飛花追想記/殉情録 | ナノ

冬霞を追う鳥 03.



盗られた犬はイソホセタと呼ばれる、橇犬たちの先導を任された特別な一頭なのだとエノノカちゃんは説明する。何でも、『おしゃべりロシア人』が話しかけて来て、その人がいなくなった時には犬を繋いでいた紐が切られていたのだと。
「犬は……私たちの家族と同じ」
エノノカちゃんの言葉に彼女の祖父も頷き、悲しげな溜め息を吐いた。
「『おしゃべりロシア人』も仲間だろう。よくある盗人の手口だ。そいつを探そう」
先導犬がいなければ橇は動かない。私たちは月島軍曹の言葉に同意した。
と、そこに近づいて来る人影があった。
「あッ!『おしゃべりロシア人』だ!!」
エノノカちゃんが指を指し声を上げる。男は露語で何かしら言い、私たちに背を向けた。
「着いてこいと言っている。…行きますか」
「行くしかなかろう。さっさと犬を連れて帰って出発するぞ」
月島軍曹が鯉登少尉に伺えば、彼は即断しロシア人の後を追い始めた。杉元さん、谷垣さんもそれに続く。また酒場の時のようなことになるのだろうか、と思いながらも私も彼らに着いて行った。

件のロシア人は村の端にある一軒の家に入って行った。そこに居たのは先程立ち寄った酒場の店主と、杉元さんが殴り倒した男だった。酒場の店主は大層不機嫌な様子でまくし立てるように言葉を並べる。
月島さん曰く、先程杉元さんが殴った男はスチェンカという賭け事の参加者らしく、こんなに顔が腫れてしまっては出られないから責任を取れ、と言っているらしい。
「店の主人はこいつに大金をかけていたらしいですね。……で、犬を返してほしければこいつの代わりに参加しろと言ってます」
月島さんが通訳した内容を聞いた杉元さんの気配が変わる。
「いいからさっさと犬返せ。店ごと潰して宗谷海峡に浮かべるぞこの野郎。伝えろ、月島軍曹」
ざわと揺れる不穏な空気と、殺気立つ視線。杉元さんはやると言えば本当にやってしまうだろう…私は自分が言われた訳ではないのに、恐ろしさに身を縮こめた。
「あの犬は私が高いエサ代を出して雇っている。『すぐに返さんとそのパヤパヤ頭を三枚おろしにして犬の餌にする』とロシア語で伝えろ月島軍曹」
「難しい表現の通訳はできません」
鯉登少尉も軍刀に手を伸ばしつつ穏やかでないことを言うが、月島軍曹があっさりと切り捨てていた。…本当に、月島軍曹が冷静でなければこの場は一瞬で争いの場になっていただろう。店主と私たちの間に共通言語が無くて良かった、と心底思う。思わず溜め息を吐くと、同じく黙って様子を見ていた谷垣さんが、同意するように小さく頷いた。
「なに!?」
と、ふいに店主が言ったことに月島軍曹が今までにない反応を見せる。私たちの視線が集中する中、月島軍曹が言ったのは思いがけないことだった。
「我々が探していた男…つまりキロランケたちは『北海道から来た刺青の男を探していた』…と。『スチェンカ』には刺青の男も来るかもしれんと言っているぞ!!」

