飛花追想記/殉情録 | ナノ

まどろむ春の魔物 07.



春は進む。失踪した尾形さんの行方は杳として知れず、鶴見中尉の動きも表立っては見えない。私はじりじりとした焦りを感じつつも、この見かけ上の平穏に少し安堵してもいた。
そんなある日、突然編集長に呼びつけられた。何かしてしまっただろうか、と思ったが、編集長は口をへの字に曲げて不服そうな顔をしていた。
「どうされましたか、何かありました?」
私が戸惑いながら声をかければ、編集長は勢い良く頭を下げた。
「すまんみょうじ、断り切れんかった」
「……何のお話です?」
首を傾げる私に、編集長が切り出したのは夕張への取材の話だった。以前書いた『軍都・旭川』が予想以上に東京で受けが良かったらしく、今度は夕張炭鉱へ取材に行き、記事を書かせよとの業務命令が来たそうだ。
「俺はお前を今小樽から出したく無かったんだが…」
編集長が頭を机に擦り付けるようにして謝る。私は慌てて彼へ声をかける。
「編集長、頭を上げて下さい。編集長が悪いわけではないでしょう。お断りするよう尽力も下さったんですよね。それで十分ありがたいです。それに私は雇われの身ですから、社の命には従います」
記者としては喜ばしいことだが、確かに現状を思えば小樽から離れることは得策ではない。しかし、私が北海道にいる本来の目的を分かった上で、取材へ行けと東京の古巣が言うのであれば、私にも編集長にも断る術はない。
…それに、ほんの少し嬉しくもあった。今の閉塞した小樽の空気から、ひと時でも解き放たれることは私にとって大きな気分転換になるだろう。そんな私の気持ちを察したのか、編集長がついでのように言ってきた。
「夕張に行く途中、茨戸に寄ってきてくれ。あそこは今、町を二分する抗争が起こっているらしくてな。面白そうだからついでに取材して、記事にして来い」
「…何ですかそれ。随分危なそうな話じゃありませんか」
「お前が出る予定が無ければ、俺がすっ飛んで行ったんだがなぁ」
頭の後ろで腕を組み、編集長はさも残念そうに言う。『面白そうだから』そんな理由で野に放たれた編集長は、本来の職務を忘れて平気で数週間は費やしてしまうだろう。新聞社としてはこの人を出すことにならなくて良かっただろうな…と私は苦笑いをこぼした。
それにしても夕張炭鉱とは。一度目にしてみたい、とは思っていたので良い機会だ。ある程度沿革を知識として入れていきたい、と申し出れば、編集長は地層になった紙と本の山から器用に一冊の綴を取り出した。
「それ、持ってって良いよ。仕事は適当に引き継がせるから、みょうじは戻って旅支度を整えろ。期間は二週間程度は見ておく。延びる場合は連絡してくれ。出来た原稿は上がり次第俺宛に郵送してくれたら、後はこっちで推敲する」
「分かりました。ではお言葉に甘えて行って参ります」
「期待してるぞ。あと、無茶はするなよ」
笑って言う編集長に頷き、私は準備に取り掛かることにした。

小間物屋で鉛筆や旅に入用そうな日用品を購入し、下宿へ戻ると西脇の奥様が「なまえさん、ちょうど良かった」と駆け寄って来られた。
「郵便夫さんから今しがたお預かりしたの」
「…大伯父様からですね。ありがとうございます」
何だろうと開けてみれば、そこに記されていたのは『夕張炭鉱へ行くなら、夕張にある取引先の頭取へ立花の名代として挨拶してきてくれ』という内容だった。ーー完全に、今回の取材の件も立花の家は把握済みだったようだ。もしかすると、27聯隊の動向を知った祖父や伯父たちが何かしらの手を回した結果なのかも知れない。嘆息しそうになり、それをぐっと堪える。祖父や伯父たちは私の身を慮ってくれているのに、それを勝手な推論で迷惑だと思うのは傍若というものだ。…とにかく、今は目の前にある目的を果たすのみだ。
西脇の奥様へしばらく留守にすることを告げ、私は離れに戻って旅支度をする。立花の者として取引先へ向かうのなら、きちんとした着物も必要だろう。私は行李を開きどれが良いかと思案していた時、ふと隅に押し込まれた物の存在を思い出した。
「…持って行ったほうが良いのかな」
ずっしりと重く冷たいそれは、こちらへ来る際に伯父から護身用にと手渡された拳銃だった。そもそも扱える自信もなく、行李へ仕舞い込んだまま忘れかけていた。しばし逡巡したが、持って行くことにして手拭いに包み、背嚢へ突っ込んだ。街を出る前に猟銃店へ寄って、扱い方を聞いてみようと思いながら。

