雷火ひらめく 16.
大雪山の悪天候に阻まれたらしい27聯隊の追手の姿は無いままに、私たちは山岳地帯を抜け釧路湿原まで進むことができた。湿原に差し掛かり、ここまで来れば安心だろうとアシリパさんは杉元さんを伴って猟に出て行った。
「なまえも久しぶりにちゃんとした食事をしたいだろう。期待して待っていてくれ!」
そう笑顔で彼女は手を振って行ってしまった。私は白石さんと尾形さんと留守番だ。退屈そうにゴロゴロしている白石さんと、湿原の方を注意深く双眼鏡で覗いている尾形さん。私はその横で編集長へ宛てて手紙を書いていた。釧路へ立ち寄った時に、すぐに送れるように。夏らしい日差しはまぶしくて少し暑い。それでも、今まで私が知っていた夏の気候よりはずっと気温が低く過ごしやすい。
「なまえちゃーん、それって勤め先に送るの?」
青草の上に頬杖をついた白石さんが興味深そうに私を見て言う。
「そうですね。一応、今でも籍を置いていますしお給金も頂いていますから」
「へー!野営中もよく何か書いてたもんね、偉いねぇ」
白石さんは人懐っこい笑みを浮かべる。送られてきた分の原稿料は払う、と編集長が言ってくれているので、私は今でも新聞社の記者としてお給料を頂いている身なのだ。出来払いとは言え、何もせず籍を置かせてもらうのも気が引けるので、消息を報せる際に何かしら書いたものを送るようにはしている。
「…おい白石。コイツから金を借りようなんざ真似するなよ」
「わ、分かってるよそんなことしねぇよ……」
双眼鏡を覗いたままの尾形さんが呆れたような口調でそんなことを言えば、白石さんはあからさまに言葉を濁しそっぽを向いてしまった。その姿に、お金を借りようと思っていたのか、と私は苦笑してしまった。白石さんはどうにも憎めない人だ。杉元さんやアシリパさんが揶揄いつつも何かと世話を焼いているのもわかるな、と思う。
それからしばらくして、アシリパさんと杉元さんが戻って来た。手には大きな鶴を持っている。それを二人は捌き、鍋にしてくれたが、煮込まれるうちに周囲には独特の匂いが立ち始めた。
「泥臭いようなムッとする変な匂いだろ?」
「なんで丹頂鶴なんか獲ったんだ!」
「白石さん、獲って来てもらったんですから黙って食べましょう…。」
アシリパさんの言う通り、タンチョウヅルはなかなかにクセが強い。「マナヅルは美味いんだがなぁ…」とアシリパさんは残念そうにこぼす。独特の匂いに苦戦しながらも、私たちは腹を満たすために肉を口に運んだ。
食事を進める中で、ふとアシリパさんが杉元さんへ、何故金塊が欲しいのかと問うた。
「まだ言ってなかったっけ。戦争で死んだ親友の嫁さんをアメリカに連れてって、目の治療を受けさせてやりたいんだ。」
杉元さんは目を細めて言う。
ーー杉元さんが以前言っていた『親友の最後の願い』とはそれだったのか。私はひとり得心したが、そこに尾形さんが余計な一言を挟んだ。
「『惚れた女のため』ってのは、その未亡人のことか?」
驚いて顔を横に向けると、したり顔をする尾形さんが見えた。その向かいには、眉間に皺を寄せる杉元さんと、戸惑いの表情を浮かべるアシリパさんも見える。
彼のことだ、敢えて口に出したのだろうけれど、分かっていてそんな発言をする尾形さんに私は溜め息を吐く。そういうところがあなたが嫌がられるところですよ、と言ってやりたいが伝えたとしても改めることはしないだろう。つくづく難しい人だ。
「え、そうなの?」
白石さんが目を丸くして呟くが、杉元さんは何も答えない。この空気をどうしようかと逡巡していると、沈黙を破るように突然アシリパさんが立ち上がり、釧路に伝わるという鶴の舞を踊り始めた。「鶴食べたから…」と踊る本人は言うが、私は彼女の淡い想いを感じ取ってしまい、胸がじくりと痛んだ。胸にわだかまるその重みは、己の身にも覚えのあるものだ。それを吐き出すように再び嘆息すると、ふ、と横で尾形さんが笑う。私がじろりと見遣れば、男はなんだと問いたげな視線をよこしてきた。それが妙に腹立たしくて、その背中を力一杯小突いてやった。
私たちがそんなことをしている間に、一組の人影がこちらへ向かって来ていたようだ。
「ほら見てインカラマッ、やっぱりアシリパだッ!」
聞き覚えのない少年の声でアシリパさんの名前が呼ばれる。踊る彼女の姿が見えた、と湿原の向こうから現れたのは、アシリパさんと同じようなアイヌの服を着た女性と少年の二人組だった。インカラマッとチカパシと名乗った二人は、アシリパさんの知人らしい。彼女たちは谷垣一等卒と一緒に小樽からアシリパさんを探しに来たのだと言う。
…久しぶりに聞いた、谷垣一等卒の名前。どうして彼女たちは第七師団の兵卒と行動を共にしているのだろう。鶴見中尉の差し向けた追手かと勘繰るが、杉元さんにも尾形さんにもその類いの緊張感が見えないので違うのだろうと判断する。ならば、なお一層どうして、と思ってしまうが。ひとまず自分の疑問は保留にして、アシリパさん達の会話に耳を傾けることにした。
