飛花追想記/殉情録 | ナノ

そして、春はゆく 02.




五稜郭。
尾形さんと共に辿り着いた決戦の地には、暗い闇の中銃弾の音が響いていた。
江戸の世の末に幕府が築造した城郭。函館戦争では旧幕府軍が占拠し、本拠地として使用した場所だ。土方さんにとっては因縁の地に違いない。彼は今、どんな思いでかの地を踏んでいるのだろう。ーー潰えた夢をこの場所から再び、とあの鋭い瞳を爛々と輝かせているのだろうか。
尾形さんは城郭の周囲にしばらく馬を走らせた後、最終的に五稜郭を覆うように植えられた、防風林の中で静かに馬を止めた。ちょうど五稜郭の北に面した場所だ。
「ここで良いんですか」
「狙撃手がわざわざ弾の飛び交う場所へ突っ込む必要はない」
私が投げた疑問に、尾形さんは端的に答える。それは最もな回答で、私は頷いて馬を降りた。尾形さんも続いて下馬し、手近な木に馬の手綱をくくりつけて周囲をしばらく見渡した後、目星をつけた木の上へと登って行く。
「なまえ、お前はそこにいろ」
不安げな顔をしていただろう私を見下ろして、彼は言う。それに小さく頷き、私は木の根元へと腰を下ろした。
目を凝らして林の向こう側、城郭のある方を見る。空には薄煙が上がっていて、そこで何かしらの騒動が起きていることはわかる。しかし双眼鏡も持たない私には、それ以上のことを見ることは叶わなかった。
あの銃弾の飛び交う場所にアシリパさんも居るのだろうか。図らずもこの金塊争奪戦の中心に位置している少女のことを思う。彼女はあの澄んだ深い湖のような瞳で、数々の惨状を見て来たのだと思うと、今更ながらに胸が軋む。鶴見中尉の金塊と権利書への並々ならぬ執念は、彼女を追い詰め食らいつく。共に旅をしていた尾形さんにも暗号の鍵を漏らさなかったアシリパさんが、鶴見中尉にそれを教えてしまったところを考えると、余程のことがあったのだろうと推察された。
どうして彼女ばかりが……とも思うが、きっとアシリパさんは私の勝手な同情など欲しはしないとも思う。彼女は強い人だから。そして、彼女の側には杉元さんも、白石さんも付いている。
「心配されるのは私の方なんだろうな」
共に旅をしていた最中、事あるごとに私に気を配り世話を焼いてくれていた彼女のことを思い、私は小さく笑った。

