閑話:薄紅色の花と影
茨戸から拠点を移して数日。日泥一家の元で小競り合いに参加していたことがもう遠い昔のようだ、と夏太郎は思う。今までは特段の忠誠心などなく、ただ何となく流れに乗って亀蔵共々日泥家に抱えられていた。片田舎で生活するには足りる金を日泥から貰ってはいたが、それ以上のものはなかった。
それがあの全面抗争の中現れた土方歳三によって、夏太郎の世界は変わってしまった。『この人のためなら』そう心から思い仕えられる人に出会えた。土方が何を為そうとしているのかはまだ良く分からなかったが、彼のためになるのなら、薪割りや炊事といった雑用にも身が入る。
「ああ、夏太郎さん。少しお話良いですか」
汗を拭き、割った薪の上に腰を下ろしていたところへみょうじが姿を現す。柔らかい笑みを浮かべた女は、夏太郎の周囲には今まで居なかった類の人種で、少し緊張してしまう。小樽の新聞記者だと土方から紹介された通り、彼女は先の日泥と馬吉の一連の争いについて記事を書くとのことで、すでに何度か話を聞かれていた。
「なまえに聞かれた内容には素直に答えてやれ」と土方に言われているため、夏太郎は問われるままに訥々と答える。女はひとつひとつの受け答えに小さく頷き、相槌を打ち、手にした紙片へ何事かを書き付けていた。俯いた顔に耳に掛けていた前髪がぱらりと落ち、影を落とす。それが妙に艶かしくて、夏太郎は落ち着かなく視線を彷徨わせた。言動や立ち居振る舞いを見る限り、本来なら自分が気安く話が出来るような家柄の人では無さそうなのに、みょうじは気取らず気さくにこちらへ寄ってくる。不思議な人だな、と夏太郎は思った。
しばらくの問答の後、みょうじは満足したようにほっと息を吐いた。
「ありがとうございます、夏太郎さんのお陰で良い記事に仕上がりそうです」
「…そっか、役に立ったなら良かったよ」
みょうじはにこやかに夏太郎へそう告げる。彼女の笑顔に夏太郎もつられて照れ笑いをした。みょうじは記事をまとめて来ます、と小屋の方へと戻って行った。軽やかに駆ける後ろ姿を見送り、ふと振り返ると黒い双眸がこちらをじっと見つめていて、夏太郎は盛大に飛び上がった。
「……な、何すか、」
「いや…別に」
尾形は表情を変えず、何かを夏太郎に言うわけでもなく。居心地の悪さに夏太郎が後退りしそうになった頃に、尾形はするりと夏太郎の横をすり抜け、小屋へと入って行った。
(みょうじさんとは違った意味で、不思議な人だな尾形さん…こえぇ)
みょうじと話していた時の柔らかい空気は雲散し、落ち着かない雰囲気だけが残された。夏太郎はそれを払拭しようと、再び薪割りに精を出すのだった。
翌日。
土方から許可が出たので、原稿を小樽に送るため郵便局へ行きたいというみょうじに、夏太郎は同行することになった。
「ごめんなさい付き合わせることになってしまって。土方さんがあなたを連れて行くならば、と仰ったので…」
「いや、俺は良いんだけど…」
暗に土方はみょうじの監視を任せてくれたのだろう、それを察した夏太郎は俄然やる気を出した。しかし、それにしても前から飛んで来る視線が痛い。夏太郎は堪えきれず、みょうじへ彼を見てくれと小さく指を指す。
「あ、尾形さん。どうされました?一緒に行きますか」
みょうじが問うと、男はこくりと頷く。
「弾薬を補充しておきたい」
「そうですか。では土方さんに許可を取ってきて下さいね。逃げたと思われますよ。夏太郎さん、すみませんが案内よろしくお願いします」
ーー夏太郎さんが来てくださって良かった。私、北海道に来てからほとんど小樽にいたので、土地勘が無いんですよね。尾形さんはこの辺りにいらしたことはあります?
道すがら、みょうじは穏やかに二人の間で話を取り持つ。不快では無いのか、話を振られた尾形も短くではあるが返事を返している。夏太郎は陸軍の脱走兵と女の新聞記者という、この奇妙な取り合わせの関係性に内心首を捻っていた。以前から顔馴染みではあったようだが、それにしてもこの扱いの難しそうな男と上手くやっているように見えるのは、彼女が傑物なのか、それともーー。
「あ、街が見えてきましたね」
弾むみょうじの声に夏太郎の思考が戻される。目的地である札幌の街が近付き、自然と足並みも軽くなる。街中に差し掛かる頃、尾形は「後で合流する」と二人から足早に離れて行った。
「何か、怒らせるようなこと言ったかな…俺」
「多分、夏太郎さんは関係ないですよ」
唐突な尾形の行動に、夏太郎は何か失言したかと気を揉んだが、みょうじはふわりと夏太郎に笑いかけた。
「尾形さんは追われる身ですから。ここは大きな街ですし、27聯隊の兵士にいつ姿を見られるか分かりません。単純に、人目を避けて動きたかったんですよ。一般人に同行する軍人なんて、目立つでしょ」
「ああ、そっか……」
「あの人はいつも言葉が足りなくて、だから誤解されてしまうんですよね」
男の去った後を見遣りながら、困ったように彼女は呟く。その優しい口振りに、夏太郎は尾形とみょうじの間にある見えない糸が、一瞬煌めいて見えた気がした。
「さ、私たちも行きましょう。郵便局はどちらですか」
「あ、えっと、こっちかな…」
みょうじに促されて、夏太郎は何故か紅潮してしまった自分の頬を彼女から隠すように、街中をさっさと歩き始めたのだった。
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