すっかり体に馴染んだ洋袴に上着、長靴。外套を着込み舶来物の襟巻きも身に付ける。父の形見の懐中時計を外套の物入れに滑り込ませ、背嚢を背負えば出立の準備は出来た。まず目指すのは茨戸だ。編集長から茨戸の近くへ荷を運ぶ馬車に話を付けておいてくれるとのことなので、港近くの出荷場へ足を向ける。途中、郵便局で伯父宛に一箇所立ち寄ってから夕張へ向かうと電報を打った。それから猟銃店へ顔を出した。
「おう、嬢ちゃんいらっしゃい。…何だ、いつもより重装備だな」
「こんにちは。仕事で夕張に行くことになりまして。それで、これの扱い方をちょっと教えて頂けたらと思って寄ったんです」
荷物の中から拳銃を取り出すと、店主は眉を跳ね上げた。
「…舶来物だな。弾はあるのか」
「はい、いくらかは」
私が弾薬の入った小箱も差し出せば、店主はしばらく銃を触り、何度か頷いた。そして「俺もこの型は触ったことが無いんだが、多分だいたい同じだろ」と言いながら、扱い方を教えてくれた。
「あんた第七師団の連中と仲良いんだろ。兵隊さんたちに聞けば良かったのに」
「最近皆様お忙しそうなので…民間人の私用にお付き合いさせるわけには参りませんから」
一通り説明を受け、手帳にも手順を記したところで店主に言われ、私は曖昧に微笑みながら言葉を返した。
今言ったことは本心だが、理由はそれだけではない。何となく、今から小樽を離れることを27聯隊の人たちに知られるのが怖かったのだ。鶴見中尉の何もかもを見透かすような視線に晒されてから、ふとした拍子に私が彼らの隠された事情を暴こうとしていることまで伝わってしまうのではないかと思えてしまって、怖かった。
ーー鶴見中尉と話していると、彼が正しいのではと思わされる何かがある。彼が行おうとしていることは、実は正統な歴史の流れなのでは。革命とはそういうものなのでは無いだろうか。そうであれば、私の行動は正しくないことなのか…そんなことまで考えてしまうほどに。
ぼんやりとそんなことを考えていれば、気付けば港近くの出荷場に着いていた。
「あんたが斎藤さんが言ってた記者さんだね。俺たちは茨戸には寄らないが、近くの街道で降ろしてやるよ」
「ありがとうございます、助かります」
御者の男が声をかけてくれたので、私は頭を下げる。そんな私の姿を上から下まで見た男は、人の良さそうな顔をしかめて言った。
「…しかし大丈夫かい?あんたみたいな娘さんがひとりで。今の茨戸は柄の悪い奴らがうろついてるぞ。警察も当てにならん状態だ」
「話は伺っています。それを取材するために立ち寄るんです。危なそうであればすぐに発ちますから」
私は笑って御者へ答える。そして馬車の荷物の隙間に腰を落ち着けた。ゆっくりと馬は足を進め、小樽の街並みが後ろへ去って行く。私はまだ見ぬ景色に心を躍らせ、言い知れぬ不安から目を逸らそうとしていた。

軽快に馬は進み、途中の集落で一泊した後に茨戸近くの街道まで進んだ。
「あんたを送れるのはここまでだ。ここから道なりに歩けばあんたの足でも一時間くらいで茨戸に着くよ」
「ありがとうございます、とても助かりました」
私は荷台から降りて、御者の男へ挨拶する。男は昨日と同じように心配そうな表情を見せた。
「気をつけてな」
そう言って馬車は別の道へと去っていった。私はそれを見送り、茨戸へと足を向ける。それなりに人通りがあるのだろう、道は雪に埋まっておらず、気楽に歩いていられた。歩きながら私は、編集長から聞かされた茨戸の状況について思い返す。
ニシン漁と賭場を仕切る日泥家と、それに対抗する馬吉一味。馬吉の後ろ盾には茨戸の警察署長があり、日泥は札幌の警察本署に賄賂を渡している。どちらも警察を巻き込んで茨戸の町を二分する状態となっているそうだ。今は両者の力が拮抗しているが、一触即発の空気が街を覆っているらしい。
どちらの勢力でも良いから、接触する方法はないかーーそう思案していたところに、二度半鐘が鳴らされたのが聞こえた。音は進行方向、茨戸の方から飛んできたように思える。火事か、と思って目を凝らすが、空は薄曇りのままで煙らしき黒さは見えない。私はどこか不穏な気配を感じて、宿場町へ向かう足を早めた。

「えっ、どういうことなの…」
私は思わず独り言を漏らしてしまう。辿り着いた茨戸は、正に抗争の真っ最中のようだった。あちこちから銃声と男たちの怒号が聞こえる。状況を聞こうにも、町民たちは家に閉じこもり息を潜めているようで、通りに人気は無い。私はそろそろと物陰から路地裏へ、這うようにゆっくりと銃声が鳴り響く方向へ進む。脳裏には祖父や伯父、編集長の顔が浮かぶ。身の安全を思えば行くべきではないのは分かっていたが、あまりの急展開に恐怖心がついてきていないのを良いことに、現場を見たいという好奇心のままに進んだ。
不意に、背後から口を押さえられ狭い隙間に押し込まれた。私は反射的に身を捩るが、男の圧倒的な力に敵うはずもない。
「…大人しくしろ、なまえ」
聞き覚えのある低い声に、目を見開く。ゆっくりと首を後ろへ回すと、そこには馴染みのある黒い瞳が光っていた。
「おがた、さん」
掠れた声で私が呟けば、男は薄く目を眇めた。

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