飛花追想記/殉情録 | ナノ

閑話:見えざる思慕



山中で『不死身の杉元』に遭遇し、厳寒の川に落とされてから2ヶ月ほどが過ぎた。尾形は病室で間延びした昼の時間を持て余し、なまえが持ち込んだ書物を眺めている。顎の傷は概ね塞がり、折れた腕もほぼ痛みなく動かせる段階まで回復した。監視の目を欺くため、医者や看護婦の前ではまだ顎が痛む、腕が上がらないと言ってはいるが。
ゆっくりと北の大地にも春が芽吹きつつある。完全な雪解けが来る前に、計画を実行に移さなければいけない。同志とは鶴見中尉の命に従いこちらへ監視に寄越された際に、少しずつ打合せをしている。あとは決行する時期を窺うのみだ。
兵舎の動向はなまえからも常々聴取している。あれは自分が兵士としての本分を全うするために、他の兵から遅れを取らぬよう様子を伺っていると思っているだろう。…もし、こちらの意向に気付いていたとしても、鶴見中尉へ自分を密告するような女ではないはずだ。
不思議とそう信じたくなってしまうのは、自分があれに絆されているからだろうか。ーー尾形の目はいつの間にか文字を追わず、脳内に浮かぶ女の姿を追っていた。

「鶴見中尉殿はニシンの漁場へ何かお調べに向かわれたそうですよ」
昼過ぎにやって来たなまえへ兵舎の様子を伺えば、そんな言葉が返って来た。最近頻繁に漁港へと足を向けているようで、何度かそんな話を耳にした。…だとすれば、今日の兵舎は手薄なはずだ。良い頃合いかも知れない…そう尾形は考える。
「…他にも何人か、長らくお顔を拝見していない方がいらっしゃいます。尾形さんは何かご存知ですか?」
「何処ぞへ派兵されてんだろ」
会話をしながら、折れた方の手を何度も握りしめて感触を確かめる。ほぼ復調している、これなら大丈夫だ。…ふと、黙り込んでしまったなまえの顔を見れば、妙な顔つきをしていた。揺れる瞳に浮かぶのは、困惑と疑念と不安の色。そして少しの好奇心。察しのいいやつだ、と尾形は内心笑ってしまう。それと同時に、部屋の外で耳を側立てる気配も感じ取り、思わず舌打ちしそうになった。
「… なまえ」
目の前で硬直したままの女の名を呼べば、気を取り戻したように重い息を吐き出した。
「お前が何を考えているのかは知らんが、それを口に出さん方が良い。知りたがり屋は若死にするぜ」
「…あなたは何をご存知なんですか、尾形さん」
意を決したように問うてきたが、部屋の外の存在を示唆してやれば、なまえは理解したようで口を閉ざした。今、教えてやるのは都合が悪い。残念だったな、と尾形は口の端に笑みを浮かべた。

なまえが立ち去ってしばらくして、先程部屋の外に忍んでいた男が派手に靴音を上げながらやって来た。すう、とその場の空気を吸い込んで「なまえさんの匂いだ」と棘のある声で宇佐美は呟く。なまえが足繁くここへ通っていることも彼は気に入らないのだろう、形の良い唇を醜く歪ませ尾形を見下ろした。
「百之助…お前、鶴見中尉殿の何が不満だ?」
寝台に乗り上がった宇佐美が、青筋を立てながら尾形を問い詰める。ギシギシと寝台が悲鳴を上げるが、尾形は宇佐美に目も合わさない。宇佐美はそんな尾形の態度に苛立ちを隠さず、どっかりと寝台の端に腰を下ろし畳みかけた。
「僕もおまえも、月島軍曹殿や勇作殿や鯉登のボンボンと同じ『駒』なんだよ!!いっちょまえに鶴見中尉殿に盾突きやがって…可愛さ余って憎さ百倍で執着してるんだろッ僕には分かるんだ、お見通しだぞ!!」
キイキイと喚き立てる宇佐美を、尾形は鼻で笑う。気に入っているらしいなまえには、そんな面を見せることは無いのだろうな、などと思いながら。
「その陳腐な妄想に付き合うとすれば、宇佐美は『駒』の中でも農民出身の『一番安い駒』だな」
薄笑いと共に言い放てば、宇佐美は怒気を爆発させ、瞳孔を一気に収縮させて腰に下げた銃剣を抜き放つ。尾形はそれが自分に突き立てられる前に、寝台の横の棚へ手を伸ばし、そこにあったオマルを宇佐美の頭へ力一杯振り下ろした。先手必勝。白兵戦では宇佐美に劣るが、不意を突けばどうとでもなるーー床に伸びた男を一瞥し、尾形はそのまま病室から走り出た。

