そして、春はゆく 03.
8-03
一体どれくらい彼の背を追っているのだろう。私は馬を急かせながらふと思う。思い返してみれば、この旅は初めからずっと、彼を追っていた。私にとっての金塊争奪戦は、間違いなく尾形さんを中心に動いていたのだと、落ち着かない鼓動と共に振り返る。通り過ぎてきた事柄が次々と甦るのは、何を示しているのだろう。考えたくもないのに、走馬灯という単語が流れ去る景色と共に、浮き沈みを繰り返す。
荒涼と広がる灰色の野の中で、先程まで行われていた五稜郭での戦に引き出されたであろう軍馬を拾うことが出来たのは、運が良かったとしか言いようがない。猛然と地を走る列車を追うには、私の足はどうしたって遅すぎる。
よく調教されていたらしい軍馬は、不慣れな乗り手の早る気持ちをも敏感に察して、従順に駆ける。迷うことはない。この一本の鉄の道を辿れば、必ず追いつけるはずなのだ。
ーー先に待つものが、例えどんな厳しい結果であったとしても、私は目をそらさない。それはこの戦を追う記者としての、私の職務であり矜持だ。春とはいえまだ冷たい風を切る中、無性にこみ上げてくる涙が吹き飛んでいく。戦いの終焉が間近に迫っていることを、私の肌は本能的に察知していた。
うっすらと空に黒い霞が見えて、私は頭を上げる。薄煙の向こうへぐっと目を凝らせば、地の果てにぽつりと黒点があるのがわかる。あれは、と考えるまでもない。遂に列車を視界に捉えた。
「お願い、もう少し頑張ってッ」
私は馬に声を掛け、腹をひと蹴りした。応えて
を上げた馬は、ぐんと速度を増した。
と、その時だった。
微かな銃声と共に、ちいさな黒い星が列車と思しき影から離れるのが見えた。……常人並みの視力しか持ち得ない私がそれを捉えられたのは、何かしかの力ーーある種の奇跡のようなーーが働いたとしか思えない。ざわ、と胸に言い知れぬさざなみが立つ。
かつて足を取られてはいけないと思った大きな引き潮が、いま再び私の足元にたどり着いたのだ。ざあと私の耳元で波が音を立てたように感じた。つめたい波飛沫が頬に散る。あの大波が呑み込むのは私ではなかったのかーー。
「尾形さんーーーッ!!」
大声で彼の名を呼ばう。波音にかき消されないように、精一杯彼の名を叫ぶ。
私は手綱を引き、馬首を線路から横へと転換させて、力一杯馬腹を蹴った。黒い列車は煙を吐きながら遠ざかっていった。
線路から少し離れた草むらの中に、尾形さんの身体はただ、あった。
私は馬から落ちるように飛び降りて、側へと駆け寄る。が、既に彼の命がここにはないことは、改めて確認するまでもなく理解できた。それでも私は彼の手首を握り、必死で脈を取る。残された命のかけらがないかと探らずにはいられなかった。しかしながら、まだぬるい体温を残した白い肌の下、感じ取れる鼓動はまったくなかった。
ひとつだけ残されていたはずの左目からはおびただしい赤が流れていて、それが私の手に、服に染み込んでいく。ぬるりとした質感は間違いなくそれが彼の血であることを私に伝えてくる。
私は今、尾形百之助の死を見ているのだ。
春霞のぼんやりとした空の下にいるはずなのに、どうしてこんなに世界が明るく見えるんだろう。視界がぱちぱちと瞬き、爆ぜて、ここにあるはずの尾形さんの輪郭がぼやけていく。気が薄れてしまいそうになっていることを妙に冷静に認識しながら、私はしばらくの間、ただ息をしていた。先程までうるさいほどなっていた己の鼓動はすっかり鳴りを沈め、凍りつく寸前のような鈍さで動き、樺太のあの極寒の地でも感じなかったほどの寒々しさが私を包む。
海岸から草原を抜ける風の音が、漣のように寄せては返す中、私は、たったひとりだった。
あふれる涙で焦点が定まらないまま、ゆるゆると目だけを動かして、堕ちた彼の様子を探る。
その手にはしっかりと銃が握られていて、今際の瞬間まで、尾形さんが狙撃手として生きたのだと知れたことは、私にとっては幸いだったのだろうか。
「尾形さん」
震える声で呼びかけても返事はない。
「尾形さん」
もう一度、名を呼んでも返事はない。
「おがた、さん……」
かたく動かない指先に自分の指を絡めてみても、憎まれ口のひとつも返ってこないなんて。
ーーこうなる日が来るかもしれないとわかっていたはずなのに、心は目の前の事実を理解することを拒絶する。もうどれだけ願っても、彼が私に返事をすることはないのだ。
彼は静かに眠っていた。
口元に、わずかに笑みが見える気がするのはどうしてだろうか。尾形さんは、最期の時に何を見て、何を思ったのだろう。
「聞きたいことが、たくさんあるのに、どうして……」
『知りたがり屋は若死にする』と、尾形さんにはこの旅が始まる前に忠告されたが、忠告した当人は私の知らぬところで果て、知りたがった私は今こうしてまだ生きている。私はこれから先、知る術のなくなってしまった尾形さんの思いを、当てどなく探し続けるしかないのだ。
ーーそのために、私が今この時、しなければいけないことは何だ。
「……行かないと」
まずは、この金塊争奪戦の結末を見届けなければ。
のろのろと一方的に繋いだ手を離し、私は尾形さんが握る歩兵銃を取った。共に行くことが叶わない今、せめて彼の魂を乗せたものと最後の場に赴きたいと思ったのだ。ずっしりと重いそれを肩にかけ、動かない尾形さんに声をかける。
「尾形さん、これ、少しだけお借りします。片付いたら戻りますから、それまで待っていてください」
そう言いながら艶やかな黒髪を撫でる。落ちる涙がさながら末期の水のように、彼の上に降り注ぐ。ともすれば泣き崩れてしまいそうになる気持ちを必死で押し留め、私は一度だけ彼を抱きしめて、ほんの一瞬だけ額に唇を寄せた。すっと香る尾形さんの匂いに、また喉の奥から嗚咽が漏れそうになった。
そうして傷ついた彼の顔を覆うように外套を被せ、私は立ち上がる。ぐっと顔を上げて、乱暴に袖で涙を拭った。深呼吸をひとつすると、馬が気遣わしげにこちらへと擦り寄って来た。
「良い子。……あと少しだけ、付き合ってくれるかな」
首筋を撫でながら声を掛けると軍馬は鼻を鳴らした。暖かい、生きたものの気配にたまらなくなった私は、馬の首に腕を回してたてがみに顔を埋めた。獣のにおい、生あるものの感触。側にある死から目を背けて、私はまだこちら側の存在であることを認識する。行かなければ。
『なまえ、お前は新聞記者なんだろう。こんなデカい山を逃すのか』
皮肉げないつもの口調で、尾形さんの声が耳を打った気がしたのを弾みとして、私は馬に跨る。手綱を握って、もう一度、尾形さんの方を見る。
「必ず、迎えに来ます」
たった数刻前、彼が私に約束した言葉を、今度は私が口にする。そうして後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、私は馬を走らせた。ひとりきりで、鉄の道を辿って、この戦いの終着点へ。
何度も近くで見たはずなのに、結局撃ち方なんてわからない、尾形さんの銃を背負って。
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