三. 春・まどろむ春の魔物
01.
暦上は春と言えども、この北の大地ではまだ雪も降り、特に朝晩は寒さが厳しい。それでも少しずつ日の出は早くなり、夕暮れは遅くなる。植物は薄らと芽吹きの準備を始めていて、春の気配は日に日に強くなっている。
陽に照らされてキラキラと光る雪を眺めながら、私はいつものように新聞社へ向かう。年始に慌ただしく引越しを終えた社内は、最近になってやっとまともな体裁が整って来たところだ。それでもまだ積まれたままの資料や本があふれていて、そこに新しいものが積み重ねられ…既に一角が地層のようになりつつある。
「おい、みょうじお前知ってるか。鶴見中尉のところの兵士がひとり、瀕死の状態で病院に担ぎ込まれたそうだぞ」
室内に入ると、同僚の一人からそう声を掛けられた。私は驚き、目を丸くした。
「いえ、存じ上げませんでした…それ、どなたが…?」
「そこまでは分からん。今朝病院に寄ったら、何やら騒ついていたので、そこに居たやつに聞いただけなんだ」
「そうですか…」
兵士たるもの、いつ何時怪我をしてもおかしくはない。命が失われることも当然あるだろうーーそう、頭では理解していたはずなのに。実際に耳にしてしまえば、冷静でなど居られなかった。息が詰まる。
「みょうじ、兵舎に行って見舞って来い。聞き付けてすぐ来たと言えば、お前の評価も上がるだろ」
私の動揺を察した編集長にそう言われて私は頷き、来たばかりの職場から飛び出した。
約束ではないがどなたかが怪我をされたと聞いて、と兵舎の衛兵に告げれば、速やかに中へと通された。落ち着かない心臓を抱えたまま通された部屋で待つ。しばらくして、普段と変わらない顔付きの鶴見中尉が現れた。私は立ち上がり、礼をする。
「流石なまえ君、耳が早いね」
「いえ、偶然今朝、同僚が病院へ赴いていただけで……それで一体どなたが、何故」
「怪我をしたのは尾形上等兵だよ。昨日の夕刻に、山中で見つかった。何をしていたのか分からんが、高所から川へ落ちた後、何とか自力で這い上がったようだな。ただ、腕と顎を骨折していて、低体温症もあって意識不明の状態だ」
私は息を止めて、鶴見中尉の声をただ聞いていた。尾形さんは何故一人で山中に居たのか…理由が分からない。手帳を広げていたが、鉛筆を持つ手が震えて何も書けない。何とか息を吐き出して、手帳に鉛筆を挟み、閉じた。そんな私の様子を鶴見中尉はじっくりと観察していた。額当ての下の闇がひたとこちらを見つめている。探られているーー今はまだ探られて痛む腹は無いが、これからのことを考えれば怪しまれるのも好ましくない。尾形さんの真意も分からない以上、下手な言動は避けたい。私はただ知人の安否を心配し、動揺している風に見えるように努めた。
「治療中に一瞬だけ、意識を取り戻してね。その際に尾形上等兵が『ふじみ』と指で書いたんだそうだ。… なまえ君はこの言葉に何か心当たりがあるかね?」
「ふじみ…?いえ、全く。どなたかの名前でも無さそうですし…」
私は鶴見中尉の問いかけに正直に答える。色々と脳内で尾形さんと話したことを思い返してみるが、それらしい記憶はない。『ふじみ』とは、尾形さんは何を伝えたかったのだろう。…そうやって考え込んでしまった私を見て、鶴見中尉がふふ、と笑い声を洩らした。
「…あ、すみません」
「いや、構わんよ。そうやってきちんと思考するところがなまえ君の美点だからね。もし何か思い当れば、何でも良いから私に教えてくれたまえ。ああ、それから、君も忙しい身だろうが合間を見て尾形を見舞ってやってくれ。病院の方には君が来たなら通すように伝えておこう」
「ありがとうございます鶴見中尉殿。夕方にでも一度伺ってみます」
