雷火ひらめく 12.
白石さん救出作戦の決行日がやってきた。実際に潜入する杉元さんと鈴川以外の者は、打ち合わせ通りに分散して師団本部の周辺に潜伏した。私は戦力にはならないが、多少なりとも土地勘がある者だということで、尾形さんと共に27聯隊の兵舎近くの林に潜むことになった。下手にひとり置いて行かれるよりは良いが、有事の際足手まといにならないだろうかと考えてしまう。尾形さんが双眼鏡を構える木の下で、ただ作戦の成功を祈るしかないのがもどかしい。
作戦の手筈は、犬童に化けた鈴川が第七師団の聯隊長である淀川中佐に面会し、贋作師である熊岸長庵と白石さんを交換させる交渉をする、というものだ。精巧に作られた贋札とその原板をちらつかせ、敵国の贋作紙幣をも作り出せる熊岸の存在を匂わせれば、手柄を欲する淀川中佐は落とせると鈴川は豪語した。熊岸は既に土の下なのだが、それは上手く言い包める自信があるのだろう。
そんなことを思い返しながら落ち着きなく周囲を警戒しているが、付近には人影もなくひっそりとしている。……冬に来た時には、この辺りは一面の銀世界だった。林の向こうに見える道は、鯉登少尉に案内して頂いた時に歩いた道だ。あの時はこんな形で再訪することになるとは思ってもみなかった。そもそも、鶴見中尉の造反の話から、アイヌの金塊を巡った争いに巻き込まれるとは予想もしなかった事態なわけでーー。
「まずいぞこれは」
不意に頭上の尾形さんが声を発した。ハッと顔を上げると、双眼鏡を構えたまま尾形さんは言う。
「鯉登少尉が慌てて入っていった」
「えっ…と言うことは、杉元さんたちは……」
つい先程思い出していた人の名前が飛び出し、私の心臓がどくりと鳴る。その次の瞬間に、尾形さんの銃が発砲され、その音にまた肩を跳ねさせてしまう。
「撤退だ、走れなまえ!」
「は、はい!」
樹上から滑り降りてきた尾形さんに手を引かれるままに走り出す。北側に脱出用の馬を手配したキロランケさんたちがいるはずだ。しかし、その方向から銃を構えた兵士が走り寄って来るのが見え、私たちは方向転換せざるを得なかった。
「失敗したの、土方さんたちに、伝わりましたかね…」
「さあな、だが、これだけ騒ぎになってんだ…向こうには馬もある」
建物の間をすり抜けながら、尾形さんに引っ張られるようにひたすら駆ける。飛び出した先に見慣れた二つの影が見えた。杉元さんと白石さんだ。
「杉元こっちはダメだッ、南へ逃げろ、あっちだッ」
近づいて来る二人へ、尾形さんが大声で指示を飛ばす。私はもつれそうになる足を動かすことに必死だ。
「さっきの銃声で蜂どもがあちこちの巣から飛び出してきた!」
尾形さんの言うように、紺色の軍衣姿の兵士たちがそこかしこの建物から湧き出て来るのが見える。
何とか白石さんを救出し、杉元さんと合流出来たことに私の心の重石がひとつ消えた。しかしこの状況は、手放しで喜べるようなものでは全くない。杉元さんは、白石さんに半ば体を預けるようにして走っている。見ればかなりの出血があるようだった。体を押さえる手の間から鮮血が散っている。…鈴川が居ないのは、推して知るべき結果なのだろう。
「杉元が撃たれちまった」
「不死身なんだろ?死ぬ気で走れッ」
「無理だッ、こんな傷の杉元が走り続けられるわけねえッ」
白石さんと尾形さんが走りながら応酬する。私は着いて行くのに精一杯で、杉元さんも傷が深いのか言葉を発せず、荒い息を吐きながら懸命に走っていた。どうすればこの窮地を脱せるのかーー。当初の逃走予定とは真逆の方向へ駆ける私たちの前に、見慣れぬ白い物体が見えてきて、白石さんが驚きの声を発した。
「何だありゃあ!!」
「気球隊の試作機だ!!」
練兵場の奥の空き地に、それはあった。
白い楕円形の物体が、走り寄る間にも膨らみを増していく。偶然にも宙へ浮かび上がり始めていたそれが、この土壇場を救ってくれるものだと私には輝いて見えた。
「あれだッあれを奪うぞッ」
私以外の三人も、ここから脱出するには空を行くしかないと考えたようだ。白石さんの一声を皮切りに鬼気迫る形相でそれに近付き、銃を向け整備をしていたと思わしき工兵を威嚇し蹴散らしていく。
「全員下がれッ!もっと離れろ!」
外套を目深く被った尾形さんが、銃を向けたまま鋭い声で周囲の兵士たちへ命令する。その横では血を流した杉元さんが爛々と目を光らせる。私たちを囲む兵士たちは、二人のぎらぎらと熱を帯びた気迫に尻込みし、数で押し切ることも出来ず二の足を踏んでいた。その隙に白石さんはするりと船体部分へ乗り込み、気球を膨らませる作業をしていた兵士を脅していた。
