飛花追想記/殉情録 | ナノ

冬霞を追う鳥 02.



「ここから犬橇で移動するぞ。貴様らとっとと準備せぇ」
交渉を終えた鯉登少尉が上官らしい尊大な態度で私たちに告げる。歩きたくないから、と言う単純な理由で犬橇を雇うことにしたようだが、先行するアシリパさんたちに少しでも追い付くためには速度が要る。犬橇なら徒歩より格段に速く移動出来るだろう。…体力に自信のない私としても、ありがたい話だ。
「あの子も小さいのにしっかりしてるなぁ…」
鯉登少尉と日当の交渉をしていた樺太アイヌの少女・エノノカを見て、しみじみと杉元さんは言う。働き者の少女の姿に、杉元さんは彼の『相棒』の影を見ているのだろう。少し寂し気な眼差しに、私は「そうですね」と相槌を打つことしか出来なかった。

大泊で聞き込みをしていた私たちは『見慣れないアイヌの少女を連れた老人がいた』との情報を入手した。……その前にまず、フレップワインという、この土地特有の酒を提供する店で、杉元さんと鯉登少尉の小競り合いがあったのだけれど。この二人、立場の違いからどうにも噛みつき合うことが多いように思える。生来の真っ直ぐさ故、後腐れがないのは良いことだが、間に挟まれる私や月島軍曹、谷垣さんのことも考えて欲しいとしみじみ思ってしまう。
ともかく、大泊近郊のアイヌの村にかの老人がいるとの話に、私たちは慌ただしく出立した。そして道中の森の中で出会ったのが、エノノカちゃんだった。
「アシリパさんじゃない……」
落胆する杉元さんに、少女は村へ帰る途中、祖父の橇から落ちてしまったのだと言う。そして、チカパシ君の顔を見て親し気に話しかけた。
「あなた、北海道のアイヌ?わたし会った。北海道から来たアイヌの女の子」
その一言に私たちは一気に色めき立つ。間違いなくアシリパさんはこの地にいるのだ。俄然士気が高まったところで、この樺太の洗礼を私たちは受けることになった。小柄な見た目にも関わらず、ヒグマを襲うほどの獰猛な獣ーークズリが現れたのだ。油断した鯉登少尉が背中に鋭い一撃を食らったが、私たちは何とか襲撃を交わし、孫娘を探しに来たエノノカちゃんの祖父の犬橇で窮地を脱したのだった。

「先行するアシリパさんたちの目的地は何処なんでしょうね」
「さあ…あのエノノカという少女の話からすると、北上しているのは間違いないようだが」
旅の準備を整えながら私と谷垣さんが雑談していると、横から杉元さんが口を出した。
「北にキロランケの仲間が居るってことなんじゃねえか。みょうじさんは何か聞いたことないかな」
「パルチザンの拠点ということですよね。残念ながら心当たりはありませんね…。今度、大きな街に立ち寄る機会があれば、新聞社を探して聞いてみることにします」
こんなことなら、極東ロシアという単語が出た時点で露国の情勢についてもっと調べておけば良かった。そう思うがすべては後の祭りだ。
「なまえさん!こっちへ乗っとよか」
鯉登少尉に手を振られ、私は杉元さんたちから離れ、鯉登少尉と月島軍曹と同じ橇に乗ることになった。鯉登少尉は何やらにこにこと嬉しそうな顔をしている。そんなに橇での移動が楽しみなのだろうか。本当に素直な方だなと釣られて笑みを浮かべる。
「少尉殿は犬橇は乗ったことがおありでしたか」
「いや、こん村に来っ時が初めてだ。思うたより速度が出っもんなんじゃな」
「そうですね。私も初めてでしたが驚きました。北海道では見かけたことも無かったので、とても興味深いです。月島軍曹殿はいかがです?」
ふと話を振ってみると、月島軍曹は自分に水を向けられると思っていなかったようで、一瞬目を丸くした。そうして目を瞬かせたかと思えば、すぐにいつもの無表情に戻る。
「……私も、これが初めてです」
ぼそりと呟かれた言葉には、それでもほんの少し警戒心が薄れた、小樽の春頃を思い出させるような気配が感じられ、私は目を細めて頷いた。

