序:楽園の枯葉の下
初めて降り立った北の大地は、本州とは全く違う気配が漂っていた。まだ初秋と言うのにきりりと冷え込んだ朝の空気には、どこか神聖な雰囲気が含まれている。私はこれからこの地で何を見て、何を感じ取り、どんな文章を書くことになるのだろう。期待感と、少しの不安に身を震わせ、舶来物の襟巻きをしっかりと首に巻きつけた。
函館からは列車で小樽へ向かう。窓の外に広がる景色も、東京とは全く異なっている。書物でしか知らなかった世界がここにあることに、興奮を禁じ得ない。
車窓を流れる景色をぼんやりと眺めながら、私はここに至るまでのことを思い出していた。
私は東京で生まれ育った。
母は資産家の末娘で、体が弱かったせいもあり、随分と可愛がられて育ったらしい。控えめで貞淑、絵に描いたような深窓の令嬢だった母が唯一譲らなかったのが父との結婚だったそうだ。
父は士族の出だが、それこそ名ばかりで実際は大変に困窮していたらしい。大黒柱である祖父が早逝してからその状況は加速した。文武両道に秀で、自身も学問を修めたいと考えていたらしい父が「給料を貰いながら勉強ができる」という触れ込みの陸軍士官学校へ飛び付くのも自然な流れだったようだ。
父と母は、父が士官学校を出てしばらくして出会ったと聞く。母はその時まだ女学校へ通っており、貧血を起こし道端で半分気を失っていたところに通りすがり、介抱したのが父だったのだという。…そんな『少女世界』にでも載っていそうな出会いから交流が始まり、紆余曲折を経て結婚し、私が生まれた。
当初は二人の結婚に当然ながら良い顔をしていなかったらしい母方の祖父も、父が誠実で軍人としても大変に優秀であったことと、孫娘が出来たことですっかり絆されたようだ。今では私の良き理解者として、強力な後ろ盾となってくれている。元々病弱だった母が出産後数年で亡くなり、父も日清戦争へ出征し戦死してしまったが、父の遺言である「なまえを自由に、したいように生きさせてやって下さい」という言葉を守り、好き勝手させてくれている。そうでもなければこんな歳まで嫁にも行かず新聞屋として働き、挙句単身北海道へ行くという荒唐無稽な行動を許してはくれないだろう。
…最も、この北海道行きには祖父も一枚噛んでいるような気がしてならないが。今は事業を長男に譲り、隠居の身として好々爺然としているが、未だ政財界へ幅を利かせているのは公然の事実だ。私が東京で高等女学校を卒業した後に、女の身ながら新聞社に勤められたのも、半分以上私が『立花の孫娘』であることに寄っていることは分かっている。そしてこの北の地で与えられた任務も、その肩書きがあってこそのものだと言うことも。
「これは確実な筋からの話なんだがね…大陸から引き揚げてきた陸軍第七師団の一部の動向が不穏らしい。随分と切れ者の中尉がいて、その男が中央に謀反を企てているとか。これが本当ならば、帝国陸軍全体を揺るがす大事件になるかも知れん。是非とも我が社の独占記事としたいが…東京から北海道はいかんせん遠い。そこで、だ。信頼できる者をうちから北海道の新聞屋に送り込んで、直接取材に当たってもらおうという話が出たんだよ。」
「……それを、私に?」
あれは夏の終わりのことだった。新聞社の重役に呼び出され、唐突に切り出された話に私は目を丸くした。しかめつらしい顔をして、目の前の男は口髭を捻りながら頷く。
「既に中央からは、件の聯隊に何人か間諜が送り込まれてもいるそうだ。みょうじ君はなかなか良い記事を書くようになってきているとも聞いているし、向こうも君のようなうら若い娘が探りを入れに来るとは思わんだろう?それにほら…君は、何かと顔が利くだろうし……」
私の背後にある影におもねるように男は言う。結局、私が女であることと『立花の孫娘』であることを利用しようとしているだけか、と内心嘆息する。それでも、これは私にとって大きな機会であることには違いない。ただの資産家の孫娘の道楽ではないのだと証明する、またとない機会。
「ご事情はわかりました。私としてもそのお話には大変興味がございます。しかし、祖父や伯父たちが何と申しますやら……。」
「そこは任せなさい、これは重大なことだからね。君のお祖父様やご親族にはうちからだけでなく、今日にも本筋の方からも嘆願が上がるはずだよ。」
