飛花追想記/殉情録 | ナノ

はじまりの中の赤 07.



私たちを乗せた馬は軽やかに東京の街を駆け、あっという間に陸軍士官学校へと着いた。背後の男はさっと馬を降り、私にまた手を差し伸べる。
「一人で降りられます」
「そう言うなよ、袴姿の女学生に手も貸さないなんて噂になると、俺が今後やりにくいんだ」
軍曹がちらと目線で示した先を見れば、士官学校に通う生徒と思しき青年たちがこちらの様子を伺っていた。なるほど、と私は得心して、片側に足を揃えて伸べられた手を取る。がっしりとした手に支えられて飛び降りようとすると、男のもう片方の手が私の腰に添えられ、ふわりと抱き下ろされた。
「……な、」
「怪我でもされたら大変だからな」
軍曹は目を細めて笑い、無骨な手のひらがするりと私の頭を撫でる。まるで幼な子をあやすように。…彼の目に見えている私は、かつて父に連れられ馬に乗っていた、子どもの頃の私なのだろうか。そう思うと、何故か胸がちくりと傷んだ。
「さあ、お嬢様こちらです。第一師団の中佐殿と、少尉殿がお待ちです。」
先程までと打って変わった、慇懃な口調に改まった軍曹に、私も表情を外向けのものに変える。ただのみょうじなまえではなく、『立花の孫娘』のものに。そして軍曹へ綺麗に微笑み、尊大に伝える。
「手短にお願い致しますね。わたくしも暇ではありませんので。」

士官学校の応接間に居たのは、やはり以前見合いをした彼の少尉だった。彼は私の姿を認めるとぱっと明るい笑顔を咲かせる。絵に描いたような好青年、というその印象は以前と変わらない。その横にいるのが大伯父に頼んで来た中佐だろう。
「みょうじなまえ嬢をお連れしました」
「うむ、ご苦労。」
軍曹は敬礼をし、扉の横に控える。私は中佐に示された、二人の前の椅子に腰掛けた。
「強引にお連れして済まんね。どうしても彼が、君のことが忘れられないと言ってね…」
「すみませんなまえさん。私が叔父上…中佐殿に無理をお願いしたのです。あなたにもう一度、私との縁談を考えて頂きたくて。」
頬を紅潮させながら、少尉は私に熱っぽく語りかける。あの日以来にお会いできたが、やはりあなたはお美しい、私は今はまだ少尉の身だがこの先陸軍大学校を受験し立派な将校になります、あなたに苦労はかけません、家に入って下さいとは言いません、働きたいと言うならそれも自由にしてくれて構わない……。
「必ず、なまえさんを幸せにしますから、どうか受けて頂けませんか」
ぼんやりと少尉の声を聞き流していたが、その言葉にはっとして視線を上げて呟く。
「…幸せって、何なのでしょうね」
「はい…?」
少尉は困惑した様子で私を見つめる。整った容姿に朗らかな性格、将来も有望な青年にこれだけ愛を語られても、私の心は凪いだままだ。きっと穏やかな生活を送ることは出来るだろうが、さざなみすら立たない感情を抱いて生きることは、果たして幸せなのだろうか。そう思えば、後に続ける言葉は簡単だった。きちんと彼の目を見て、私は言う。
「少なくともわたくしにとっては、あなたとの婚姻で得られるものではないようです。それが確認できて良かった。…大変申し訳ございませんが、やはりこのお申し出はお受け出来ません。お引き合わせ頂いた中佐殿にもお詫び申し上げます。」
私は深々と頭を下げて席を立つ。少尉の落胆し血の気の引いた顔に罪悪感が募るが、絆される程の情も湧いてこなかった。
「いや、こちらこそ今日は無理を通して済まなかった。軍曹、みょうじさんをご自宅までお連れしろ。… みょうじさん、立花様にも宜しくお伝えください。またご挨拶に伺います、と」
中佐の声に軍曹は短く返事し、私と共に部屋を出る。バタン、と扉を閉じる音がやけに重々しく響いた。

