飛花追想記/殉情録 | ナノ

彼方を照らし寒昴 04.



数日前から降り続いていた雪が止み、久しぶりに陽の光が小樽の街に降り注ぐ。
私は正月明けに東京の大伯父から送られて来た、舶来物の長靴を履いていた。こちらの雪深さは東京の比ではないことや、足を取られ何度も転び、軍人さんたちに笑われた話(流石に最近は慣れてきて転ぶ回数は減った)を幼い従姪や従甥に向けて面白おかしく書いて送ったところ、「ねえねが転ばない靴を送れとせがまれた」そうだ。結果として物を催促してしまったようで気が引けたが、有り難く使わせてもらうことにした。短靴とは違い、雪が入り込むことも無いので大変に助かる、とお礼を伝えなければいけない。
「へえ、良い靴履いてますねぇ。流石は立花のお嬢様だ。将校様でもなければ長靴なんて履けたものでもないのに」
そう宇佐美上等兵に揶揄われたりもした。確かに分不相応かとも思ったが、実用には変えられない。
用事を終えて社に戻ろうとした道すがら、蕎麦屋の前で出汁の匂いにつられて立ち止まる。そういえば昼を食べ損ねていた、と思い出せば急にお腹が減ってきた。蕎麦でも食べて行こうか、と思いふと足元を見れば、自分の真新しい長靴の横に、もうひとつ使い込まれた革の長靴が見えた。そのまま目線を上に滑らせれば、そこには軍帽を被った、しかし見慣れない顔が唇をへの字に歪ませて立っていた。顔の縦横に傷の走った青年は、眉を下げ何やら思案している。懐から財布を出し、中を確かめ、ため息を吐く。それと同時にぐう、と大きな音が聞こえた。思わず隣の青年を見つめれば、彼もこちらを見て、精悍な顔を赤らめた。
「…あの、差し出がましいかも知れないんですが。私、今から昼食を取ろうと思っていまして。良かったらお蕎麦一緒に召し上がりませんか」
「え、」
「あの、いえ、その…一人で入るのも何なので、付き合って頂けると助かるのですが」
思わず言ってしまった私の言葉に、青年は目を丸くして戸惑う様子を見せた。見ず知らずの女から急にそんなことを言われても困るだろうな…と、申し出を取り消そうとしたその時、ごくり、と喉を鳴らす音が響いた。
「……本当に、いいの?」

暖かい店内に広がる、凄まじい勢いで蕎麦を啜る音。杉元佐一、と名乗った青年は本当に空腹だったようで、最初こそ遠慮がちに箸を付けたが食べ始めればあっという間に一杯平らげてしまった。よければもう一杯、と言えば最早遠慮もなく二杯目に手をつける。気持ちの良い食べっぷりに、蕎麦屋の大将も「兄ちゃんそんなに腹減ってたのか、ホラこれも食え」と何処からか握り飯を出してきて与えていた。
「ごめんねぇみょうじさん…俺、今ほんとに金が無くて…」
「いえいえ、これも何かのご縁でしょうから」
杉元さんはやっと腹具合が落ち着いて来たのか、照れたように頭を掻きながら礼を言う。聞けば彼は日露戦争に従軍し、満期除隊した後にこの北海道へやって来たところなのだそうだ。猟銃店に手持ちの銃の手入れを頼んだところで旅費が尽きてしまい、空腹を抱えたまま街をうろついていたところに私が声をかけたらしい。
「それにしても何で俺に声をかけてくれたの?」
「たまたまです。あなたの長靴が目に付いたので」
私が理由を率直に述べると、杉元さんは不思議そうな顔をした。
「私は親戚から頂いたので履いているんですが、ある人に言われたんです。『長靴なんて将校様でもなければ履けない』って。だから、珍しくて」
「あー、これね……」
杉元さんは自分の足元をちらと見てから、視線を宙へと彷徨わせた。彼の履く長靴は、何か曰く付きのもののようだ。
「お食事の作法もお綺麗ですし、将校様でいらっしゃったとか…?」
「いやいやいや!まさか!俺はただの一兵卒だったよ…食事の礼儀は、ちょっと昔に世話になった人に色々教えてもらったんだ。軍でもそこそこ言われるしね。この靴は…うん、餞別みたいなもんかな。あ、その礼儀を教えてくれた人とは別人ね!」
「そうでしたか」
何か懐かしい、良い思い出があるのだろう。柔らかい目をして杉元さんは言う。素直な人だ、とその顔を見て思う。彼の言うことはほぼ真実なのだろうと思えた。彼自身のことに私は興味を持ち、もう少し話を振ってみることにした。
「何故、北海道にいらしたんですか?杉元さんはこちらのご出身でもなさそうですが」
「ああ、ちょっと理由があって、まとまったカネが要るんだ。それもなるべく早く。『上手くいけば大金が手に入る』って、砂金採りの話を聞いて…それで除隊後にこっちに来たんだ」
まさか来るのにこんなに金がかかると思ってなかったんだけどね…と杉元さんは困り顔で笑って言う。話し言葉の訛りの無さから東京か、その近郊から来たのだろう。ここまでの旅費は安いものではないはずだ。それを費やしてでも、噂話に縋りたくなるほどの事情があるのだろうな、と私は推察した。
「みょうじさんこそ、ここで何をしてるんだい?」
杉元さんは話題を変えるように私に問う。自分ではすっかり慣れてしまっていたが、確かに男に見紛うような洋袴姿の女など、奇異なものでしか無い。私は簡単に、東京からこちらへ来て、新聞社で働いていることを説明する。すると杉元さんは目を輝かせて感嘆の声を上げた。
「へー、凄いねぇ!新聞記事を書いてる人なんて初めて会ったよ」
「ありがとうございます。でも、記者なんて珍しくも無いですよ」
「それでも、女の人の記者は珍しいだろ?それに仕事のために単身北海道まで来るなんて、みょうじさんやっぱり凄いよ」
「そうでしょうか…ありがとうございます」
裏のない、純粋な賞賛の言葉に照れてしまい、私はそろそろ出ましょうか、と声をかける。杉元さんはご馳走様でした、と懐っこい笑顔を見せた。