私がしおらしく目を伏せて見せると、にこにこと笑いながら重役は了解してみせた。本筋、ということは陸軍までもがある程度この話に乗り気だと言うことだ。この話は決まったも同然だな、と私は胸を高鳴らせた。
そんなわけで私の北海道行きは突然に、しかし速やかに話が進んだ。祖父も伯父たちも、家に出入りする女中や商人たちも、良い顔はしなかったが反対はされなかった。
「良いかいなまえ、決して無茶はしてはいけないよ。お祖父様や私たちを悲しませるようなことはしないでくれ、約束だ」
「分かっていますよ大伯父様。素敵な外套に洋服までご用意いただいて、ありがとうございます。」
「困ったことがあればすぐに言いなさい。お祖父様へ手紙を出すことも忘れずに」
「はい、わかりました伯父様。」
「お嬢様が行かなくても良いんじゃないですか」
「心配してくれるのね、ありがとう。でも私を頼って下さっているんですから、ご期待に応えるように努めたいのです」
「なまえさんがいらっしゃらなくなると、立花の家も寂しくなりますなぁ」
「行き遅れの変わり者が居なくなってスッキリするだけですよ。変わらずご贔屓にお願いしますね」
出立前、嵐のように人が入れ替わり立ち替わり挨拶にやって来る。これだけ惜しまれてしまうと、流石に感傷的になってしまうな…と思いながら、笑顔を崩さず応対する。『立花の孫娘』として望まれる顔の仮面を被って。
「お祖父様。出発前のご挨拶に参りました」
最後に祖父の部屋へ顔を出す。指を付き、頭を下げると祖父はしばらくの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「… なまえ。儂は紗世子が長く生きられなかった分、お前には存分に世を謳歌して欲しいと思っている。お前の父である周君にも、そう託された。それがまさか、こんな形で家から出すことになろうとは……。」
「……申し訳ございません。」
「謝ることはない。儂も同意したのだからな」
そう言い、祖父は側の火鉢から煙管を手に取った。緩く煙を吐きながら、しばし逡巡する様子を見せた。
「お前が男なら、もっと生きやすかったのだろうな」
ぽつりと零した言葉には憐憫の念が滲む。私は首を振る。私は祖父からも伯父たちからも、十分過ぎるほどのものを与えてもらっている。これ以上を望むのは贅沢と言うものだ。例えそれが、私に亡き母の面影を追っているからこその恩恵や愛情だとしても。
「北鎮部隊の件の中尉は、階級こそ低いが相当な男らしい。十分に用心するように。」
「はい。…あの、お祖父様。中央から送り込まれているという方々のお名前などは分からないのでしょうか。」
「それは儂にも分からなんだ。継続して探りは入れてみるが、流石に口を割ることは無いだろうな」
そうですか、と私は頷く。
「お前は夢中になると周りが見えなくなるきらいがある。何だったか…前に西洋の諺を言っておったな」
「好奇心は猫を殺す、でしょうか」
「それだ。使命感を持ちすぎず、己の身を案ずることを忘れないように。儂の寿命を縮めるようなことはしてくれるなよ。」
「はい、お祖父様。」
そうして私は、一路北海道へと向かったのだった。
札幌を経由して小樽へ。話題の中尉殿は旭川ではなく、ここに兵舎を構えているらしい。そのため、私もこの小樽の新聞社へ席を置くことで話が付いている。そして祖父が昔世話をしたという方がここに住んでいるとのことで、私はその家の離れを住居として借りることになっている。…これらは全て祖父と大伯父の手配だ。他にも私の知らないところで、私が無茶をしないように手を回しているのだろう。
借家へ向けて大通りを歩いていると、早速件の聯隊番号の肩章のついた軍服姿の兵隊がいた。せっかくなので話し掛けてみることにする。
「すみません、この辺りに大きな呉服屋があると聞いたのですが。この道で合っていますでしょうか?」
「……この道を真っ直ぐ行け。三町先の角にある」
「ありがとうございます、助かりました」
銃を下げた男は、無愛想ながらも丁寧に教えてくれた。私は愛想良く笑みを浮かべ、頭を下げて男の前を立ち去った。
「綺麗な女だったね。身なりも良いし、どこの娘だろうね?あまり見ない感じだったけど。」
「……さあな。」
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