二人によると、谷垣一等卒は最近この辺りで起きている家畜や野生の鹿を惨殺し粗末に扱う事件の犯人と目されて、地元のアイヌ達に追われているという。……私の知る限り、谷垣一等卒はそういったことをする類の人間ではない。完全に冤罪だろう。
インカラマッさんの話によると、真犯人と思われるのは姉畑支遁という学者らしい。姉畑とは偶然行き合って共に野営をしたが、その際に谷垣一等卒は銃と弾薬を盗られたという。尾形さんはそれを聞きつけ「銃から離れるなとあれほど…」と小声で舌打ちしていた。
姉畑は囚人に学者がいるという白石さんの話とも、鈴川聖弘から聞き出した釧路に潜伏する囚人が居るという情報とも一致する人物像だ。男を捕縛することは谷垣一等卒を救うことにも、刺青の囚人探しにもなる。
「俺たちで真犯人をとっ捕まえて、阿仁マタギを助けに行こう」
杉元さんの言葉に、私たちは頷いた。
とは言え、釧路湿原は広い。今どこに谷垣一等卒と姉畑がいるのか、手掛かりは全くない。少しでも確率を上げるために、私たちは手分けして探索することになった。
「みょうじさ…」
「おい、なまえ行くぞ」
杉元さんの呼び掛けを遮り、尾形さんは私の腕を引きさっさと歩き出す。背後の杉元さんが憤慨しているが、足は止まらない。有無を言わせず進む尾形さんに引きずられるように、私は小走りで着いていくしかなかった。『お前は俺の側に居ろ』と言われ、私もそれに曲がりなりにも同意したわけなので文句は言えないが、少し強引では無いだろうか。……彼の言葉足らずは今に始まったことではないが。
「尾形さん、当てはあるんですか?」
「そんなもんあるか。まあ、適当に進んでりゃ銃声のひとつでも聞こえるだろうよ。」
歩きながら問いかけてみれば特に感慨も無い調子でそう返され、私は長期戦を覚悟した。
森の中は鳥の声や動物の鳴き声がするほかは静かで、そこに私たちが草を踏む足音が小さく響く。時折休憩を挟みつつ、私は黙々と尾形さんの後に続いた。
「…銃声だ。10時の方向か」
「私にもそちらからのように聞こえました」
「行くぞ、走れ」
遠くから聞こえた発砲音に、尾形さんが反応した。走れと命じられ、遅れながらも懸命についていく。しばらく行くと川沿いに出た。そこに幾人かの人影が見える。大柄な影が数名に囲まれて殴られているようだ。それを認めた尾形さんは銃を構え、空に向けて威嚇するように発砲した。その音に男たちの暴行の手は止まり、全員の視線がこちらへ集まった。
「久しぶりだな、谷垣一等卒。」
「尾形上等兵!!……それに、みょうじ、さん?」
アイヌの男たちに殴られるまま抵抗していなかったのは、やはり谷垣一等卒だった。彼は尾形さんと後ろで荒い呼吸をする私の姿に驚きを隠さなかった。そんな谷垣一等卒へ向けて、尾形さんは辛辣な言葉を投げつける。
「谷垣、貴様は小樽にいたはずだ。何をしにここへ来た?…鶴見中尉の命令で、俺を追ってきたのか?」
内容如何によってはすぐに銃の引金を引きそうな空気をはらませた尾形さんへ、谷垣一等卒は真剣な目で訴える。
「俺はとっくに降りた!軍にもあんたにも関わる気はない。世話になった婆ちゃんの許に孫娘を無事に帰す。それが俺の『役目』だ」
彼の必死な表情は嘘をついているとは思えない。谷垣一等卒はインカラマッさんたちが言っていたように、本当にアシリパさんを探すために小樽から来たようだ。彼が追っ手で無かったことに私は安堵したが、尾形さんは張り詰めた空気のままだ。黒い瞳を眇め、皮肉な笑みを浮かべながら不遜な態度で言う。
「頼めよ。『助けてください尾形上等兵殿』と」
「あんたの助ける方法なんて…あんたはこの人たちを皆殺しにする選択しか取らないだろう。手を出すな!!ちゃんと話せば分かってくれる」
「ははッ、遠慮するなって」
そんな二人のやりとりをアイヌの男たちは唖然として眺めていたが、はっと気付いたようにこちらへ銃を向けた。途端に横からざっと殺気立った気配が流れ込んできた。
「俺に銃を向けるな、殺すぞ?」
「尾形さん、彼らは敵ではありませんから…」
谷垣一等卒へ向けていたのとはまた違う種類のーー情も何もない純粋な殺意が尾形さんから放たれ、私は冷や汗を流しながら彼の銃を下げさせる。ここで罪もない一般人を殺めても、何の利も無く、彼の品位が下がるだけだ。…きっとそんなこと、尾形さん自身は気にもしないのだろうけれど、私は彼にそうして欲しくなかった。一瞬絡んだ視線は、私の行動を訝しむ色をしていた。
そうこうしている内にアイヌの男たちの中で一旦の意見がまとまったらしく、谷垣一等卒は村へと連行されることになってしまった。彼の処遇はその後検討されるらしい。仕方なく私たちもそれに同行することにする。…どうすれば谷垣一等卒を救い出せるのか。道すがら考えてみるが、私には何の案も浮かばなかった。
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