二. 冬・彼方を照らし寒昴
01.
短い秋が終わり、北の地に本格的な冬がやって来た。見慣れた街が白の景色に一変し、私は慣れない雪道に奮闘する日々だ。深い積雪に足を取られ埋まり、踏み固められた雪に足を滑らせ尻餅をつく私を見て27聯隊の兵たちに何度笑われただろう。今日もまた、兵舎を訪った際に入口で派手に転んでしまった。
「みょうじさん、雪道歩くの下手すぎだろ…」
「東京では、こんなに積もることがなかったもので…なかなか慣れませんね」
「…冬の間は荷物は背負うようにした方がいい。重心を前にかけるんだ。あと歩幅を小さく。」
呆れながらも私を引っ張り起こしてくれたのは三島一等卒。人好きのする笑顔で接しやすい人だ。そしてマタギだった谷垣一等卒の助言に従い、私は荷物を背嚢に入れるようにしようと決めた。…ますます普段着が着物から遠ざかる。こんな姿を見たら、家の者たちはどんな顔をするのだろう。私は小さく笑い、手紙を書かないとな、と今日の予定に付け加えた。
「何やら外が賑やかだったね」
「私が雪に慣れないのを、皆様が気遣って下さっていたのです」
暖かい室内で茶を出されながら、鶴見中尉と向かい合う。最初に会った時の、油断ならない読めない人だという印象に変わりはないが、流石に何度も顔を合わせていれば慣れて来る。普段は知的な紳士然としておられるので、ここへ来ることは苦痛では無かった。
「北海道の雪は東京とは比べ物にならんからな。なまえ君が苦戦するのも無理はあるまい」
「お恥ずかしい限りです。先程谷垣さんに雪道の歩き方を教わったので、早速帰り道から心掛けてみようと思います。…そう言えば鶴見中尉殿、以前お伺いした囚人の話なのですが。」
「ウン?何か気になる噂話でもあったかな」
私が話を投げると、瞬時に鶴見中尉の瞳の奥がギラリと鋭利に光る。私は怪しまれないようふんわりと笑って言う。
「いえ、そんな大したお話でも無いんですが…こちらに寄る前に、漁師達へ最近の釣果を聞きに行っていたんです。私は知らなかったんですが、春になればこの辺り、ニシン漁が盛んなんですってね。たくさんニシンが獲れるので、釣れた魚を運ぶための日銭稼ぎの労働者もたくさん来るそうです。…あちこちから人が来るので、その中に犯罪者が紛れていても分からないだろう、って。」
この話は本当だ。最近足繁く取材に通って、顔馴染みになった漁師が教えてくれた。とにかく忙しい時期なので、多少素性が怪しくても雇ってもらえるらしく、隠れ蓑にはぴったりだろう、と。
「なるほど…ニシン漁か」
鶴見中尉は顎をさすりながら、何やら思案している。この話はお気に召したようだ。しばらく宙を見つめていた鶴見中尉はひとつ頷き、私に微笑みかける。
「有益な情報をありがとう、なまえ君。君はやはり優秀だね。春には必ず、ニシン漁の番屋を調べに行かせよう」
「いえ、お役に立てて嬉しゅうございます。…ところで鶴見中尉殿、今日はひとつ私からお願いがございます」
恩を一つ売ったところで、私は少し上目遣いに鶴見中尉を見つめる。彼はぱちぱちと目を瞬かせてから、柔らかく目を細めた。
「何だね、珍しい。なまえ君からおねだりか」
「はい。実は今度、旭川へ数日取材に参ることになりました。せっかくの機会なので、第七師団の本部を見学させて頂ければ、と…」
「ああ、なるほど」
「やはり難しいでしょうか?」
私が小首を傾げて彼の反応を見ると、にこりと笑みが返ってきた。
「大丈夫だ、私から本部へ話を通しておこう。鯉登少尉に案内するように伝えておくよ」
「ありがとうございます、中尉殿」
「構わんよ、しっかり取材して良い記事を書いてくれ。陸軍の評判が上がるようなね」
私が頭を下げると、彼は満足そうに深く頷いた。
「あ、みょうじさんだ。もう鶴見中尉殿にはお会いしたの?」
兵舎を出ようとしたところで、背後から呼び止められて私はほんの一瞬眉を顰める。この声は宇佐美上等兵だ。秋の一件以降、どうにも彼に対しての苦手意識が拭えない。しかし呼ばれて無視する訳にもいかず、すぐに表情を整えてくるりと振り返り笑み掛ける。そこには宇佐美上等兵と共に無表情の尾形さんの姿もあって、私は内心安堵の息を吐いた。
「お邪魔しております宇佐美上等兵殿、尾形上等兵殿。今しがた鶴見中尉殿にご挨拶差し上げたところです」
「もう帰っちゃうの?」
「はい、この後社に戻って原稿がありますので…」