気付けば夜明けに近くなり、空が白々と明けていく。夜間は落ち着いていた銃声がまたこだまし始め、戦いが再開されたことを私たちに知らせる。
尾形さんは木の上でずっと、双眼鏡を構えて戦況をうかがっている。こういう場に居合わせると、彼の狙撃手としての忍耐力と執念は抜群のものだと思い知らされる。じっと身を潜め、機会を窺い、その目で捉えた獲物を確実に射抜く。私はそこに、彼の矜持を見る。孤高の存在である彼の戦い方だ。
朝日が登り始めた頃合いに、どうやら戦況は次の局面へと移ったようだ。私の耳にも小さく馬の蹄の音が聞こえて来た。……どちらかが状況の不利を見て、五稜郭から撤退を図っているのだろう。
樹上の尾形さんを見上げると、ぐっと身を固くして銃を構えている。銃口の先に捉えるものは、誰なのだろうか。いくつもの顔が目の前に浮かび上がり、私の胸にひやりとしたものが伝う。尾形さんと共にあると決めたこの期に及んでまだ、私は戸惑いを消すことが出来ない。
揺れる心を抱えたまま、尾形さんが銃を向けた先に私も目をこらす。しんと静まり返った林の中、遠くから馬の嘶きと、ざわついた気配が伝わってきた。それと、走り去るいくつかの影。駆け去る人影に尾形さんは発砲しない。……どうしたのだろう。
と、そう思った次の瞬間、激しい発砲音が頭上から降って来た。それに間髪入れず、どこからかこちらに向けて同じように響く銃声。私はハッと頭を抱えてうずくまった。銃の音はそれ以上続くことはなく、また林の中は静寂に帰る。
ぱたり、ぽたり。粘度のある液体の落ちる微かな物音に、閉じた目を開けて視線を地面へと落とすと、真っ赤な血が枯れ葉を染めていた。誰がこの血を流しているのか、聞くまでもない。
「尾形さん……!」
「うん……仕留めた!!」
私は樹上へ向けて叫ぶと、それには答えず、ただ満足気に呟く尾形さんがいた。
仕留めたとは、一体誰を……? 
疑問に思う私を置いてけぼりにして、尾形さんは自分に言い聞かせるように言葉を継いだ。
「もしお前が無事なら今の一発…足で済んでるはずがない」
そう言って双眼鏡を下ろした彼は、木から滑り降りた。
尾形さんの足から流れる血はゆっくりと地面を朱に染めていくが、彼は全く気にする素振りも見せない。目標を撃ち抜いた高揚感が彼の全身を覆っているのが、こちらの肌にまで伝わってくる。気持ちが昂っているせいか、痛みもあまり感じていない様子だった。私にしかその色は見えていないのだろうか。視線を外しても鮮明な赤は残像のようにちらつく。
私は懐から手巾を出し、黙ってそれを傷口に当てた。そして血を止めようと強く圧迫する。尾形さんはそこでやっと、己の怪我の具合を理解したらしい。物入れから手拭いを取り出したので、それを受け取り、手巾の上から巻き付け、しっかりと縛った。
「子熊ちゃんが逃げちまった」
されるがままだった尾形さんは、また双眼鏡を覗き込み呟く。小熊ちゃん、ということは……谷垣さんまでこの決戦の地にやって来ているのか。彼は杉元さんに聞いたところによれば、鶴見中尉と彼らが樺太で邂逅した際に離れてしまっていたはずだが。
と、尾形さんが不意にしゃがみ込み、俯いていた私の顔に手を添え視線を合わせてきた。

どうしましたか、と問おうとした言葉は、彼の唇にふさがれて永遠に発することはできなかった。
至近距離で覗き見る尾形さんの瞳は深くて黒くてーーその中に一縷の感情が揺れていた。不器用で無愛想で、それでいて声に出さない言葉は雄弁な彼が私に向けた、感情のかけら。それは西洋のことばで『愛』と称される情だと思った。
……これは私の都合の良い解釈なのかもしれない。それでも私は、私だけに見ることが許された、彼の本心がそこにあったのだと信じたかった。

ほんの一瞬の触れ合いの後、尾形さんはすっくと立ち上がった。そうして繋いでいた馬の引き綱を解き、足の怪我を感じさせない身のこなしで、ひらりと鞍に跨った。
「えっ、尾形さん……」
「なまえ、お前はここで待て」
馬首を返し、彼は私を見下ろして言う。有無を言わせない口調で。逆光に照らされた彼の表情はよく見えないが、白目だけがくっきりと光って見えた。
「ここで待てって、そんな、」
「……迎えに来る」
そう言い置き、尾形さんは外套を翻し馬を走らせてしまう。置いてけぼりの私は、突然の別れに呆然と立ち尽くした。あっという間に視界の中の馬の影は小さくなって、朝の光に消えていく。
「そんな、そんな……」
震える唇に残ったかすかな温もりに触れた後、私は弾かれるように走り出した。なりふり構わずただ、馬が消えていった方向へと私は走る。
『迎えに来る』という彼の言葉自体は嬉しくあった。それだって今まで与えられることが無かった彼の感情の発露だから。しかし、それでも足を止める考えなどひとつも湧かなかった。代わりにふつふつと胸に湧き上がるのは、尾形さんへの怒りだ。
ーー追って来いと言ったのはあなたでしょう。ここまで来て、今更、置いて行かれてたまるもんか、と。

遠くに列車の走る音が聞こえる。汽笛の音が遠ざかっていく。辺りの喧騒はとうに無く、私の耳に届くのは己の荒い息と張り裂けそうな鼓動だけだった。

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