飛花追想記/殉情録 | ナノ

万華鏡の欠片たち 07.




迎えに来てくれた尾形さん共々、一旦皆が潜伏しているアイヌの村へと戻った。誰かに尾けられていることを心配したが、尾形さんが「誰も居らん」と言ったのでそこは安心した。
村に着くとちょうど今日の作業を終えたトンネル作業班も帰ってきたところのようだった。杉元さんは私の姿を認め、泥まみれの顔をぱっと輝かせ駆け寄って来た。
「みょうじさん!大丈夫だった?犬童に何もされなかった?」
「はい、この通りです。夏太郎さんもいて下さいましたから」
「そっか、良かった…」
眉を下げほっと息を吐く杉元さんは、戦いの場に居る時の彼とは全く違う気配を纏う。きっと今の暖かく優しい好青年像が、本来の彼の姿なのだろうと思う。
と、不意に私と杉元さんの間に割って入る影。
「さっさと身支度整えて来い一等卒。汚ねぇままうろつくんじゃねぇ、泥が付くだろうが」
「アァ?…あっ、みょうじさん着物だったね、ごめんねぇ」
尾形さんにしっかりと睨みを利かせた後、彼の背後に隠されるようになっていた私へ申し訳なさそうな表情を見せた杉元さんは、村の井戸の方へと走って行った。
「あんな言い方されなくても…」
嗜めるように言えば、尾形さんは小さく舌打ちし「お前もさっさとジイさんに犬童のことを報告しろ」と小言を返してきた。それはもっともだったので、素直にはいと頷き、滞在場所として借り受けている小屋へと向かった。

「土方さん、永倉さん、ただ今戻りました」
「なまえか。無事に面会は終わったようだな」
「はい。夏太郎さんもいらっしゃったので心強かったです」
私が勧められた座布団に座りながら答えれば、土方さんはそうか、と目を細められた。小屋には土方さんと永倉さん、夏太郎さんが居て、私に着いてきた尾形さんは入口の側に立ったまま話に耳を傾けていた。
「して、どうだったみょうじ」
「残念ながら、大して目新しい情報は無さそうですが…」
永倉さんに問われ、私は網走監獄の現状と犬童の動向について報告する。警備の手は目に見えて数も多く厚かったこと、犬童に第七師団の動向について尋ねられたこと、そして鶴見中尉の名を挙げると鋭く目を光らせていたこと。…恐らく、鶴見中尉もこの網走に遠からず手を伸ばしてくるだろうという私の予測も添えた。
「刺青人皮を追えば、自然とのっぺらぼうを追うことになるだろうからな」
「鶴見中尉は正攻法で来るでしょうか」
「それはせんだろう。来ても犬童が突っぱねるだけだ。そんな囚人はここには居ない、と」
土方さんは髭を撫で付けながら、何事か思案している。確かに、陸軍の名を出しても犬童ならば『軍部と司法は別物だ』と、恐れもせずに拒絶するだけだろう。全く時間の無駄だ。
ーーそれにしても、鶴見中尉がやってくる前に私たちは事を片付けることが出来るのだろうか。ふと、かの人の存在を思い出した途端、心臓がどくりと鳴った。闇の奥からどこまでも伸ばされてくる死神の手。形の良い唇がにい、と弧を描く様が目に浮かぶ。
「みょうじから見た犬童はどうであったか」
永倉さんの声に思考が呼び戻され、ハッと息をする。ゆっくりと呼吸を整え、先程面会した男のことを思い出す。
「そうですね…以前、鈴川が化けた姿にそっくりで、そこにまず驚きました」
素直な感想を述べると、土方さんも永倉さんも楽しげに笑い声を上げられた。
「前に土方さんが仰っていた通りの人物だと思いました。公に忠実に見えて、己に固執しているような。難しい人だと」
土方さんがゆっくり頷かれる。
「そう言えば本来の目的であまり使われていない教誨堂で、毎日鍛錬を欠かさず行っておられるそうですよ」
「…ふむ。教誨堂か」
ついでのように案内をしてくれた看守が言っていたことを伝えると、土方さんの目が光った気がした。

報告の後、私と夏太郎さんは網走の宿に戻った。尾行はされていないと尾形さんが言っていたが、監獄を見物した後早々に街から姿を消したとなれば、怪しまれるのではと懸念されたからだ。
数日間そのまま宿に逗留し、網走の街を取材する体を装う。監獄の塀に付けるように建てられたアイヌの仮小屋は、今のところ撤去されることもなく順調に作業は進んでいると、ふらりと現れては消えていく尾形さんから聞いていた。
一日の作業を終え、気分転換にと夕暮れ前に網走川沿いを歩く。鮭漁の舟が数艘河面を滑り、微かな水音だけが夕景に溶けていく。そんな穏やかな秋の情景は、嵐の前の静けさだと胸の騒めきが告げている。私は誰もいないことを確認した上で、重い溜め息を吐いた。
川の向こうにそびえる難攻不落の監獄に潜入し、のっぺらぼうに会えたとして、そこで事態が解決に向かうとはやはり思えない。それでも信じて進むしかないのだ。道は前にしかない。迷いはきっと、枷になる。
ふと、舟の上から手を振る影が見えて顔を上げる。あれは杉元さんだろうか。遠くてしっかりと表情までは見えないが、満面の笑みを浮かべているだろう。私もそれに応えて小さく手を振った。
彼の真っ直ぐな意思は、出会った時から変わらない。恐らくこの先もそうだろう。アシリパさんを支え、助け、共に行く。己の信念を曲げず、傷付くことも恐れずに。
ーーそこに私はいつしか光を見ていた。
夕陽にきらめく水面の上、迫る黄昏にも呑まれることのない星の輝きに、私の視界は少しだけ滲んだ。

私と夏太郎さんがアイヌの集落へと引き揚げたその日に、トンネルは開通した。驚くべきことに、開通した先はとある看守の宿舎だという。
「あんた、この前犬童に会いに来てた新聞記者さんか」
「あ、はい……」
挨拶くらいしておくと良い、と土方さんに言われ、トンネルを潜った先に居たのは頭頂部に黒髪の残った白髪の、まぶたの重い男だった。門倉と名乗った彼は、看守部長を務めているらしい。そして彼は舎房を見学していた時に、私を見かけたと続ける。
「あんたが帰った後、看守どもが浮足立ってたぜ。監獄に似つかわしくない女がうろついてた、って」
「そ、そうでしたか…お騒がせ致しました」
「いや、謝んなくていいよ。あいつら喜んでたから。こんな言い方はあんたに失礼になるかも知れんが」
ひらひらと軽く手を振り、門倉さんは言う。この気怠い雰囲気の人が、本当に網走監獄の看守部長なのだろうか。にわかに信じがたい。
「門倉は信用のおける男だ、安心なさい」
私の懸念を察したらしい土方さんから声をかけられ、私は頷いた。…実際のところどうであれ、ここまで来たら信じるしかないのだろうけれど。
「あの、犬童は私が帰ってから何か言っていましたか」
「いや、特に。多少怪しんではいたが、あんたは身元もちゃんとしてたから。手土産喜んでたよ。あれ、高かったでしょ」
「そうですか、なら良かったです」
一番の懸念が杞憂だったことを知って、私はほっとする。足を引っ張ることにならなかったのなら、大した成果はなくとも成功と言っていいだろう。
「決行は新月の夜だ。それまで大人しくしているように」
「わかりました」
土方さんに告げられた日まで、あと少し。

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