猟銃店に預けていた銃を引き取りに行く、という杉元さんに私も着いていくことにした。銃や弾薬を求める者は猟師や軍属の者だけでは無く、アイヌの人々や果ては訳ありの者まで多種多様だ。特に今は脱獄した囚人の情報を追っているため、様々な人が出入りするこの店に私も定期的に顔を出している。
「こんにちは、お邪魔します」
「おう、嬢ちゃんいらっしゃい。…そっちの兄ちゃんと知り合いだったか。ほら、調整しておいたぞ」
店へ入れば、顔馴染みの店主が私と杉元さんの顔を見て厳しい顔を少し緩めた。店主が奥から銃を取り出せば、杉元さんはそれを受け取り礼を述べた。
「砂金採りか、この時期の山はヒグマも冬眠してるだろうが…十分気を付けな」
「ヒグマ?」
「ああ、本州には居ないが、こっちでは馬鹿でかい熊が出るんだ。あいつらは獰猛で狙われたらひとたまりもねェからな」
杉元さんへ注文を受けていたのであろう歩兵銃の弾を渡しながら店主は言う。
「もしヒグマが獲れたら毛皮や肉、あと肝は良い値段で売れるから持って来な。引き取ってやる」
「その時は頼むよ」
店主の言葉に杉元さんは明るい笑顔を見せた。
「見慣れない方はお見えになりました?」
私は店主にいつものように問いかける。店主は肩をすくめ首を振る。
「アンタが面白がりそうな奴は来てないねぇ」
「そうですか…また何かあれば、教えてください」
「ああ。…砂金と言えば最近はそうでも無いが、ひと昔、ふた昔前は大儲けした奴らが大勢居たもんだが…どこかのアイヌの村の奴らが莫大な量を隠してる、なんて噂もあったなぁ」
「へぇ、それってどの辺であった話?」
杉元さんが興味深げに身を乗り出して店主に聞く。私も初めて耳にする話に、物入れから手帳を取り出した。
「ここら辺のいくつかの集落が結託して集めてた、って話だが…そんなもんが本当にあれば、今頃アイヌの集落にガス灯のひとつでも付いてるんじゃねぇかな」
「あくまで噂の範疇、ってことでしょうか…」
私は鉛筆を止めて呟く。噂話、と言われるが妙に引っかかるものを覚えて私は眉を寄せる。脳裏では何故か、以前鶴見中尉が描いた奇妙な刺青の線が瞬いていた。
「アイヌの集落か…その付近の川なら、まだ金が掘れるかもなぁ。オヤジさん、ありがとう!」
杉元さんはその噂を前向きに解釈したらしい。礼を言い店を出る彼を追い、私も店主へ頭を下げて出口へと足を向けた。

「じゃあ、俺は行くから。本当にありがとね、みょうじさん」
「いえ、こちらこそ。…私はここの新聞社で働いていますから、何かあればいらして下さい」
杉元さんから差し出された手を取り、握手をする。固く力強く、熱い手のひら。彼はこの手で激戦を生き抜き、己の命を勝ち取ってきたのだということが伝わってきた。
「また、お会いしましょう」
ふと私は別れ際に告げる。杉元さんはふわりと優しい笑みを浮かべ、手を振り去って行った。

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