ない』と言って。
「……杉元さんらしいですね」
「でまかせに乗ってしまうなど、全く時間の無駄だ」
私がふと笑いをこぼして言えば、鯉登少尉は不服そうにきっぱりと言い捨てた。
杉元さんは良くも悪くも素直なのだ。彼は、彼の相棒のため、一心に道を進んでいる。そして鯉登少尉の考えも正しい。彼は任務を果たすためにこの樺太の地に来ているのだから。
「まあ、決まってしまったものは仕方がなか。オイが刺青の男を叩きのめしてくるっ。なまえさん、オイの勇姿をしっかり記事にしてくれや」
「えっ、これ記事にするんですか……」
私が驚いて聞き返すと、さも当然だろうという顔をした鯉登少尉は「鶴見中尉殿にオイがこげんもきばっちょっちゅうことをお伝えせねばならんでな!」と鼻息を荒くしていた。
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