飛花追想記/殉情録 | ナノ

万華鏡の欠片たち 11.



『樺太へ』。
寝台に横たわる私の耳の奥で、鯉登少尉に告げられた島の名が何度も何度も繰り返される。
海を渡ればすぐそこのはずなのに、その地は小さな部屋に閉じ込められた今の私には、あまりに遠く思えてしまう。私の追うべきものが彼の地へ旅立とうとしているのなら、どんなことをしても行かなければいけないのに。じりじりとした焦燥感が私を苛む。そしてカノさんから処方された薬の力を借りているはずなのに、左腕は重く痛み続けている。まるで「早く来い」と言わんばかりに。ちらちらと瞼の裏に映る影が、私を誘う。

目覚めてから数日、恐らく先行するアシリパさんたちはもう樺太の地を踏んでいるだろう。そしてそれに続くように、鯉登少尉たちも今日明日にはこちらを発つらしいと、治療に訪れたカノさんがそれと無しに教えてくれた。
「樺太へ向かうのは鯉登、月島、谷垣、そして杉元の四人になるそうよ」
「杉元さんも、ですか」
「本人がどうしても、って。鶴見中尉も許可したらしいわ。まあ、彼が行った方がアシリパさんは言うことを聞くでしょうし……」
驚きの声を上げれば、ついさっきまで生死の境にいたはずなのにねえ、とカノさんは言う。しかし彼女の声からは心配の色は感じられなかった。
強靭な体を持つ杉元さんのことだが、多少の無理は承知の上なのだろう。それに、谷垣さんが共に行くなら、杉元さんが無茶をしそうになれば止めてくれるはずだ。……そう考えれば考えるほど、自分が遅れを取っていることを痛感し、焦りを覚える。自分を駆り立てているものの正体も分からないままに。
「……なまえさん、あなたの考えていること、当ててあげましょうか」
ふと、カノさんがそう言って目を細める。艶やかな唇は柔らかく弧を描き、ゆっくりと包帯の巻かれた左腕を撫でながら。
「行きたいんでしょう、彼らと共に」
彼女の言葉がまっすぐに、胸の真ん中を射る。私が口に出来なかったことを音にされて、やっと意思を固めることが出来た気がする。迷って立ち止まっている場合ではない、そうしなければいけないんだと。
私がこくりと頷けば、カノさんは「仕方のない子ね」と眉を下げて笑った。そしてすっと立ち上がった。
「少し待ってなさい。そのままの格好じゃ外に出せないわ」
私の頬を撫でた後、黒い紗を揺らして彼女は静かに部屋から出て行った。
しんとした病室の中、私は窓の外へと目を向ける。朽葉色をした秋の陽が周囲を照らしているが、私の心はまだ影に居るままだ。それが今、カノさんの差し伸べた手が、日の当たる場所へ連れ出そうとしてくれている。……この後、彼女に迷惑をかけるかもしれないと思いながらも、この機会を逃せば私の旅路は終わってしまうことも分かっていた。
しばらくして、カノさんは立ち去った時と同じように音もなく病室へと入ってきた。ぱたん、と軽い音を立てて扉が閉まる。
「お待たせしたわね。さ、早く着替えて」
「カノさん、これ……」
彼女が抱えていたのは、私の着慣れた洋服だった。それに、小物や貴重品を入れていた図嚢まで。私が驚いた顔をすると、悪戯っぽくカノさんは笑う。
「ちょっと見張りの兵には昼寝してもらっただけよ、安心なさい。そんなに時間は無いから、ほら」
急かされて私は勢い良く頷き、寝台から立ち上がる。後のことは心配しても仕方がない。…そもそもカノさんは可憐な見た目だけれど、実際は老獪な囚人で、私なんかよりずっと強くて、ずっとしたたかなのだ。心配など、むしろ私の方がされる側なのだろう。
数日ぶりに洋装に身を包めば、背筋が伸びる気がした。同時に萎えていた心にも芯が通る。カノさんから図嚢を受け取り、肩から掛けた。
「いい顔になったわ。で、これからどうするつもりなの、なまえさん」
「樺太へ渡る連絡船があるはずなので、それに乗ります。上手くいけば杉元さんたちとそう変わらない頃に大泊へ上陸出来ると思います」
「そう。…ちゃんと生きて帰ってらっしゃい。この恩はあなたの体で返してもらいますから、傷付けたりしないでね」
「わかりました」
彼女らしい励ましの言葉に、私は胸を熱くする。最後にカノさんは「これ、餞別よ。痛みが酷かったら飲みなさい」と幾ばくかの薬の包みを握らせてくれたので、ありがたく図嚢の奥へと押し込んだ。
「ありがとうございます、カノさん。行って参ります。あとはお願いします!」
私はそう言って、窓から外へと抜け出す。そして腕の痛みを引き連れて走り出した。