私が礼を述べると、鶴見中尉はゆるりと微笑んだ。端正なはずのそれが、その時の私にはひどく恐ろしいものに見えた気がした。
見舞いに行く前に今日の仕事を片付けなければ、と私は急ぎ足で新聞社へ戻った。鶴見中尉から聞いた話を編集長にも共有しておかなければいけない。『ふじみ』とは何なのか…別の視点から見れば何か思い付くかも知れない、とも考えて。
「おう、みょうじ。どうだった?」
室内へ入れば、待ち構えていたかのように編集長から声が掛かった。私は横へ行き、少し声を落として話す。
「怪我をして病院へ担ぎ込まれたのは尾形上等兵でした。滑落した後、川に落ちたらしく…山中で倒れているところを救助されたそうです。今はまだ意識が戻らないそうですが」
「ほう、尾形上等兵が。この雪の中、一人で山中に?雪中訓練でもないのにか?」
「…はい。妙ですよね」
編集長は煙草を燻らせながら眉を顰める。そしてぽつりと一言「不穏だな」とこぼした。
「お前がここに来た理由の話がそろそろ燃え始めるのかもな。春も近い。動きやすくなる頃合いだ。…他には何かあったか」
「許可を得たので、夕刻にでも尾形さんを病院にお見舞いに行きます。あと、鶴見中尉が気になることを仰っていました」
私は編集長に尾形さんが目を覚ました時に伝えた『ふじみ』という三文字について伝える。何か心当たりがあるか、と鶴見中尉に問われたことを言い添えて。
「普通に考えれば、尾形上等兵が最後に会った誰か、なんだろうな。その『ふじみ』さんは」
「師団の方には心当たりは無いそうです」
「その音に単純に当てはめれば『不死の身』の不死身だろうが…」
「渾名みたいなものなんでしょうか」
私が言うと、しばらく編集長は頭を捻っていたが、バリバリと髪を掻きむしって「わからん」と匙を投げた。
「…ですよね。とりあえず私は原稿に戻ります。片付けたら病院に行きますので」
編集長が頷いたのを見て、私は自席へ着く。しかし、原稿を広げながらも私の頭の中は尾形さんのことを考え続けていた。彼は一人雪の中で、あの黒々とした目で何を、誰を見たのだろう。考えても答えは出ないと分かっていても、思考を止めることが出来なかった。
夕方、また降り出した雪の中を病院に向かう。凍る息を吐き出しながら、早る気持ちを抑え、一歩ずつ。ここで転んで怪我でもすれば、また尾形さんに揶揄われてしまう、などと思いながら。
病院で尾形上等兵と自分の名を告げれば、奥まった一室へ案内された。まだ患者は眠っていること、長居はしないようにと注意されて病室の中へ足を踏み入れる。室内にはいくつか寝台が並んでいたが、使われているのはひとつだけだった。包帯が厳重に巻かれた頭の方へ静かに近付いていけば、閉じられたままの瞼が見えた。
「…尾形さん」
思わず小声で名を呼ぶが、彼は微動だにしない。薄く開いた唇から漏れる、かすかな呼吸音だけが返答のように聞こえた。寝台の横に置かれた椅子に腰掛け、眠り続ける彼の顔を見つめる。元より色の白い人だと思っていたが、今は血の気が引いて青白く見える。このままふっと消えてしまうのでは無いか、と思えてしまうほどに。…急に不安が募り、掛け布団の上に置かれた彼の指先に触れる。かさついた、無骨な指。ちゃんと実体があること、冷えてはいるが生きた人間の体温が感じられたことに深く安堵した。
「何があったんですか。早く教えてください」
答えが返ってこないことを知りながら、私は呟く。早く目を開けて、またいつものようにふらりと下宿に上がり込んで来れば良い。傷が痛むと愚痴を言いながら、我が物顔で火鉢の前を占領すれば良いーー。ほんの少し触れたままの指先は、私の熱を奪いながら、ただそこにあった。
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