「みょうじさん、早く乗って!」
「は、はいっ!」
杉元さんに呼ばれ、私も飛行船へと乗り込んだ。
「なまえちゃん、こっちこっち」
白石さんに手招かれ、飛行船の中央へと移動する。気球部分がほぼ膨らみ切ったことを確認し、白石さんは容赦なく工兵を船から突き落とした。船底はゆらりと地上から離れ、するすると宙へと浮かび上がっていく。それを何とか押し留めようと、無数の兵士が蟻のように群がって来るが、尾形さんと杉元さんが容赦なく叩き落としていた。
これで逃げ切れるか、と一息つきかけたその時。地上を猛烈な勢いで駆ける一人の男が見えて、そちらに意識が集中する。男は手にした拳銃を投げ捨て、別の男が手にしていた軍刀を奪い取り、群がる兵卒を踏み台にして浮上しつつある飛行船に飛び乗って来た。見覚えのあるその人から、私は少しでも姿を見られぬようあわてて顔を伏せた。浅黒い肌に切長の鋭い瞳。怒りに寄せられた特徴的な眉。……鯉登少尉だ。
飛行船はぐんぐんと高度を増し、なめらかに宙を行く。不安定な足場に私は身を竦ませるが、私以外の男たちはそんなことは歯牙にも掛けていない様子だ。
「銃剣よこせ、俺がやる」
いつの間にか歩兵銃を手にしている杉元さんが、尾形さんに手を出す。
「自顕流を使うぞ、2発撃たれた状態で勝てる相手じゃない」
そう言いながらも尾形さんは、自分の銃剣を抜き、杉元さんへ手渡した。銃弾が気球に当たる可能性や引火する危険性を考えれば、銃は使えない。白兵戦を得意とするらしい杉元さんへ獲物を渡すことは正しい判断だろうが、彼は今重傷を負っている。
二人のやり取りを目にした鯉登少尉は、尾形さんの存在に気付いたようだ。何やら早口の薩摩弁でまくし立てているが、全く聞き取ることが出来ない。そんな鯉登少尉へ尾形さんが追い討ちをかける。
「相変わらず何を言ってるかサッパリ分からんですな鯉登少尉殿。興奮すると早口の薩摩弁になりモスから」
「…尾形さん、煽ってどうするんですか」
「お前が相手してやるか?なまえ」
「ん!?なまえ…?その声は、なまえさんか……?」
しまった、と息を呑んだが最早後の祭りだった。尾形さんが私の名を口にしたことと、思わず声を出したことで、鯉登少尉が私の存在に気付いてしまった。私を指差し、尾形さんへ向けてわあわあと何事かを口走った後、軍刀を振り被り杉元さんへと切りかかった。薩摩の自顕流は初太刀が重い、一撃必殺の剣だと聞く。力強い一振りが杉元さんの構えた銃剣を抉る。その後も凄まじい勢いで振り下ろされる軍刀に、杉元さんは防戦一方の様子だ。
「お、尾形さん何とかならないんですか…っ」
震える手で尾形さんの腕を掴み訴えるが、尾形さんは銃を構えたまま思い惑っているようだ。撃った結果、せっかくの脱出手段を失ってしまっては元も子もないのだから当然だろう。
ふと足元でごそごそと動く白石さんの気配を察して、私は彼の方を見る。白石さんは長い縄を自分の腰に縛り付けていた。
「なまえちゃん、ちょっとこれ、ここんとこにしっかり結んでくれないかな。急いでっ」
「えっ…はい、わかりました」
渡された縄のもう片方を、言われた通りに船の骨組みに巻き付け、結び付ける。それを見た尾形さんが「変われ、それだと解ける」と私から縄を取り上げて、手早く固定した。
「白石さん、どうされるおつもりですか」
「んー?ちょっと見てて!」
片目を瞑り、ぱちりと星を飛ばしたかと思えば、白石さんは狙いを定めたように飛び出した。あっ、と私が声を上げた瞬間には、白石さんの蹴りが綺麗に鯉登少尉へ入っていた。意表を突かれた鯉登少尉の体は飛行船から中空へと落ちていく。遠ざかっていく鯉登少尉が、伸ばした手が、唖然とした顔が、私の網膜に焼き付く。
「あはははっ、アバヨ鯉登ちゃん!」
青空に響く鯉登少尉の叫び声と、それを笑い飛ばす白石さんの声。
「シライシ木に突っ込むぞぉ!」
杉元さんの呼び掛けも遅く、命綱で宙にぶら下がったままの白石さんは林の中へ吸い込まれて行った。バキバキと枝が折れる音と、「痛っ」「痛ででッ」と漏れる白石さんの悲鳴が木々の隙間から聞こえる。そうして、林を抜けた時には宙ぶらりんの白石さんの上に仁王立ちするアシリパさんの姿があり、私は驚きと安堵でへたり込んでしまったのだった。
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