そうして私たちが連れられたのは、村の中にあるとある建物だった。それなりの広さがあるそこの窓からは煌々と灯りが漏れている。店主が入口を開き手招きする中からは、男たちの喧騒が聞こえて来た。
「スチェンカはここで行われているそうだ」
「だから何なんだよ、そのスチェンカってのは」
通訳する月島軍曹に、杉元さんが最もなことを言う。答えを持たない私たちは首を捻りながら建物の中へ足を踏み入れた。
ーーそこで行われていたのは、屈強な男たちの殴り合いだった。
小屋の中に充満する熱気。歓声と怒号が乱れ飛び、肉体がぶつかり合う音がその間を縫って弾ける。予想もしていなかった光景に、私はヒッ、と小さく息を吸い込み口を押さえた。
スチェンカとは『壁対壁』という意味らしく、この上半身裸で向かい合い並ぶ男たちを壁に喩えたのが語源だという。
「スチェンカはもともとロシアの村対抗で行われる祭りの余興みたいなものらしい。しかしある日…男がやってきてスチェンカを賭けの対象にした。そいつは奇妙な刺青を持つ日本人だといっている」
店主が言ったことを月島軍曹が訳す。周囲を見れば日本人らしき顔があちこちに見られる。この小さな村に賭博目当てで大泊や豊原といった大きな街から金持ちがやって来るのだと、店主が教えてくれた。……村としてはどんな形であれ、大金を落としてくれる人間がやって来てくれるのはありがたいことだろう。そして賭博となれば熱くなってしまうのは国が違っても同じのようだ。
「みょうじさん大丈夫?見てられなかったら外で待っていても、」
「へ、平気です。すぐに慣れます…相撲みたいなものですよね、ちょっと激しめの……」
私が目の前の光景に圧倒されているのを察したのか、杉元さんが眼力を緩め優しく声を掛けてくれた。しかし私は皆と一緒にいた方が良いと首を振る。…それに興味が無いわけではないのだ、この異文化に。ただ、あまりに刺激が強すぎるだけで。
杉元さんは私の反応に「相撲かぁ…」と少し笑った。
例の刺青の囚人は、今ここにいる日本人の中には居ないらしい。彼は『強い男としか戦わない、興味のある相手が居ないとスチェンカに出ない日もある』のだそうだ。
「スチェンカに勝ってそいつを舞台に引っ張り出すしかないってことか。あそこにおびき出せば、刺青を確認出来る」
杉元さんはひとり納得したように呟く。確かにそうではあるのだけれど……体格に優れたロシア人たちを相手取るのは、さすがの杉元さんでも易しいことではないのではなかろうか。
「とにかく俺たちがスチェンカで勝つから、すぐに犬は返さんと頭の毛を全部毟ると伝えろ月島軍曹」
「なんで『俺たち』なんだ?」
そんな杉元さんは自分だけではなく、他の三人と一緒にこの競技に出るつもりでいるらしい。月島軍曹が冷静に突っ込みを入れるが、全く動じる様子が無い。
「出るのは杉元だけで充分じゃないか」
「そもそもお前が殴ったのが悪いんだぞ」
鯉登少尉と谷垣さんもそれに追随するが、杉元さんは「連帯責任だろ」と聞く耳を持たない。
「『ひとり抜けた穴を埋めればいい』と言っているぞ。…… みょうじもそう思うだろう、杉元に言ってやってくれ」
「えっ、私、」
諭すように言う月島軍曹が、不意に私にお鉢を回して来た。男たちの視線が私に集中する。
「そうですね、怪我人である杉元さんをあの場に出して良いのかと問われると困りますが、確かにきっかけを作ったのは杉元さんなので……」
しぼむ語尾に突き刺さる視線が痛い。「お前が何とか説得しろ」という三人からの圧を感じる。
どうしよう、と内心困り果てていたその時、店主が言った言葉に月島軍曹がぎろりと視線を動かす。彼の視線の先には、こちらを小馬鹿にしたような店主の笑い顔があった。
「『お前ら日本人だけではロシア人に勝てない』…だと?」
その瞬間に、今の今まで他人事のような態度を取っていた鯉登少尉と谷垣さんの様子が一変した。二人とも眉間に皺を寄せ、こめかみには青筋が浮いている。
「この薄らハゲ……」
「もう日露戦争を忘れたか」
黙り込んでしまった月島軍曹も、漂わせる気配は明らかに違う。こうなってしまってはもう私に止める手立てはない。私に出来ることは、ひと時にやる気になってしまった三人を眺めることだけだった。

→次

back



×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -