飛花追想記/殉情録 | ナノ

雷火ひらめく 15.




軽く肩を揺すられ、薄目を開ける。辺りは暗い。一瞬自分がどこにいたのか分からずぼんやりしていると、厚い手のひらで口を押さえられ一気に目が覚めた。
「しーっ」
上げようとした声は手の中に吸い込まれ、代わりに耳元で尾形さんの密かな声がした。
「外に何かいる。声を出さずじっとしてろ」
囁かれた言葉に頷くと、ようやく彼の手が私の口元から離された。尾形さんは入口を塞いでいた私の背嚢を動かして、そろりと外へ這い出た。言われたように静かに聞き耳を立てていると「嘘だろ…」と尾形さんが呟く声が聞こえた。
「尾形静かにッ」
アシリパさんの声も聞こえる。一体何があるのか。どうすればいいのか戸惑っていると、尾形さんが入口を開き、手招きする仕草をした後、唇の前に指を一本立てた。妙な緊迫感の漂うそれに、私は恐る恐る鹿の腹から抜け出る。外の明るさに目が眩み、何度かまばたきをした後、視界に飛び込んで来たのは無数の熊の姿だった。
「……ッ!!」
喉元まで出かかった悲鳴を何とか堪え、私は目を剥く。私たちが避難所としていたエゾジカの匂いに誘われたヒグマたちがのそのそと歩み寄って来ている。幸い、私と尾形さんは一番熊たちから遠いところに居たが、それでも至近距離と言って過言ではない。
「白石が持って行かれる!!」
杉元さんの声にそちらへ顔を向けると、顔だけを鹿の体から出した白石さんがその肉ごとヒグマに引き摺られて行きそうになっているのが見えた。横の尾形さんが銃を構えようとするのが見えて、ハッと息を呑みそれを静止した。この囲まれた状況で銃を撃てば、私たちは今度は熊の腹に収められることになるだろう。それに銃声を聞いた追っ手が来ないとも言えない。手をこまねいていると、白石さんが鹿の中からこぼれ落ち、何故かオギャアと鳴いた。その声に驚いたのか、熊たちが尻込みした。
「なぜかひるんだッ」
「ゆっくり立ち去るぞ、慌てるな……!!」
「ええ?なんでこんなにヒグマが?」
私たちは熊を刺激しないよう、ゆっくりと退散する。ひとり状況の読めていない白石さんだけが、緊張感の薄い声で感想を洩らしていた。