エノノカちゃんの祖父が御す犬橇は軽やかに、しかし力強く雪の上を進む。前に座す鯉登少尉の背に隠れた私は、寒さにかじかみながらも流れゆく景色に目を奪われていた。同じ雪景色でも、前の冬に見た北海道のそれとはまた違う樺太の景色。どんよりとした空の色も、しんと冷えた空気の匂いも、どこか異国情緒を感じ取ってしまうのは私の思い込みだろうか。
ふと、この露国の冬を表す言葉は何というのだろう、そんなことを考える。……そういえばエノノカちゃんに出会う前、遭遇したロシア人に月島軍曹は流暢な露語で会話をしていた。後で月島軍曹に聞いてみよう、そう思ったところで私の脳裏に露語の書かれた本の表紙が浮かぶ。小樽の病院、尾形さんの枕元に置かれた数冊の本。あの時、尾形さんは露語など分からないと素知らぬ顔をしていたが、実はそうでは無かったのかも知れない。
しかし尉官位の鶴見中尉ならいざ知らず、どうして一介の兵である月島軍曹や尾形さんが露語に堪能なのか。その理由は私には全く思い当たらなかった。

ぼんやりと思考を巡らせるうちにも橇は進み、小規模なロシア人の集落に差し掛かった。犬たちを休ませるためにも、ここで聞き込みをするらしい。私は橇を降り、固まった体を動かして解す。首を回しながら周囲を見渡してもそれほど拓けた印象は受けない。ごく普通の農村といった雰囲気だ。
「アイヌの女の子と三人の男、ここのロシア人の村のこと聞いてたって」
エノノカちゃんの話に杉元さんは嬉しそうとも悲しそうともつかない顔をした。続けて月島軍曹が厳しい口調で言う。
「のどかな農村だと思って気を抜くな。南樺太にはロシア人の監獄がいくつかあったが…日露戦争で日本領になると閉鎖された。では囚人はどこへ消えたのか。……日本軍が上陸したどさくさで、ほとんどが逃げた」
その言葉に男たちの間に一気に緊張感が走った。その後、ひとまず村で唯一の酒場に行ってみようとなったので、私も彼らに続いて歩き出す。エノノカちゃんと彼女の祖父、そしてチカパシ君は橇犬の世話をするということでその場に残った。
足を踏み入れた鄙びた酒場には、昼間にも関わらず数名の男たちがたむろしていた。薄暗い店内に漂う濃い酒の匂いに私は思わず顔を顰める。
「なまえさんは後ろに下がっちょれ」
鯉登少尉に囁かれ、私は大人しく従う。……あまり良い雰囲気の店ではない。言葉が通じないなら尚更だ。
月島軍曹がキロランケさんの写真を手に、露語で何かしらを問い掛けると、店内からいくつか言葉が返された。内容は分からないが、語調からしてさして良い感情を持たれていないことが察せられる。鯉登少尉の後ろから様子を伺っていると、立ち上がった客の一人が杉元さんへ詰め寄って来た。
「何言ってるかさっぱりわかんねえぞ酔っぱらい。俺に触ったらブッ飛ばすとこいつに伝えろ月島軍曹」
杉元さんがそう言い終えた途端、目の前の男は杉元さんの胸倉へ掴みかかった。と、瞬時に杉元さんの拳が男の顔面に叩き付けられた。男も反撃するが、更に杉元さんが殴り付け、あっという間に男は床に伸びてしまった。私は声も出せず、開いた口を押さえるしかなかった。
「ここはダメだ、酔っ払いしかいねぇ。近所へ聞き込みに行くぞ。犬ぞりは待たせてろ」
流れ出る鼻血を物ともせず、杉元さんは大股で酒場から出て行ってしまう。残された私たちも顔を見合わせ、酒場の主人を一瞥して店を後にした。

その後、村の中で聞き込みをするが芳しい情報は得られなかった。元より人の少ない村で、酒場での騒動が既に伝わってしまったのかも知れない。ちらちらと遠巻きに私たちの様子は伺われている。これでは聞き込みなどまともに出来る状態ではない。
「キロランケたちは何が目的でこの村に立ち寄ったんだ?」
「さあ……かつてのお仲間でもいらっしゃったのでしょうか」
谷垣さんの最もな疑問に、私も首を傾げる。
と、そこに犬橇と待機しているはずのエノノカちゃんが走り寄ってくるのが見えた。顔を真っ赤にして必死で走る彼女が叫ぶ。
「イ……イヌ、盗られた!!」
「えーッ!?」
私たちは揃って声を上げた。
……追跡行は始まったばかりなのに、立て続けに事が起こる。まったく前途遼遠である。

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