雷火ひらめく 18.
夕暮れになり、村人たちは仕事を終えて各々の家へと帰って行く。夕餉の支度をする音と匂いがあちこちから漂って、ふと郷愁を感じてしまう。結局何かと世話を焼いてくれていたキラウシさんが「夏とは言え夜は冷えるから家へ来い、家族も歓迎するだろう」と声を掛けて下さった。ありがたい申し出だったが、自分だけ屋根の下でぬくぬくと過ごすことに気が引けた。
「同行者が戸外で夜を過ごすのに、私だけが室内で過ごすわけには参りませんから。お気遣いありがとうございます」
そう言って礼を述べて断れば、キラウシさんもそうか、と納得されたようだ。分けて頂いた食事と灯りを持って、尾形さんが居座る食糧庫の方へと私は戻った。
「…どうだった、この村は」
「ごく普通のアイヌの村ですね。村の出入口に警備が居るわけでもないですし、夜の見張りもさして重要視されていないようです」
問われて答えれば、尾形さんはふんと得心したように鼻を鳴らした。
恐らく彼は期限までに姉畑が見つからなかった時のことを考えているはずだ。そう思い、指示をされたわけでは無いが村を見て回った際、それとなく警備の状況を調べていた。あの偽アイヌの村ならいざ知らず、ここはごく普通の集落だ。谷垣一等卒が軟禁された檻にも日中は特段の監視が付く様子もなかった。これならいざと言う時に脱出することは難しくないだろう。
谷垣一等卒にも食事が運ばれて来たようなので、安心して私たちも夕食を取る。食事を終え、借りた洋灯の燃料を無駄に使うのも申し訳なくて、火を吹き消せばそれなりに明るい月の光が周囲を照らす。
「月に暈がかかっていますね。…明日は雨でしょうか」
「……疲れてんだろ、さっさと寝ろ」
「…はい。ではお先に休ませて頂きますね」
ぼんやりと月を眺めて言えば、少しばかり気遣いの感じられる声が落とされて、私は素直に休むことにした。背嚢を枕に体を横にすると、気付かないようにしていた疲労感がのしかかって来て、あっという間に私は眠りに吸い込まれていった。
翌日は予想通りの雨模様だった。尾形さんは外套を頭から被ったままじっと辺りの様子を伺い続けている。こういう時の彼の忍耐力はずば抜けているな、と思う。じっと潜み、敵の隙を窺い、一撃で仕留めるーーそんな狙撃兵としての訓練の賜物だろう。
私は昨日話を聞いたアイヌの女たちの家を訪い、彼女たちの日々の暮らしについて聞き取りをしたり、縫い物や料理を手伝って親交を深めた。夕方には雨も上がったので、私はまた尾形さんの元へ戻り夜を迎えた。
そうして期限である三日目の夜明け前。緩く体を揺すられ目を開けた。
「なまえ、起きろ。行くぞ」
低く囁かれ、私は黙って頷く。いつの間にか尾形さんは自分の座っていたところに穀物の入った袋を重ね、外套を着せ掛け人形らしいものを作っていた。遠目から見る分には尾形さんが座っているように見えるだろう。…このために昨日一日、彼は同じような体勢で座り込んでいたのかも知れない、と思い至った。杉元さんのことを信じていなかっただけかも知れないが、用意周到なことだ。
しんと寝静まった村の中、息を潜めて谷垣一等卒の閉じ込められている檻へと近付く。近くにいる形ばかりの見張りは、大きないびきをかいて寝こけていて、起きる気配は全くない。檻には複雑な鍵は取り付けられておらず、大きな閂がかけられているだけだ。それを外し、谷垣一等卒を救出した。窮屈な空間に長時間籠められていた彼は、背を伸ばし首を回す。体を動かすのに合わせて、あちこちの関節がぱきぱきと小気味よく音を立てた。
「尾形さん、私はここに残ります」
「何故だ」