「アイヌは大雪山をカムイミンタラと呼んでいる。『ヒグマがたくさんいるところ』という意味だ。シカの肉は残念だけど諦めよう…」
ヒグマたちの集団から離れながら、アシリパさんは無念そうに言う。確かに白石さんの救出作戦からこちら、ほぼ何も食べていない。言われると急に空腹を意識してしまうのは人間の性だ。しかしそれを、一番のお荷物で獲物を獲る術も持たない私が口に出すことは憚られたので、心の中に留めておく。
そして空腹なだけでなく妙に体が軽いなと思ったが、自分の荷物を持っていないせいだと気付いた。慌てて周囲を見れば、尾形さんが私の背嚢を肩に引っ掛けていた。予想外の状況にすっかり失念していたが、回収しておいてくれたらしい。
「あの、尾形さん、荷物…」
「あ?ああ」
「ありがとうございました、助かりました」
礼を言い受け取ると、彼はほんの少しだけ目を細めて笑う。それは、他の人が見ても分からないくらいの変化で。…そんな僅かなことに気付いてしまうくらい、私は尾形さんのことを見ているのか。そう思うと、不意に心臓が跳ねて痛んだ。
「…みょうじさん、大丈夫?疲れた?」
私が胸を押さえ首を傾げているのを目に留めたらしい杉元さんが、心配そうに声を掛けてきた。彼の目は少し茶色味がかかっていて、陽射しに柔らかく瞳が輝く。尾形さんの夜の闇のような目とは対照的だ。
「な、何でもないです大丈夫です…」
「そう?なら良いけど…。辛かったら無理せず言ってね、俺荷物持つし」
「怪我人に自分の荷物を持たせるなんて出来ませんよ」
苦笑しながら答えると、杉元さんは「俺は頑丈だから。怪我もすぐ治るし」と白い歯を見せて笑った。
「そう言えば昨日、尾形に変なことされなかった?」
「変なこと、って」
「いや、何もないなら良いんだ。だってほら、狭かったでしょユクの中……」
杉元さんが顔を寄せ小声で問うてきた内容は、口籠もって最後の方は言葉になっていなかった。言ってしまってから、何故か彼は頬を赤らめ、私から視線を逸らす。確かにそれなりの歳の男女が身を寄せ合って夜を過ごすなど、色事を心配されるのも当然かと思う。…あんな、捌かれた獣の腹の中でなければ、の話だけれど。
「そんな、杉元さんが心配されるようなことは何もなかったですよ」
「そ、そうだよね!ごめんねぇ変なこと言って」
照れながら杉元さんは謝り、そのまま足を早めて前を行くアシリパさんの隣へと戻っていった。入れ違いに後ろを歩いていた尾形さんが私の隣へとやって来た。視線を感じて横を見れば、よく分からない表情を浮かべたまま私を見る夜の瞳と目が合った。無言でひたと見つめられ、居心地悪く身じろぎしてしまう。
「なぁに、尾形ちゃん怒ってんのぉ?」
くるりと振り返った白石さんが、そんな尾形さんの顔を見て軽い口調で問いかける。すると尾形さんはふいと顔を逸らし、小さく舌打ちしていた。その様子に白石さんは笑いながら私へ肩をすくめてみせた。

私たちはそのまま南の方へと進路を取った。
「追っ手は俺達が網走方面へ下山すると読んでるはずだ。意表をついてここは十勝方面へ下山して追っ手を撒くついでに…釧路へ寄るのはどうだろうか」
そう杉元さんが提案したからだ。釧路には刺青の囚人が潜んでいると、詐欺師の鈴川聖弘が言っていたのだという。危険を犯して網走へ直行する利点は薄いと判断し、私たちはその情報を追うことにした。
山を歩いていると見慣れぬ草花が多く見られる。標高が高いところに生えるものなのだろうそれらは、アシリパさんにもあまり馴染みのないものらしい。いくつかの花を採集して、手帳の間に挟んでおいた。時間が出来たら調べてみよう、と。
小休憩を取っているところでアシリパさんが何か作業をしていた。
「変な鳴き声のエルムがいたから、山杖を削って罠を作った」
杉元さんが何をしているのかと問えば、アシリパさんは元気に答える。手際良く仕掛けられた罠に、あっという間に獲物がかかる。彼女の手には、石の下敷きになった大型のネズミのような獣があった。本当に、アシリパさんの生きるための知識は見事なものだと思う。下山したら焼いて食べよう、と笑う顔を見ていると、こちらまで明るい気持ちになれた。
「なまえもこれがどんな味か気になるだろ」
「え、ええ、そうですね…」
涎を垂らさんが勢いで聞かれ、また脳みそを生で食べさせられるのかと思い、少し引きつった笑みを返してしまう。それには気付かなかったらしいアシリパさんは、機嫌良く別の罠を確認しに行った。
銃を使わずに猟をするのはアシリパさんが居なくては出来なかっただろう。少ない獲物を分け合いながら、私たちは旅路を急ぐ。追われているかもしれないと言う緊張感はあれど、道は概ね順調だった。白石さんがマムシに咬まれたり、アイヌの伝承にある巨大な蛇に遭遇したりはしたが。…あれは、本物の蛇だったのだろうか。今となってはわからない話だが、丸太ほどの太さもある蛇など聞いたこともない。夢か幻か。それとも多くのカムイが息づくこの大地では、空想のような大蛇も生きているのだろうか。
この旅では思いもかけないことや知らないことが日々現れ、私の好奇心を刺激する。命懸けの旅なのに、不謹慎にもどこか楽しく思えてしまう。生きている実感を得られる毎日に、私は満足していた。

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