病院を飛び出し、予め打ち合わせてあった空家へ滑り込む。隠し置かれた軍服に着替えて銃を手にすれば、久しぶりのその感触はしっくりと尾形の手に馴染んだ。夕闇が迫るまでそこへ潜伏し、夜陰に乗じて市中から山小屋へ移動する算段だ。しばしそこへ潜み、二階堂への合図を残して尾形はそっと影となる。街中の闇を縫うように進む中、ふと昼間のなまえの顔を思い出し、歩みを止めた。一瞬迷った後に、向かう方角は同じだと尾形は女の住む離れへと足を向けた。まだ時間はある。色々と情報を与えてくれた礼をするのも悪くないだろう…そんな言い訳を自分へしながら。
足跡を残さないよう気をつけながら、勝手口から裏庭へ侵入する。戸締りされた戸口から、薄らと灯りが漏れているのが見える。なまえはまだ起きているようだ。そっと室内へ忍び込めば、悲鳴を手で押さえるなまえの姿が浮かび上がった。
「おい、静かにしろ。俺だ」
呆然とこちらを見遣るなまえに声をかけ、尾形は上がり框に腰掛ける。物言いたげな女の顔に目を細め、尾形は自分の横へ座るように畳を叩いた。
「一体どういうことですか。病院を抜け出して、こんな夜分に…」
「お前には世話になったから、特別に餞別をくれてやろうと思ってな」
尾形は隣に座したなまえの方を見る。寝床へ向かう直前だったのか、髪を下ろし浴衣に肩掛けを羽織った姿は、当然ながら初めて見る。普段は見えない柔らかい体の線に沿って思わず目線を走らせてしまう。その体に触れたくなる気持ちを堪えて、27聯隊を離れることを告げるが、なまえは予想していたのかさして驚きはしていなかった。
鶴見中尉の目的を問われ、クーデターを起こそうとしていること、そのための軍資金としてアイヌの金塊を探していることを教えてやれば、流石になまえも驚いたようだ。
「…こんな、機密情報を…。私があなたを鶴見中尉に売るとは考えなかったんですか?」
小さく身と声を震わせながら、彼女は尾形へ言う。
「お前はそんなことはしないだろ」
確信を持って伝えられたその言葉を聞いたなまえは、先程までの強ばった顔から一転、笑顔を落とした。
「ーー奴らが来たら、適当にしらを切れ」
尾形はなまえの笑顔にどうして良いか分からず、指示を与えながらその頬に手を伸ばした。冷えた指先に点る体温。柔らかくすべらかな感触。縋り付きたくなるようなそれを尾形は暫し堪能してから、指を離した。
「これからどちらへ?」
「…聞かん方がお前の身のためだ。またな、なまえ」
立ち上がり、外套を頭から被って銃を手にし、しんと冷えた夜へと静かに踏み出した。

闇夜を駆ける尾形は、どうにも自分がなまえに執着を持ってしまったことを自覚する。それがどういった意味を持つのかは理解できないが、不快なものではなかった。
ーー金塊を追って来い、なまえ。俺はその先に居る。
最後に見た彼女の、不安気に揺れた顔を思う。そしてそれを振り切り、真っ直ぐ前だけを見て男は小樽市街を後にした。

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