考えていたことを告げると、尾形さんは瞳をきゅっと収縮させ、短く聞き返す。黒い視線が鋭く突き刺さる。それを微笑んで受け流し、私は言う。
「囮になります。谷垣さんの逃走に気付けば、村人たちはすぐに追っ手を差し向けるでしょう。一旦逃げるにしても、どうせ私は足手まといになります。なので、私はここでお二人が逆方向へ逃げたと言って、少しでも時間を稼ぎます」
「そんな、みょうじさん……」
谷垣一等卒が厳つい顔を情けなく歪めて私を見る。私はそんな彼を励ますように、殊更明るく言う。
「大丈夫です。村の人たちとは仲良くしておきましたから、酷いことはされないはずです。…必ず、真犯人を捕まえて戻ってきて下さい。待っていますから」
そう告げれば、私の言葉に理を見た尾形さんの判断は早かった。
「……おい谷垣。こいつの腕を縛れ」
「尾形上等兵!」
「ほら、谷垣さん。早く」
ためらう谷垣一等卒へ用意しておいた手拭いを渡し、両手を後ろで交差して背を向ける。しばしの沈黙の後、大きな溜め息が聞こえて、覚悟を決めたようにぐるりと手拭いが手首に巻かれた。簡単に解けないよう、しかし血が止まらないよう繊細に力加減がされたそれからは、谷垣一等卒の優しさが伝わるようだった。
「なまえ、入れ」
私の腕が拘束されたのを確認して、尾形さんが檻を顎で指し、私は素直に中へと入った。すると後ろに尾形さんが近付いて来たので上を見上げると、口元に手拭いが巻き付けられた。…確かに騒がれないよう口を塞ぐのは当然のことだろう。きゅっ、と頭の後ろで布が結ばれたと思えば、耳元に尾形さんの顔が寄せられた。
「必ず戻る」
小声で告げられたそれにハッとして尾形さんの顔を見ると、いつになく熱を帯びた眼差しを向ける黒い瞳があった。私はそれに応えるように頷き、視線で早く行くように訴えれば、二人は檻の閂を下ろし、振り向きもせず足早に村を後にした。
白々と明けていく空を、檻の中で横になったまま眺めていた。先程、尾形さんに囁かれた言葉と送られた視線の温度で火照った頬を、朝の冷えた空気が鎮めていく。胸に渦巻く気持ちの正体から目を逸らしながら耳を澄ませていると、しんとしていた村の中がゆっくりと目覚める音が聞こえて来る。薪が焼べられる音、犬の鳴き声。「ちゃんと見張ってろ!」と叱りつけているのは、キラウシさんだろうか。彼は尾形さんの不在に気付いたらしく、アイヌ語で誰かを呼ぶ声が聞こえた。そして慌ただしくいくつかの足音がこちらへ近付いて来る。私は精一杯の演技力を発揮しようと気合を入れた。そしてそれらしい叫び声を上げる。
「ーーッ!!ーーーー!!」
「お、おいお前!あの男は…?」
檻の中に居るのが谷垣一等卒ではなく、村をふらついていた風変わりな女だと気付いたアイヌの男たちは慌てて閂を上げる。口を覆っていた布を外され、私は大きく息を吐いた。
「何故お前が檻の中に居るんだ」
「眠っていたら、急に縛られて……ここに入れられたんです」
目を伏せ声を震わせて言えば、男たちは可哀想に、と私に同情してくれた。
「奴らはどこへ行った」
「わかりません…あちらの方へ走って行ったのは見えました」
尾形さんたちが出て行ったのと反対方向の出口を示せば、彼らは素直に信じたようだ。男たちは声を掛け合い、幾人かが先行して走り出したのが見えた。
「酷い目にあったな。アイツらは俺たちが必ず捕まえる。お前は俺のチセで休んでいろ」
檻から出た私の腕の拘束を解いたキラウシさんが、労るようにふわりと頭を撫でる。私は騙したことに罪悪感を覚えながら、黙って頷いた。
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