飛花追想記/殉情録 | ナノ


閑話:未だ知らず

※単行本未収録の話の内容を含みます(304話)


牛山が「今夜は戻らない」と言ったその日の夕方。銭湯で土埃を落とし潜伏先の小屋へ戻ったなまえは、ひとり落ち着かなく土間で夕餉の支度をしていた。
(う、牛山さんがあんなこと仰るから…!)
火を入れた竈の前で、なまえは項垂れる。頬がやけに熱いのは火の前に居るからだけでは無い。そもそもそれなりの年齢の男女がひとつ屋根の下、二人っきりなんて。これまで何とも思っていなかったことまで妙に意識してしまう。あれこれと思いあぐねていれば、竈に置いた鍋が吹きこぼれそうになって、慌てて蓋を取る。頭を冷やそう、と外の空気を吸おうとすると、がらりと引戸が開き眼前に見慣れた軍服が現れた。
「お、おっ帰りなさい…、」
変に慌てたなまえを怪訝な表情で見下ろして、尾形はそのまま土間へ進み、空いた桶に鳥を入れた。
「あ、また撃ってきて下さったんですね」
「…ああ」
綺麗に羽をむしられ、血抜きもされた鳥を見てなまえは弾んだ声を上げる。ーー昨日は焼き物にしたので、今夜は鍋にしましょうか。牛山さんは今日は留守にされるそうですよ。炭鉱の取材は無事終わりました、とても興味深かったです。…何くれとなく話しながらなまえは調理を進める。そんな女の様子を尾形は上り框に腰掛け、黙って眺めていた。
「…鳥鍋か」
「え?お嫌でした?」
「いや……」
ぽつりと尾形の口から落ちた一言に、彼から感じ取ったことのない感情が含まれていることに気付いたなまえは、手を止めじっと次の言葉を待つ。
「ガキの頃、良く鳥を撃って帰った。…おっ母に」
じっと己の手元を見たまま、尾形は言った。上げられない視線は薄暗い。初めて聞いた男の母の話。そこには郷愁と思慕と、得体の知れない闇が秘められていた。
「……そうでしたか」
なまえは否定も肯定もせず、ただその話を聞き入れた。そしてまた、黙々と手を動かした。

師団の兵舎に出入りしていた時に、尾形の父母の噂はなまえも何度か耳にしたことはある。父は第七師団の元師団長、母は浅草の芸者。いわゆる妾腹の子だという下世話な話だ。当人から聞いたわけでもなし、さして気に留めもしていなかったが、先程彼が落とした呟きには、簡単に他人が手を出してはいけない想いが含まれているように聞こえた。尾形は自分が呟いた言葉にも気付いていないようで、光のない遠い目をしたままだ。そうでなければ、自分の母のことを他人の居る前で『おっ母』などと呼ぶ男ではないだろう。それもあんな、胸の痛むような響きで。
料理を終えたなまえは、腰掛けたままじっと動かない尾形の側へと寄る。そして膝を折り、彼の肩にそっと手を置き話しかける。
「…尾形さん。支度が出来ました。お食事にしましょう」
「……ああ」
ゆっくりと浮かび上がった男の目の焦点が合い、薄く光が灯る。それを見てなまえは淡く微笑んだ。もう大丈夫そうだと立ち上がろうとすれば、緩く手首を引かれた。え、と驚いた顔で座る男を見れば、尾形自身も己が何をしているのかよく分からないといった表情を浮かべていた。
「あの、尾形さん、手……」
しばらくしても離されることのない掌の感触に、なまえは戸惑いながら声をかける。何となく、それを自ら振りほどくことは出来なくて。呼び掛けられて初めて気付いたように、尾形はそっと手を離した。

二人は黙って囲炉裏に向かい合い、鍋をつつく。暖かい湯気の向こう、黙々と箸を動かす尾形の表情は、いつもと変わらないーー普段通りの感情の読めない顔だ。いつもなら彼と食事をする時の沈黙は不快ではない。しかし今夜は、先程の彼の様子が脳裏から消えず、なまえは何か話をしたい気分だった。黙っていると、あの自分には触れることのできない暗闇に男が絡め取られてしまうのではないかと思えて。
「お味はいかがですか」
「……こんなもんだろ」
「尾形さんの、郷里の味付けはどんな風なんですか」
「…あ?」
手元の椀に注がれていた視線がぎらりと跳ね上がり、なまえの目を射抜く。あまり触れられたくない話題だと言うことは察したが、なまえはそれを無視してしっかりと尾形の目を見て言う。
「教えて欲しいです。今度作りますから」
「お前は何でも知りたがるな」
「何でも、ではないです。私が知りたいのは、興味のあることだけです」
半ば呆れたように眇められた視線を真正面から受け止めて、真剣に言葉を返す。
「……興味のあること、か」
「はい。だから、……っ」
言いさしたまま、なまえの声が宙に浮かぶ。口に出して初めて、自分がこの何事においても真意の読めない男に対し、他とは違う興味を抱いていることに気付いてしまった。この気持ちは何なのだろう。ただの好奇心なのか、牛山の言葉に影響されて揺れているだけなのか、それとも。
「だから、何なんだ」
突然黙り込んでしまったなまえに痺れを切らした尾形が、やや苛立ちを含んだ声で言うが、なまえはどう気持ちに整理をつけて良いのか分からず、続ける言葉を見失ってしまったままだ。
「…また今度、教えてやるよ」
珍しくおろおろと彷徨い続けるなまえの視線に諦めたのか、ため息混じりに尾形は告げる。それを聞いたなまえは安堵の表情を見せて、はい、と小さく微笑んだ。
そうしてまた、二人は静かに食事を進める。小屋の中には今度は暖かい沈黙が満ちて、夜は更けていく。

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