さも残念そうな顔をする宇佐美上等兵に、私は牽制の意味を込めて後の予定を告げる。ちらと横の尾形さんを見れば、いつもの読めない表情でこちらを伺っていた。何ですかその顔は、と目で問えば、彼は口の端をにやりと上げた。嫌な予感がする。
「そ、それでは失礼致しますね…」
さっさと退散しようとすると、尾形さんに腕を掴まれた。はっとして彼の顔を見れば、黒い目がいたずらっぽく光った。
「お前、さっきも転んでいただろう。雪道に慣れんようだし、送ってやろう」
「え?見ていらっしゃったんですか?…いえいえ、結構です大丈夫ですッ」
「百之助良いこと言うね!ついでに途中で昼飯にしよう」
恐ろしい申し出に断る隙も与えられず、両側を固められてしまった。そうして半ば引きずられるようにして兵舎の入口へ連れて行かれる。
「おい、お前ら客人に何をしている」
「月島軍曹!昼食ついでにみょうじさんを送って参ります!」
「月島さ…、」
「なまえ嬢のお足元が危なっかしいので、見ておられんのです。行って参ります」
通りすがった月島軍曹に助けを求めようとするが、両脇の上等兵達に口を挟まれそのまま表へと連れ出されてしまった。ぴしゃりと扉が閉められる直前に見えた月島軍曹の顔には、憐れみの表情が浮かんでいた。
側から見れば連行されているような状態のまま、街中の蕎麦屋へ押し込まれる。道中、二人がいたお陰で確かに凍ってしまった道でも転ばずに済んだが、そう言う問題ではない。店へ入れば、不穏な笑みを浮かべる宇佐美上等兵と無愛想な顔をした尾形さんに挟まれたままの私を見た蕎麦屋の大将にも、気の毒そうな顔をされてしまった。
「すみませーん、ニシンそば3つね。天ぷらもつけて」
「…しいたけは抜いてくれ」
勝手に注文まで済まされてしまったので、諦めて腹ごしらえをしていくことにする。暖かい店内に手袋を外せば、その手を宇佐美上等兵に握られて、息が止まる。
「…冷たい手。でも綺麗だね。ちょっと荒れてるけど。ちゃんと手入れされてる手だ」
手の甲をすっと親指で撫でられて、背が粟立つ。思わず無言で手を引けば、宇佐美上等兵は少し目を丸くして笑った。
「大丈夫だよ、取って食いやしないよ。……今はね。」
「えっ」
「宇佐美、あまり揶揄ってやるな。男に馴れとらんお嬢様には刺激がお強いようだ」
私の表情を伺いながら、尾形さんは助け舟になりそうでならないような、微妙なことを言う。宇佐美上等兵は笑顔を絶やさず、大変機嫌が良さそうだ。
「そんな警戒しないでよー。僕たちはちょっと、みょうじさんと仲良くしたいなって思ってるだけだから。ね、百之助。」
話を振られた尾形さんは、ああ、と軽く返事をしただけであとは意味深な視線でこちらを見るだけだ。助けが期待出来ず、私は不自然に思われないよう愛想笑いを浮かべた。
その後、出てきた蕎麦を啜る間も宇佐美上等兵にしきりと話しかけられ、無難に返事をするのに必死で食べたものは殆ど味がしなかった。
「美味しかったね。みょうじさんも暖まった?」
「おいなまえ、お前給料出たんだろう。奢れ」
「……はい?何言ってるんですか、しがない新聞記者のお給金なんてたかが知れていますよ。帝国陸軍の上等兵ともあろう方が、小娘に奢らせるおつもりですか」
しれっと尾形さんから発せられた言葉に、私は思わず普段の調子で返事をしてしまった。それを聞いた宇佐美上等兵は私と尾形さんの顔を何度か見てから、静かに問うた。
「百之助、お前いつの間にみょうじさんを呼び捨てにするほど仲良くなったの」
「…さあな。お前には関係ないだろう」
「ふーん。…… みょうじさん、僕もみょうじさんのこと名前で呼ぼうかな。良いよね?」
「あ…、どうぞ、ご自由に……」
今の私は蛇に睨まれた蛙だ。きゅっと瞳孔の収縮した、剣呑な光を放つ宇佐美上等兵の前で、私は引きつった笑顔を見せることしか出来なかった。
「なまえさん、行こうか。今日は百之助の奢りね」
綺麗な笑みを浮かべて、宇佐美上等兵は席を立ち私の手を引く。尾形さんは諦めたのか、懐から財布を取り出していた。
結局、新聞社の前まで宇佐美上等兵(と、後ろに着いてきた尾形さん)に送られてしまい、私のあまりの疲弊ぶりに編集長にまで憐れまれたのだった。
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