「おつかれさん」
「…ありがとうございます。少し、疲れました」
建物の外へ出てから小さな声で労われ、私はやっと我慢していた溜め息をついた。人の好意を無下にするのは、流石に胸も痛むし疲労感を覚える。
「帰りも馬で良いか?疲れているなら馬車を拾うが」
「馬の方が良いです。風に当たればすっきりするかと思いますので」
私が答えると、軍曹はまた目を細めて私の頭を軽く撫でた。大きな手のひらの感触は一瞬で離れたのに、触れられた場所が騒めき続けるのは何故だろう。先程の少尉の言葉には少しも動かなかった心が、この人のほんの少しの仕草で揺れ動くのはどうしてだろう。
きゅっと唇を引き結び、飛び出しそうになる何かを堪える。馬房へ向けて歩き出した軍曹の広い背を追い、私も続いた。
夕陽の中を私たちを乗せた馬は駆ける。少し肌寒さを感じるほどだが、火照った頬と頭にはこのくらいがちょうど良かった。軍曹は黙って馬を走らせる。そうして気持ちを整理する間もなく、自宅前まで着いてしまった。厨の方から夕飯の支度をする音が聞こえ、秋刀魚の焼ける匂いが薄く漂う。馬の足音に気付いた年配の女中が、勝手口から小走りに出迎えにやって来た。
「お帰りなさいまし、お嬢様」
「ただいま戻りました。遅くなりました」
そうして送ってくれた軍曹へ向き直る。彼は夕陽に目を細め、馬へ跨ろうとしていた。
「お嬢様をお送り頂きありがとうございます。宜しければ、お夕飯召し上がって参りませんか」
「…いや、礼には及びません。職務ですから」
愛想笑いをしてやんわりと女中の申し出を断る軍曹に、私は合いの手を入れることにした。
「せっかくですし、是非寄って行ってください軍曹殿。今から帰られても、夕食の時間が遅くなってしまいますし。ねえ?」
「そうですよ!大旦那様からも持て成すよう言い使っておりますし。直ぐに用意致しますから」
精悍な軍人のお客様に、女中も上機嫌で厨へ戻って行った。下男を呼び、馬に水をやるよう申しつけて軍曹を室内へ訪う。客間へ通そうとすれば「いや、そんな大層なことはしないでくれ」と固辞されてしまい、結局厨の側の座敷へ落ち着いた。
「アンタもここで食うのか」
「だって、軍曹殿はこちらで召し上がるんでしょう?なら私もご一緒します」
私がさも当然のように向かいへ座れば、軍曹は困った顔を隠しもせず頭を掻いていた。茶を淹れて出すと、軍曹はそれをすすりながらしばらく落ち着きなく座っていたが、ふと私に問うてきた。
「今日の話、本当に断って良かったのか。あいつは士官学校時代から優秀だったし、あの中佐の親類だ、将来が約束されているぞ。アンタのやりたいようにして良いと言っていたじゃないか」
「…まるで私の父親のような口振りですね」
「俺に子どもが居たら、アンタくらいの年頃だったかもな」
笑いながら言う軍曹の眼差しに、淡い憧憬の色が見えて、私の胸がまたじくりと痛んだ。
「……軍曹殿は、」
「ああ、俺は独り身だ。軍人として身を立てるのに必死でな。まあ、甲斐性もねえし…」
そこまで話したところで、女中が夕食を運んできたので軍曹はその話を止めてしまった。女中が甲斐甲斐しく給仕し、軍曹も当たり障りのない会話をしながら旺盛に出されたものを食べていく。私はそんな彼を見ながら、食事を口にする。食べた魚は、ほろ苦い味がした。



「…で、その軍曹とはそれっきりか」
「何度かお顔は合わせましたけど、立ち話程度です。最後にお会いしたのは戦争がもうすぐ始まる頃でしたね。…だから、そんな大した話じゃないんですって」
酒を傾けながら言う尾形さんに、私も湯飲み茶碗に口をつけながら思い出す。戦争が始まる気配に満ちたあの時、彼に無事を祈って小さな御守りを手渡した。彼は大事そうにそれを受け取り、胸元へと仕舞い込んでくれた。彼の目尻の笑い皺と見送った背中には、最初に会った時と同じような寂しさの影が見えたが、それを払うことが出来るのは私ではないのだろうと感じたのだった。
「従軍されてからどうされたのか…菊田軍曹殿、生きていらっしゃると良いんですが」
「…は?」
「何ですか藪から棒な顔をして」
私がこぼした言葉に妙な反応をした尾形さんは、眉間に皺を寄せながら手にした茶碗を卓に置き、真っ直ぐにこちらを見る。
「なまえ、今お前、何て言った。そいつの名前だ」
「え?菊田軍曹殿ですけど。菊田…杢太郎さん」
私が言うと、尾形さんは何故か俯いて長々と息を吐いた。そして言った。
「…菊田さん、今第七師団に居るぞ」
「えっ!?え、で、でも軍曹殿は第一師団に…」
「第一師団から第七師団へ転籍された。今は特務曹長だぞ、あの人。大陸から引き揚げた後、今は登別で療養中だ」
菊田軍曹が?今、この北海道に居て、第七師団に所属されている…?
尾形さんのその言葉を聞いた瞬間から、一気に顔が火照り、酔いが回ったのか頭もぐるりと回り出した。私は勢いよく茶碗を卓に起き、わなわなと震える手で熱を放出する頬を押さえる。彼が生きていた、と言う単純な喜びの感情と共に、今自分が目の前の男に聞かせた昔語りを思い出して、恥ずかしさの余り声にならない唸りを上げてしまう。頭を抱え卓に突っ伏した私の頭上で、尾形さんがくつくつと笑い声をこぼしていたが、私にはそれを拾う余裕も無かったのだった。

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