病院から網走の市街地へ紛れ込み、私は手始めに犬童に面会する際の手土産を融通してもらった商家へと駆け込んだ。網走監獄へ向かう前に街中を見て周り、土地勘を付けておいたことが功を奏した。そして夏太郎さんと行った根回しが、こんなところで役に立つとは思ってもみなかった。
「あなたは、立花様の……」
「すみません、急ぎの用で東京の立花商会と連絡を取りたいのです。電話をお貸し頂けませんか。…お代はこれで」
必死の形相で飛び込んできた洋装の女の勢いに負けたのか、商家の主人は驚きながらも電話の前まで誘導してくれた。私は螺鈿細工の櫛を御礼として押し付け、電話をかける。
「みょうじなまえです。大伯父様か、誰か立花の者は近くに居ませんか。急ぎなんです、早く」
突然の呼び出しに狼狽える使用人を急かせば、懐かしい大伯父の声が電話の向こうから聞こえた。
「なまえ、本当になまえなのか?今どこにいる」
「網走です。…大伯父様、時間がありません。私は今から樺太へ向かいます。しばらく連絡も取りにくくなると思いますが、ご心配されないで。お祖父様にもそうお伝えください。それから、小樽の新聞社の斎藤編集長にも同じことを伝えて頂けますか。みょうじは必ず戻ります、と」
切羽詰まった声で早口で告げれば、大伯父の重い溜め息が電話口から聞こえた。
「心配をしないのは無理な話だ。しかし、止めてもお前は聞かないだろうね」
「ごめんなさい大伯父様。でも、私、行かないと」
「……約束してくれ。絶対に無茶はしないと。身の安全を第一に考えて行動すると」
大伯父の真剣な声色に、私はぐっと涙を堪え、努めて明るく言った。
「はい、必ず」
そうして私は、電話を貸してくれているこの網走の商家へ便宜を図ってもらえるよう頼んで、電話を置いた。大伯父の言葉を胸に刻み、ひとつ大きく深呼吸をする。大丈夫だ、私は行ける。そして顔を上げて、商家の主人へ向き直る。
「ご迷惑ついででもうひとつお願いです。馬を貸してください。一刻も早く樺太の連絡船に乗りたいんです」
「樺太って……連絡船は稚内ですよ?」
「承知しております」
主人はしばらくじっと私の顔を見ていたが、決意の固さを見て取ったのか、ニヤリと笑った。
「立花様のご親族をここで放り出しては、これからの取引に遺恨が残ります。すぐに馬車を出します、全速力で稚内まで走らせましょう!」

そうして私は狂ったように風を切る馬車に乗せられ、速やかに稚内まで送り届けられた。商会の主人へくれぐれも宜しく伝えて欲しい、いずれ立花から厚く礼をさせて頂くと御者へ伝え、連絡船の船着場へと走った。聞けば、まだ軍艦らしきものはこの辺りを通っていないらしい。どうやら一歩先んじることが出来たようだ。
そのまま運良く出港直前だった連絡船に滑り込み、私は船上の人となった。ゆっくりと遠ざかる北海道の地に、少しだけ感傷的な気持ちになる。勢いだけで飛び出してしまって良かったのかという懸念も。しかしそれ以上に未知の土地への興味が勝り、たったひとりという不安感さえ霞んでしまう。ーー本当に、自分はいつか好奇心に殺されてしまう気がする。
稚内から樺太への船旅はあっという間だ。すんなりと下船して、そのまま私は港の端に佇み、海を眺める。季節は冬へと近付きつつあり、北上したせいもあって、海風に吹かれると体がしんと冷え切ってしまう。早く外套を調達しないと簡単に凍死してしまうな、と考えていればひとつくしゃみが出た。
そうこうしていれば、水平線の彼方から黒い影がこちらへ迫って来ているのが目に入った。もうもうと煙を吐いて海を進むのは海軍の艦だ。目標の人たちがやって来たことに私は安堵する。それと同時に、緊張で少し忘れていた腕の痛みが戻ってきて、私は顔を顰めた。
軍艦は威風堂々と入港し、荷下ろしが始まる。そんな積荷を下ろす兵士たちの前で騒ぐ人影があった。ゆっくり近付いて行くと聞き慣れた声が耳に入り、私は笑みを浮かべてしまう。月島軍曹に何やら咎められている鯉登少尉、行李の中から現れた小さな影はチカパシ君だろうか。彼も私と同じく、居ても立っても居られなかったということだろう。
「楽しそうですね。私もお仲間に入れていただけませんか」
そう声を掛けると、全員の視線がこちらへと集中した。
「なまえさん!?」
「えっ、なんでみょうじさんがここに…」
「みょうじ!お前病院から抜け出したと思ったら…!」
指を差し、目を丸くする四人を前に、私は胸を張りとっておきの表情で言う。…いつか、土方さんに向けて尾形さんが見せていた、得意げな顔を思い出しながら。
「どんなもんだい」

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